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二・二六事件昭和11年2月26日、「昭和維新」を掲げて決起した陸軍の青年将校たちがおよそ1400人を率いて東京の中枢を占拠し、政府要人ら9人を殺害したものです。


公開された音声は当時の侍従長で襲撃を受けて、ひん死の重傷を負った鈴木貫太郎の妻 タカが、事件の様子をのちに語ったものです。


この中では、鈴木が将校に対して「何事が起こってこんな騒ぎをしているのか。話したらいいじゃないか」と呼びかけたことや、タカが「とどめだけはどうか待ってください」と訴えたことなどが記録されています。


鈴木は事件のあと、敗戦の色が濃くなるなかで総理大臣を務め、戦争の終結に道筋をつけました。


野田市教育委員会の笹川知樹さんは、公開された音声について「事件で何が起きたのかが臨場感と共に伝わってきます。歴史の1ページを知ってほしい」と話していました。


この音声は、野田市の「鈴木貫太郎記念館」で11月4日まで公開されています。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150822#1440240042(“官軍”が始めた無謀な戦争により滅亡の瀬戸際まで追い込まれた日本を救ったのは、鈴木貫太郎、米内光政ら賊軍出身者だった――。)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150720#1437388694終戦時の宰相、鈴木貫太郎の就任第一声「一利を興すは一害を除くに如かず」)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150714#1436870904(亡くなる時に「永遠の平和 永遠の平和」と呟いたという。)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140905#1409914345ノモンハン事件
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140815#1408099476(3月25日、赤阪で山本玄峰鈴木貫太郎と会談、「事態を収拾できるのはあなただ」と言った。やがて鈴木に終戦内閣の大命が下り、日本はポツダム宣言を受諾した。)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140526#1401101487(「日本のいちばん長い日」)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20130227#1361976014侍従長鈴木貫太郎の妻「たか」の証言を録音したテープが、千葉県野田市の住宅で見つかりました。)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20090515#1242382228(大学生の頃私は何度か父と一緒に歌舞伎を観る機会がありました。父母のほかに、終戦時の総理大臣であった鈴木貫太郎氏の未亡人も御一緒だった事があります。たまたまその月の出し物に「先代萩」がありました。幼君を守ってさまざまに苦慮する政岡の芝居に鈴木夫人はハラハラと落涙され通しでした。芝居がはねてから夫人は、「お上のお側にお仕えして居りました頃を思い出しまして」と又少し涙ぐまれました。夫人は貫太郎氏と結婚される前は宮中の女官としてまだお若い天皇陛下のお側近くに居られた方でした。当時は軍に不穏な動きがあったりして陛下の周囲の人々は緊張した生活を送られたのだそうです。)


一番必要なことは、国民に悲劇しかもたらさない戦争を正しく認識し、再び繰り返さないという国民の覚悟です。その覚悟で政治は形作られます。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180809#1533811848(現在に通じ、将来に通じる真理、重要なポイントだけの風化を許さず、あとは寧ろ風化させてしまう事こそ、大きく見て大切なことなのでは無いか)


本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。


終戦以来既に73年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。


戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

全国戦没者追悼式での天皇陛下のおことばは、昭和天皇の時のおことばの骨子も踏まえ、即位以来、基本的な内容は毎年踏襲されてきました。


この中で天皇陛下は、戦争の犠牲者を悼み遺族に思いを寄せるとともに、世界の平和と日本の発展を願う気持ちを表されてきました。


戦後50年を迎えた平成7年には、結びの一文に「歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い」という言葉が加えられました。


その後は、おことばの内容に大きな変わりは見られず、平成13年以降は毎年同じおことばが続きました。


そうした中、戦後70年を迎えた平成27年天皇陛下は14年ぶりにおことばを変え、戦後の日本の歩みを振り返る部分に、多くの言葉を足されました。


まず今日の平和と繁栄を支えたものとして、「国民のたゆみない努力」に加え、新たに「平和の存続を切望する国民の意識」という表現を使われました。


そのうえで例年、「苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません」としていた部分を「戦後という、この長い期間における国民の尊い歩みに思いを致すとき、感慨は誠に尽きることがありません」と言いかえられました。


さらに戦没者を追悼し平和を願う結びの一文に「さきの大戦に対する深い反省と共に」という言葉を加えられました。


戦没者追悼式での天皇陛下のおことばがこれだけ変わるのも、「反省」という言葉が盛り込まれたのも、このときが初めてで、それ以降は結びの一文に「深い反省」という言葉が使われるようになりました。


