https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

重野安繹は、薩英戦争とその後の外交交渉で活躍している。要するに「タフ・ネゴシエイター 」として大活躍した人物なのである。薩英戦争は、薩摩軍の「ボロ負け 」だったと思われているが、そんなことはない。薩摩藩も市街地を焼かれるなど大損害えおこうむったが、イギリス軍も無傷ではなかった。イギリス軍は、薩摩藩側の反撃に恐れをなして、錨を切って「 逃げた」というのが実情であった。要するに、「通説 」や「俗説 」とは異なり、現実の歴史は全く違ったのである。その後の薩摩とイギリスの賠償交渉で、英国人を相手に一歩も引かずに、難解な議論を展開し、交渉をまとめあげたのが若き秀才・重野安繹であった。

その後、重野安繹は、学問の道に進み、東京帝国大学国史学科教授として再登場する。そして、歴史学者という立場から、「 西郷小人物説」を証言する。はっきり言って、東京帝国大学歴史学科の関係者は、権力に迎合するだけで、信用出来ないという見本である。ところが、この怪しい人物が、西郷の「 奄美大島・流刑時代」を、かなり詳細に知っているのである。

重野安繹は、若い時から才気煥発な秀才で、16歳で,薩摩藩の子弟教育機関造士館 」助手になっている。やがて、幕府の大学である「 昌平黌」に学び、そこでも飛び抜けて優秀な生徒だったらしい。その後は、造士館の「 訓導師」となり、薩摩藩留学生の監督に当たっていた。西郷が、藩主・島津斉彬とともに江戸へ向かう以前から 、江戸にいたのである。要するに、薩摩藩江戸屋敷に出入りする若い薩摩藩士の一人だった。当然、その頃から、西郷とは面識があった。しかし、重野安繹は 、「金銭トラブル 」に巻き込まれ、薩摩に呼び戻され、処罰を受ける身となった。その時、西郷の「 助言」で、重刑( 死罪 )を免れ、奄美大島島流しになったというわけである。

d1021.hatenadiary.jp