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戦後74年となる「終戦の日」の15日、安倍総理大臣のほか、安倍内閣の19人の閣僚は、いずれも靖国神社に参拝しませんでした。

終戦の日に閣僚が1人も靖国神社に参拝しなかったのは、おととし、去年に続き3年連続となります。

一方、安倍総理大臣は、15日、自民党の稲田総裁特別補佐を通じて、自民党総裁として私費で、靖国神社玉串料を納めました。

安倍総理大臣は、第2次安倍内閣が発足して1年後となる6年前、平成25年12月に靖国神社に参拝しましたが、それ以降は参拝しておらず、「終戦の日」には、毎年、私費で玉串料を納めています。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑には、第2次世界大戦で戦死し、名前が分からないため遺族に引き渡すことのできない遺骨が納められています。

安倍総理大臣は、「終戦の日」の15日、日本武道館で行われる政府主催の「全国戦没者追悼式」に出席するのに先立って、午前11時すぎに戦没者墓苑を訪れました。

そして安倍総理大臣は、花束をささげて深々と頭を下げ、戦没者の霊を慰めました。

令和になって初めてとなる式典には、全国から遺族の代表など6201人が参列しました。
ことしは台風10号の影響で宮崎県の遺族など64人が急きょ出席を見送りました。

天皇陛下は、皇后さまとともにことし5月に即位されてから初めての出席となる式典に臨み、菊の花で飾られた式壇に着かれました。

続いて安倍総理大臣が「今、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、私たちは決して忘れることはありません。いまだ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも決して忘れません。ご遺骨が一日も早くふるさとに戻られるよう、私たちの使命として全力を尽くしてまいります。戦争の惨禍を二度と繰り返さない。この誓いは昭和、平成、そして令和の時代においても決して変わることはありません」と式辞を述べました。

そして、参列者全員で1分間の黙とうをささげました。
続いて天皇陛下が「さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことをせつに願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります」とおことばを述べられました。

このあと遺族を代表して、昭和19年12月に東部ニューギニアで父親を亡くした横浜市南区の森本浩吉さん(77)が「私たちの多くは父の顔も知らず、父との記憶思い出さえない忘れ形見の遺児です。戦没者の遺骨収集を国の責務と明記した法律に基づきご遺骨の一柱でも多く一日でも早く祖国帰還が叶いますことを遺族は強く望んでいます。今日、平和を享受しているのは多くの尊い犠牲が礎であることを決して忘れることなく、感謝し偲んでいただく日々となることを望んでいます」と述べました。

式典では、このあと、参列者が式壇に菊の花を手向けて、戦争で亡くなったおよそ310万人の霊を慰めました。

終戦から74年を迎えて遺族の高齢化が進み、参列した遺族のおよそ8割が70歳以上となり、戦没者の妻は5人にとどまっています。
その一人で、最年長の参列者でもある東京都に住む97歳の内田ハルさんは、昭和20年6月に沖縄で、夫の憲司さん(当時36)を亡くしました。
内田さんは「毎年欠かさず参列しています。戦争は絶対いけません。私のような悲しい人がいっぱいいる。二度としてはいけない」と話していました。

また、戦争の記憶を受け継いでいこうと、18歳未満の若い世代が95人式典に参列しています。
このうち香川県の中学3年生、三谷昇大さん(14)は曽祖父の※カン吾さんが昭和20年にビルマで戦死しています。
三谷さんは「修学旅行で行った沖縄で実際にひめゆりの塔やガマを見学して戦争の悲惨さを思い知りました。きょうは、ひいおじいちゃんへの慰霊の気持ちをしっかりともって、献花したいです」と話していました。

※「かん」は貫にうかんむり

宮内庁によりますと、上皇ご夫妻も、お住まいの吹上仙洞御所で、テレビの中継番組を通じて戦没者追悼式をご覧になりました。
そして、正午の時報とともに、黙とうをささげられたということです。

終戦から74年を迎えた15日、天皇皇后両陛下は、東京の日本武道館で行われた全国戦没者追悼式に臨まれました。

両陛下は、これまで毎年終戦の日にはお住まいなどで黙とうしてきましたが、代替わりを経たことし、上皇ご夫妻にかわって初めて式典に出席されました。

そして、正午の時報とともに参列者全員で黙とうをささげたあと、天皇陛下が、戦後生まれの天皇として初めてとなる、おことばを述べられました。

天皇陛下は冒頭で、これまでの上皇さまと同様、「さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします」と述べられました。

そして、戦後の日本の歩みを振り返る部分では、上皇さまのおことばの「苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません」という表現を、「多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります」と言いかえられました。

そして、戦没者を追悼し平和を願う結びの一文では、上皇さまの「深い反省とともに」という表現を、「深い反省の上に立って」と言いかえ、「再び戦争の惨禍が繰り返されぬことをせつに願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります」と述べられました。

