『南洲伝』覚書(11)ー西郷南洲と重野安繹。 私は、重野安繹(しげの=やすつぐ )という人物に興味を持っている。西郷南洲や、あるいは明治維新や西南戦争について知っていても、かなり 、細かいところまで探求したことがなければ、重野安繹という人物は知ら https://t.co/DMu9jzcnnt
— 山崎行太郎の毒蛇山荘日記 (@yamazakikoutaro) 2019年5月13日
重野安繹は、薩英戦争とその後の外交交渉で活躍している。要するに「タフ・ネゴシエイター 」として大活躍した人物なのである。薩英戦争は、薩摩軍の「ボロ負け 」だったと思われているが、そんなことはない。薩摩藩も市街地を焼かれるなど大損害えおこうむったが、イギリス軍も無傷ではなかった。イギリス軍は、薩摩藩側の反撃に恐れをなして、錨を切って「 逃げた」というのが実情であった。要するに、「通説 」や「俗説 」とは異なり、現実の歴史は全く違ったのである。その後の薩摩とイギリスの賠償交渉で、英国人を相手に一歩も引かずに、難解な議論を展開し、交渉をまとめあげたのが若き秀才・重野安繹であった。
その後、重野安繹は、学問の道に進み、東京帝国大学国史学科教授として再登場する。そして、歴史学者という立場から、「 西郷小人物説」を証言する。はっきり言って、東京帝国大学歴史学科の関係者は、権力に迎合するだけで、信用出来ないという見本である。ところが、この怪しい人物が、西郷の「 奄美大島・流刑時代」を、かなり詳細に知っているのである。
重野安繹は、若い時から才気煥発な秀才で、16歳で,薩摩藩の子弟教育機関「 造士館 」助手になっている。やがて、幕府の大学である「 昌平黌」に学び、そこでも飛び抜けて優秀な生徒だったらしい。その後は、造士館の「 訓導師」となり、薩摩藩留学生の監督に当たっていた。西郷が、藩主・島津斉彬とともに江戸へ向かう以前から 、江戸にいたのである。要するに、薩摩藩江戸屋敷に出入りする若い薩摩藩士の一人だった。当然、その頃から、西郷とは面識があった。しかし、重野安繹は 、「金銭トラブル 」に巻き込まれ、薩摩に呼び戻され、処罰を受ける身となった。その時、西郷の「 助言」で、重刑( 死罪 )を免れ、奄美大島へ島流しになったというわけである。
虚構の義経イメージも同じだと思います。虚構に一種の文化的統一性があって、問題ばらみながら一種の人間主義と情もふくまれている。そういう虚構さえも破壊された世界。世代的連続も「民俗的、民族的」連続も断ち切られている。 https://t.co/HLeNuPp8y3
— 保立道久 (@zxd01342) 2019年5月14日
社会史研究隆盛のころから、小学校教育と歴史文化そのものの再建が必要ということはよくわかっていたのですが、どうしようもなく流されてきました。
— 保立道久 (@zxd01342) 2019年5月14日