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 この史料とは、今年の7月23日付の読売新聞朝刊に掲載された、ある昭和史のスクープである。

〈聖上陛下ノ御決意ニ基ヅキ全軍一体トシテ大命ヲ奉ジ一糸乱レザル軍規ノ下ニ行動スルコトヲ得タル〉

 昭和16年12月当時、東條内閣で内務次官を務めていた湯沢三千男が、便箋に5枚ほどのメモ類を残していたというのだ。そこには、東條内務大臣(首相と兼任していた)が開戦前夜に湯沢と陸軍次官の木村兵太郎に開戦日の段取りを伝えた後、昭和天皇の「決意」を興奮気味に語ったという内容が書かれていたのである。

 昭和10年代の公式記録、たとえば御前会議、大本営政府連絡会議、閣議、あるいは政府と重臣などの会議録を読むと、その意味するところは明白だ。何のことはない、東條たち軍部の面々は「早く決断してください。我々はあなたの命令があれば、いつでも戦いますよ」「本当に戦争しかないのか」「戦争しかありません。戦争を選ばなければこの国はつぶれますよ」と詰め寄っているだけである。

 23日の1面では〈東条 開戦前夜「勝った」〉とあり、社会面では〈東条の胸中 生々しく〉と報じられていた。翌24日の社会面では〈東条 開戦日の治安策指示〉と、その具体策について詳しく紹介している。


 この種の史料が今回発見された神田の古書店に存在することは、実は私も早い機会に聞かされていた。ただ「メモ」の持ち主であった湯沢の親族間で公開を渋っているとの噂も聞いていた。

 遡ること2カ月、東條は近衛文麿内閣の下で戦争による現状打開を訴えていた。近衛との開戦か否かの最終局面での折衝は、きわめて象徴的だった。外交交渉で解決したいと説く近衛に、東條は「人間一度は清水の舞台から飛び降りることも必要だ」「(外交交渉に期待をかけるのは)これは性格のちがいですなあ」といった発言で圧力をかけ続けた。結局、近衛は辞任する。昭和16年10月16日である。そして次の首相に、木戸幸一内大臣は東條を推すことになる。


 なぜ主戦派の東條を、という声は当時もあり、今も不思議がられている。木戸に対して、昭和天皇が「虎穴に入らずんば虎子を得ずだね」といったのは、まさに歴史的な意味を持つ。つまり主戦派の東條により、軍内の強硬派をなだめようとしたわけである。それに東條は誰よりも強く昭和天皇へ畏敬の念を持っていた。


 東條はそれまでの主戦論を一変して外交交渉に力点を置く方向へ向くが、しかし現実にはその路線は否定され、開戦へと進んでいく。むろん、ここにいたるまでには様々な動きがあった。東條は首相就任当初、確かに天皇の意思を尊重するかに見えたが、近衛内閣時代の自らの影に怯える形で戦争へと向かっていった。


 すでに開戦と決まった後の東條は、小心な軍官僚の姿を露呈する。開戦2日前の12月6日深夜には首相官邸で号泣している。そのことを証言した勝子夫人は、


「隣室のタク(夫のこと)の部屋から泣き声が聞こえるのでふすまを少し開けて覗くと、タクは皇居の方に向かって正座して泣いていました」


 と話していた。この涙をどのように解釈するか。私は、戦争を選択したくない昭和天皇の意思を踏みにじる結果になったことに対して、申し訳なさを感じての涙であろうと推測する。


 東條は天皇や木戸の期待、あるいはその要求に応えられなかったのだから、本来なら辞任するのが筋であろう。しかし彼は全く逆の考えを持った。


 それは「天皇は私を信頼している。それに応えるには戦争に勝つことのみだ。私にはその責任がある。その私に抗するのは、天皇に異を唱えることだ」との“独裁者”の心理であった。


 東條のこの心理は、軍人にあるまじき錯誤だった。錯誤に至るまでの経緯は、東條の3人の秘書官(陸軍からの赤松貞雄、海軍の鹿岡円平(かのおかえんぺい)、内務省の広幡真光)によって書かれた「秘書官メモ」に詳しい。


 当初はお気持ちを察するのに苦慮していた東條が、いつしか、天皇が“手段”として戦争を選択することへの不安と困惑に全く気づかなくなってしまっていた。


 今回の「湯沢メモ」は、東條のその錯誤を明確に証明した文書の一つであろう。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180831#1535711842
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180823#1535021178