天皇陛下のおことばは、戦争を体験していない世代として言い回しが変えられた部分はあるものの、「深い反省」という表現など、上皇さまのこれまでのおことばをほぼ踏襲し、戦争と平和への思いを受け継ぐものとなりました。

式典の会場では、参列した遺族の代表らが、天皇陛下のおことばにじっと耳を傾けていました。

本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。終戦以来74年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

戦後生まれの天皇陛下は、上皇さまの思いを大切に受け継ぎながら、戦争の歴史と向き合い平和を願われてきました。

上皇さまは以前、日本では記憶しなければならない4つの日があるとして、終戦の日と、広島、長崎の原爆の日、それに、沖縄戦で旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日の「慰霊の日」を挙げ、これらの日には欠かさず黙とうされてきました。

天皇陛下も子どもの頃から、これらの日には黙とうし、上皇ご夫妻から戦争の悲惨さについて話を聞かれてきました。

昭和の時代、上皇ご夫妻は、沖縄から上京した「豆記者」の子どもたちと毎年のように懇談されていましたが、まだ子どもだった天皇陛下もこの懇談にたびたび加わり、沖縄の歴史や文化への理解を深められました。

天皇陛下は、昭和62年に初めて沖縄を訪れ、戦没者の慰霊に臨んだほか、「ひめゆりの塔」では、戦争当時の女学生たちから話を聞かれました。

天皇陛下は、この訪問について、のちの記者会見で、「戦争の痛ましさ、そして戦前、戦後と沖縄のたどてきた苦難の道に思いを致しましたし、それと共に平和の尊さ、そして大切さというものを強くかみしめました」と振り返られています。

平成に入り皇太子になると、天皇陛下は、戦争と平和への思いを行動で示されていきます。上皇ご夫妻から「豆記者」との懇談を受け継ぎ、去年まで毎年のように沖縄の子どもたちなどと交流されてきました。

広島や長崎を訪れる機会があると、戦没者の慰霊に臨む一方で、被爆者が暮らす施設をたびたび訪れ、そのことばに耳を傾けることを大切にされてきました。

また平成19年のモンゴル訪問の際には、第2次世界大戦後、旧ソビエトによって抑留され、過酷な労働で命を落とした日本人の慰霊碑を訪れ、花を手向けられています。

戦後70年を迎えた平成27年天皇陛下は、誕生日にあたっての記者会見で「私自身、戦後生まれであり、戦争を体験しておりませんが、戦争の記憶が薄れようとしている今日、謙虚に過去を振り返るとともに、戦争を体験した世代から戦争を知らない世代に、悲惨な体験や日本がたどった歴史が正しく伝えられていくことが大切であると考えています」と話されました。

また翌年の会見では、「過去の経験に少しでも触れる機会を通じて、戦争の悲惨さ、非人道性を常に記憶にとどめ、戦争で亡くなられた方々への慰霊に努めるとともに、戦争の惨禍を再び繰り返すことなく、平和を愛する心を育んでいくことが大切だと思います」と述べられています。

天皇皇后両陛下の長女の愛子さまも、お住まいの赤坂御所で、正午の時報にあわせて黙とうをささげられました。

宮内庁によりますと、愛子さまは、毎年、終戦の日には、両陛下とともに黙とうをささげてきましたが、ことしはお一人で黙とうされました。

愛子さまは、これまで、両陛下と戦争に関する展示会を訪れたり、遺族の話を聞いたりして、戦争や平和への考えを深められてきました。

中学生の時には、修学旅行で広島市平和公園を訪れ、その経験をもとに卒業文集に「世界の平和を願って」と題する作文を寄せ、「唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う」などと記されています。

ノンフィクション作家の保阪正康さんは、天皇陛下のおことばについて「戦争を体験していないという前提に立ちながらも、上皇さまや昭和天皇の思いを引き継いでいるかなり説得力のあるおことばだと思った。戦争を直接は知らないけれども、その悲惨さを伝えていきたいといった天皇陛下の思いが込められていて、安ど感や安らぎのような気持ちを覚えた」と述べました。

また、上皇さまが「深い反省とともに」と述べられていた部分を、天皇陛下が「深い反省の上に立って」と言いかえられたことについて、「これは重要な違いで、上皇さまのことばは、同じ時代を歩みながら戦争を受け止めてきた立場でのものだが、天皇陛下のことばは、戦争を歴史的な見方で捉えたうえで、『深い反省』を自分が次の時代につないでいくという思いをあらわしたものだと言える」と話していました。

追悼式に出席した沖縄県遺族連合会会長の宮城篤正さんは(78)天皇陛下が皇太子として沖縄を訪ねられた際にことばを交わしたこともあり、15日のおことばに注目していました。

おことばについて宮城さんは、「遺族への気持ちが強く伝わってくるもので、上皇さまの思いを確実に受け継いでいらっしゃると感じられ、よかったと思います。戦没者に対する哀悼のことばも非常に思いのこもったものでした」と話していました。

#天皇家

終戦の日」の15日、公明党の山口代表は、東京都内で街頭演説し、平和主義などを原則とする、今の憲法が戦後、大きな役割を果たしてきたと指摘したうえで、こうした憲法の理念を次世代に継承していく必要性を強調しました。

