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特によく出てくるのが、日中戦争開戦や御前会議で対米戦争の方針を実質的に決めた際、総理大臣を務めていた近衛文麿と、その後任で、太平洋戦争開戦時の総理大臣として戦後、A級戦犯として処刑された東條英機です。

昭和27年5月28日の拝謁では、昭和天皇自らは事務的な人間であり、同じように事務的な人間と相性がよかったとしたうえで、近衛と東條を比較し、「近衛はよく話すけれどもあてニならず、いつの間ニか抜けていふし、人はいかもの食ひで一寸(ちょっと)変つたやうな人が好きで、之を重く用ふるが、又直(じ)きにその考へも変る。政事家(せいじか)的といふのか知らんが事務的ではない。東條ハ之ニ反して事務的であつたそして相当な点強かつた。強かつた為に部下からきらはれ始めた」と語ったと記され、別の機会には、「近衛と東条との両長所が一人ニなればと思ふ」などと述べたと記されています。

一方、戦後の総理大臣では、田島を宮内府の長官に任命した芦田均と、その後、長く政権を担った吉田茂との対比が多く登場します。

昭和26年5月23日の拝謁では、田島長官が吉田について勘で決めたことを強く押し通す人物だなどと話したのに対し、昭和天皇「芦田は其点よろしい。理論ぜめで少しぎこちないが行き届く。研究した結果道理でおして、一寸(ちょっと)きつすぎる場合もあるが事態はちやんと研究する。吉田ハカンで動く人間ハ六ヶ(むつか)しいね吉田と芦田との長所が一人だとよい」と述べたと記されています。

分析に当たった成城大学の瀬畑源非常勤講師は昭和天皇は人物評が好きだった。事務的な人物が好きで論理的に話が通じる人の方が、自分と波長が合う一方、やや流されやすいというか、感情的になりやすい人物に対してはあまり評価が高くない。基本的に論理的であるということが評価基準の1つで、それは昭和天皇自身がそういう人だったということもあると思う。昭和天皇の人物評からは自分と同じような考え方であってほしいといったところが透けて見える。国というレベルで物事を考えて人を見ているということでは昭和天皇は他の人にはない視点から人々を判断しているので、当時の人たちを複眼的に見てその評価をもう一回考え直すきっかけや手がかりになると思う」と指摘しています。

「拝謁記」には、昭和天皇が当時、東宮(とうぐう)、皇太子だった上皇さまを「東宮ちゃん」と呼び、気にかける様子がたびたび記されています。

上皇さまが学習院中等科3年生だった昭和24年11月8日の拝謁では、お住まいの東宮御所の建設場所について「宮城(きゅうじょう)内又ハ近接ノ地ノ方考ヘラレヌカ。/実ハ東宮御所ハ私ノ所ト近イ所ガヨイト思フ。容易ニ交通シ得ル所ナラバ別ニ宮城内トハ限ラヌガ可成(なるべく)近イ所ガヨイト思フ」と、なるべく近くに住まわせたいと話したことが記されています。

昭和天皇はその理由として、自らが若い頃、イギリスを訪問した際、のちの国王エドワード8世から父・大正天皇とどのくらい会っているのか聞かれたエピソードをあげ、「其頃は一週一度位デアツタ故忠孝ノ国トイハレル日本トシテ返答ニ苦シンダ事ハ今ニ私ハ忘レヌ。皇太子ガ何レ(いず)外遊スルデアロウガ其時又私ト同ジ苦シイ返答ヲサセタクナイト思フカラダ」と語ったと記されています。

さらに「拝謁記」には、上皇さまが皇太子時代に、軍人になることなく、11歳で終戦を迎えられた理由も記されていました。

戦前、皇太子は原則として満10歳で陸海軍の少尉に任官するとされていて、昭和天皇明治天皇の死去に伴って皇太子となった11歳のときに任官しましたが、昭和天皇は軍から求められても皇太子の任官を許しませんでした。

その理由について昭和天皇は、上皇さまの成年式と立太子礼が行われた翌月昭和27年12月18日の拝謁で、「私は十一位(くらい)で少尉となり立太子後ハ直(す)ぐ東宮武官といふものが出来た。私ハ武官程いやなものはないとしみじみ思つた。殆んど軍のスパイで私の動静ノある事ない事を伝へるだけの者でこんないやな者ハない」と任官後のつらい経験を振り返りました。

そのうえで、立太子礼を行へば東宮職内ニ東宮武官が出来るから私ハ立太子礼を成年後ニ延さうと終始考へてやつて来たので戦争中からずつと其積りであつたのだ」と皇太子に同じ思いをさせたくないという理由を語ったと記されています。

象徴天皇制に詳しい成城大学の瀬畑源非常勤講師は「皇太子が軍人になることは戦意の高揚につながるし、国民みんなに戦争に協力させる旗印にもなるので、当時の東條英機総理大臣は戦争遂行のため皇太子を早く軍人にしたいという意向だったが、昭和天皇がそれを拒んでいた理由が結構プライベートな話だったというのは驚いた。昭和天皇は、青年将校への不信感や皇太子の教育に悪影響を及ぼすおそれを感じ、できるだけ任官を遅らせて軍部や青年将校から皇太子を守りたいという考えがかなり強かったのだろう」と話しています。

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