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征韓論論争に関する歴史学者たちの歴史記述は当てにならない。露骨な勝者史観の立場からなされている気配がある。大久保利通が、後世の歴史学者たちの歴史記述に、かなり神経を使っているからだ。西郷南洲が、城山で戦死したという情報がもたらされた直後、大久保利通邸を訪問してきたのが、重野安繹(しげの=やすつぐ )だったことが、それを象徴している。重野は、言うまでもなく、後に東京帝国大学国史学科教授となり、「 近代実証主義史学 」を主張、確立する歴史学者である。この重野安繹(しげの=やすつぐ )は、元々、薩摩藩藩士で、しかも、西郷とは「 島流し」時代、共に奄美大島での流刑の身で、親しく交流したこともあり、西郷とは旧知の仲だった。が、西郷に対しては、性格が合わなかったらしく、終始 、批判的だった。多くの辛辣な「 西郷批判」の証言を残している。重野安繹は、むしろ、大久保利通と親しかった。重野安繹が、「 様子伺い」を兼ねて、大久保利通邸に駆けつけると、二人は事後相談を行っている。大久保利通が、重野に、「 西郷の伝記を書き残してくれ」と依頼したらしい。この大久保利通の言葉は複雑である。大久保利通は、自分が西郷を、死に追い込んだ張本人と思わるだろうことを、警戒している。そして数々の歴史の捏造工作を開始している。その一つが重野安繹であった。しかし、重野安繹は、本格的な西郷伝を書き残した様子はない。ただ、西郷批判の辛辣な証言を残しているだけである。司馬遼太郎も、『 翔ぶが如く』で、重要な証言者として重野安繹の名前を頻繁に記録している。

重野安繹は、内務卿として国政を牛耳っていた大久保利通に積極的に接近していた。売り込んでいたのだろう。しかも、後に、重野安繹の娘は、大久保利通の息子と結婚し、二人は、縁戚関係にまでなっている。「 重野安繹証言」は、信用出来ない。

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構成的事実

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一般論

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