そして最後の出席となった今回も「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」と戦後を振り返ったうえで、そうしたおことばを述べられました。


戦後50年を迎えた平成7年には「慰霊の旅」に出かけ、まず、被爆地の長崎と広島で原爆による犠牲者の霊を慰められました。続いて、住民を巻き込んで激しい地上戦が行われた沖縄を訪れ、沖縄戦最後の激戦地、糸満市戦没者の墓苑に拝礼されました。


この前年の平成6年には小笠原諸島硫黄島を訪れ、飢えや渇きに苦しんだ戦死者を思い、慰霊碑に水をかけて白菊を供えられました。


戦後60年にあたっては、太平洋の激戦地サイパンを訪れ、多くの日本人がアメリカ軍への投降を拒んで身を投げた「バンザイ・クリフ」などで黙とうをささげられました。


両陛下の外国訪問は、通常、相手国からの招待を受け国際親善のため行われますが、戦没者の慰霊を目的としたこの訪問は、天皇陛下の強い希望で実現した前例のないものでした。


また、戦後70年にあたっては、前の年に再び、沖縄と長崎、広島を回ったのに続いて、念願だったパラオへの訪問を果たし、激戦地ペリリュー島で犠牲者の霊を慰められました。


両陛下は、外国を親善訪問する際にも戦没者の慰霊に臨んでいて、おととし、フィリピンを訪れた際には、日本政府が建てた慰霊碑などを訪れ、犠牲者を追悼されています。


そして、来年春の天皇陛下の退位を前に、ことし3月には、11回目となる沖縄への訪問を果たし、これまで同様、最初に戦没者の慰霊に臨まれました。

昭和天皇の長男で皇太子として生まれた天皇陛下は、戦争が続く中で子どもの時期を過ごし、11歳で終戦を迎えて疎開先から戻られると、東京の街は焼け野原でした。


天皇陛下は、即位10年に際しての記者会見で当時を振り返り、「私の幼い日の記憶は、3歳の時、昭和12年に始まります。この年に廬溝橋事件が起こり、戦争は昭和20年の8月まで続きました。したがって私は戦争の無い時を知らないで育ちました」と述べられています。


昭和50年には皇太子として国際海洋博覧会の開会式に出席するため、初めて沖縄を訪問されました。


戦後30年を経ても県民の間に皇室に対する複雑な感情が残る中、女学生たちの慰霊碑「ひめゆりの塔」を訪ねられた際には、訪問に反対する過激派のメンバーに火炎瓶を投げつけられます。


しかし、その後も予定を変えることなく沖縄戦の遺族との面会を果たし、これ以来、天皇陛下は折に触れて沖縄を訪れ、戦争の歴史と向き合われました。


昭和56年の記者会見で天皇陛下は、日本では記憶しなければならない4つの日があるとして、終戦の日と広島、長崎の原爆の日、それに沖縄戦で旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日の「慰霊の日」を挙げられます。


そして、「この日には黙とうを捧げて、平和のありがたさというものをかみしめ、また、平和を守って行きたいものと思っています」と述べられました。


天皇陛下は平成4年には歴代の天皇で初めて中国を訪問し、国家主席主催の晩さん会で「わが国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」と先の大戦について触れられました。


そのうえで、「戦争が終わった時、わが国民は、このような戦争を再び繰り返してはならないとの深い反省にたち、平和国家としての道を歩むことを固く決意して、国の再建に取り組みました」と述べられました。


戦後50年を迎えた平成7年、天皇陛下は皇后さまとともに「慰霊の旅」に出かけ、長崎や広島、沖縄などを訪ねて戦没者を追悼されました。


この年の記者会見では「希望に満ちた人生に乗り出そうとしていた若い人々が戦争により、また、厳しい環境の中で病気により亡くなったことを深く哀惜の念に感じます。今日の日本がこのような犠牲の上に築かれたことを心に銘じ、これからの道を進みたいものと思います」と述べられました。


天皇陛下は即位以来、毎年8月15日の終戦の日に全国戦没者追悼式に出席し、戦争が再び繰り返されないことを願うおことばを述べられてきました。


平成18年の記者会見では、戦後生まれの人が年々多くなってくる中で、戦没者を追悼することは世界や日本の過去の歴史を顧みる一つの機会となるとして、「過去のような戦争の惨禍が二度と起こらないよう、戦争や戦没者のことが、戦争を直接知らない世代の人々に正しく伝えられていくことを心から願っています」と話されました。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180323#1521801382
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180307#1520419447