この中で、山口代表は、「恒久平和主義、そして、国際協調主義をうたった憲法があったからこそ、戦後の日本のような歩みが形成されるようになった」と指摘しました。

そのうえで、「多くの人々が日本の憲法を世界の1つの学ぶべきモデルとして注目をしている。そういう現実をしっかり踏まえたうえで、この憲法の価値をこれからも継承し、伝えていきたい」と述べ、憲法の理念を次世代に継承していく必要性を強調しました。

また、山口氏は、来年、発効から50年となるNPT=核拡散防止条約について、「日本の進むべき道は核保有国と非保有国の対話を促し核軍縮に結び付けることだ。これからもその道を貫いていきたい」と述べました。

今回見つかった資料は、昭和11年2月26日に陸軍の青年将校らが天皇中心の国家を確立するとしてクーデターを企て、政府要人ら9人を殺害した「二・二六事件」について、海軍が当時記録した内部文書です。

文書には「極秘」の印が押されていて、事件発生から収束までの4日間について、海軍が現場で把握した情報が分単位で記録されています。

このうち、発生からおよそ2時間後の2月26日午前7時に記された第一報とみられるメモは、「警視庁」「占領」、「総理官邸」「死」など、なぐり書きの文字が並び、その衝撃の度合いがわかります。

事件の鎮圧には青年将校たちが所属した陸軍が当たりましたが、海軍は陸軍の司令部に連絡要員を派遣したり、現場に「見張り所」を多数設置したりして、青年将校だけでなく、陸軍の動向も監視していました。

2日目、2月27日の午後6時半の記録には、陸軍の幹部が青年将校らについて「彼らの言い分にも理あり」と理解を示し、「暴徒としては取り扱い居らず」と発言をしたことが記され、陸軍の対応に一貫性がなく状況が複雑化していることに対し、海軍が警戒していた様子がうかがえます。

さらに事件が収束する前日の2月28日午後11時5分の記録には、追い詰められた事件の首謀者の1人、磯部浅一天皇を守る近衛師団の幹部と面会して、「何故(なぜ)に貴官の軍隊は出動したのか」と問い、天皇の真意を確かめるかのような行動をしていたことも詳しく書き留められていました。

そして最終日、2月29日の午前8時5分の記録には、海軍の陸上部隊が防毒マスクまで装着し、「直ちに出撃し、一挙に敵を撃滅す」と決心したことが記載され、この直後の青年将校らの投降がなければ、市街戦に突入して東京が戦場になりかねなかった緊迫の記録がつづられています。

二・二六事件」は、これまで青年将校らを裁いた特設軍法会議の資料など事件後にまとめられた記録が、主な公文書とされてきましたが、今回、見つかったのは事件を同時進行で詳しく記録したもので、専門家は近代日本を揺るがした事件の新たな側面を浮かび上がらせる第一級の資料だと指摘しています。

軍事史に詳しい大和ミュージアムの館長、戸高一成さんは、「二・二六事件は軍人によるクーデターだが、陸海軍という2つの大きな組織のなかの陸軍サイドのみがほとんど見られて、海軍側の資料がなかった。今回資料が発見されたことで海軍が事件のかなり大きな要素を握っていたことがわかった。特に、海軍は習慣で、時間を丁寧に記載するため、事件の推移がリアルタイムで書き残されているのは貴重だ」と指摘しています。

そのうえで戸高さんは「今後、文書を精査することで二・二六事件の全体像がさらに明らかになる。事件の研究にこの資料が使われていたら、事件の全体像についてもう少し違う見方もあったかもしれず、全体の筋書きのなかで、非常に重要な部分を埋める資料になる」と話しています。

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日本の天命は何か

#五井昌久

NHKから国民を守る党の立花孝志党首が「NHKと受信契約を結ぶことは法律上の義務だが、受信料の支払いは義務ではない」などと述べていることについて、立憲民主党の中谷一馬衆議院議員は、質問主意書で政府の見解をただしました。

これを受けて政府は、15日の閣議答弁書を決定しました。

この中で、政府は「放送法でNHKの放送を受信できる受信設備を設置した人は、NHKと受信契約を結ぶ義務があることを定めており、受信契約を結んだ人は、受信料を支払う義務がある」としています。

また、受信料を払っていない人への対応について、「政府としては受信料の公平負担の徹底に向けて未払い者対策を着実に実施することなどを求めており、こうした指摘を踏まえてNHKにおいて適切に対応すべきものと考えている」としています。

さらに、受信料を支払っている人だけがNHKの放送を見られるようにするスクランブル化について、「NHKが公共放送としての社会的使命を果たしていくことが困難になる」として、否定的な見解を示しています。

一方、今後の受信料負担の在り方については、「放送をめぐる環境変化や、国民・視聴者から十分な理解が得られるかといった観点も踏まえ、中長期的に検討すべき課題だ」としています。