この中で、安倍総理大臣は「今日の平和と繁栄が戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、私たちは片ときたりとも忘れません。改めて衷心より、敬意と感謝の念をささげます」と述べました。


そのうえで、安倍総理大臣は「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。歴史と謙虚に向き合い、この決然たる誓いを貫いてまいります。争いの温床となるさまざまな課題に真摯(しんし)に取り組み、万人が心豊かに暮らせる世の中を実現することに、不断の努力を重ねてまいります。今を生きる世代、あすを生きる世代のために国の未来を切りひらいてまいります」と述べました。


終戦の日の15日、東京千代田区靖国神社では、総理大臣や閣僚に参拝を求める団体が集会を開き、主催者の発表でおよそ1600人が参加しました。


この中で、自衛隊の元最高幹部で、「英霊にこたえる会」の会長、寺島泰三さんが「憲法政教分離規定により、総理大臣などの靖国神社参拝は問題視されている。国家として英霊を公におまつりするため、憲法改正は喫緊の課題だ」と述べました。


また、杏林大学名誉教授で「日本会議」の会長を務める田久保忠衛さんは「アメリカにトランプ大統領が登場し、国際情勢は様変わりした。日本には有形無形の圧力が加わるだろう。そのための備えが必要だ」と述べました。


集会では総理大臣の靖国参拝を求めるとともに、憲法改正の実現を誓う声明を発表しました。


参加した36歳の男性は「日本が平和な国であるためには、憲法を改正して軍隊を持ち、外国の脅威に備える抑止力を持つべきだと思います」と話していました。


連絡会の代表で、ビルマ戦線で兄を亡くした西川重則さん(90)は「今の憲法にふさわしい平和な国を誰が作るかといえば、私たち国民です。憲法を習熟する努力を続け、国民一人一人が平和について考えていきましょう」と訴えました。


そして、戦争で亡くなった日本やアジア各国の人たちを追悼するため、出席者全員で祈りをささげました。


78歳の男性は「子どもたちのために平和を引き継いでいかなければなりません。二度と大きな過ちを繰り返さないために平和主義に基づく今の憲法を守っていきたい」と話していました。


また、叔父が戦死したという76歳の女性は「日本だけでなく、アジア各国で多くの人が亡くなった歴史を見つめて平和憲法を絶対に変えてはならないという意識を持ち続けたい」と話していました。


僕が自分なりに調べたところでは、どう考えても、戦前の日本社会は嫌だ。特に軍部が歯止めなく増長してきた昭和初期から大戦突入に至るまで、もちろん戦時中の軍部のあの態度振る舞いも含めて全てにおいて、とてもじゃないが我慢できない。

僕も戦前に暮らしていたらどうなっていたか。いまと同じ調子でやっていたら監獄にぶち込まれていただろう。でもそんな軍の強い社会においては、ビビッておとなしくしていたかもしれない。


たぶん、今、威勢のイイことを言って、戦前の社会を肯定する人たちは、戦前の社会体制の下ではおとなしくいい子ちゃんになっているパターンが多いと思う。


こんな今の日本と戦前の日本を比べて、戦前の方がいいというのは僕には理解できない。戦前の日本の方がいい、という人たちは、紙一枚で軍に入らされ、上官からは暴力を受け、戦地に送り込まれても、また何か政府批判をすればすぐに監獄に入れられて拷問を受けてでも戦前の日本の方がいいと言うのかね。

太平洋戦争が避けられていたら、軍は残っていただろう。ましてや戦争に勝っていたらどうなっていたか。当然、明治憲法下の政治行政がそのまま残る。もちろん、その後の時代の変化に伴って、日本の政治行政の仕組みも徐々に変わり、最終的には今と同じほどの自由を国民が享受することになるだろうが、それにはもっともっと長い年月がかかるだろう。敗戦を経験することで、我々は猛スピードで、今の自由を享受することができた。このスピードのために300万人以上の犠牲が必要だったと言い切れるのか、ここが悩みだ。


確かに300万人以上とも言われる犠牲者が出たことを、簡単に肯定するわけにはいかない。しかし、あの太平洋戦争に負けたことが、今のように国民が世界でも珍しいくらい広く大きな自由を享受することができるようになった決定的要因なのではないか。

菅 - Wikipedia

(すげ・すが・かん)