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現役後半はケガに悩まされたが、これも若いころの不摂生が原因だったのではないか。30代半ばあたりからウェイトトレーニングに精を出すようになり、プロレスラーのようになったが、いたずらに身体を大きくしたことはかえってマイナスになったようだ。

若いころの清原は、柔らかい下半身を活かし、広角に打ち分けていた。低めのボールも、ひざをうまく使って腰を落とすようにして水平に振り抜き、右方向へ打ち返していた。それが、身体を大きくし、パワーをつけたことで、上半身頼み、腕力頼みのスイングになってしまい、バランスを失ってしまった。故障も増えた。

引退後、清原は指導者としてどこからもお呼びがかからなかった。あれだけの選手だったのだから、監督やコーチになってもおかしくないどころか、球界のためにもなってしかるべきだった。原因は、私生活でさまざまなトラブルを抱えていたことにあったらしい。そのあげくが、覚醒剤所持の疑いでの逮捕である。

情状酌量の余地はないが、もう少し勉強意欲を持っていたなら、プロ野球でも怪物になれたのに……彼には大いに期待していただけに残念でならないのである。

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いはゆる心を明鏡止水のごとく磨ぎ澄ましておきさへすれば、いついかなる事変が襲うて来ても、それに処する方法は、自然と胸に浮んで来る。いはゆる物来りて順応するのだ。おれは昔からこの流儀でもつて、種々の難局を切り抜けて来たのだ。

正しい学問とは、意識を純一誠実にすることに他ならない。

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独楽はな、高速で円転するほど中心軸が安定し、静止しているかの様に見えるものじゃ。心身五体五感の作動も又同じ。この境地を「スミキリ(澄み切り)」と言う。

荒川コーチの薦めもあり、一緒に新宿区牛込町の道場へ通った。藤平さんの師、植芝師がこう言った。「待っていればタマは来るんだろう? なら、待っていればいいじゃないか」

力の出し方について説明してきましたが、合気道でもうひとつ大切なことは、力を抜くということです。相手が力をこめて、こちらをつかんできたときに、こちらは逆に力を抜いてしまうのです。

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わたしの場合は、「向うの声で立つ」―「向うが立てば立つ」、しかし立った瞬間には、あくまでも機先を制している―換言すれば、いわゆる「後手の先」で、立った瞬間には自分として十分な体勢になっている、そういう立合だったといえましょう。以上二つの「受けて立つ」は、外形上、結果的には同じようにみえても、内実的には確たる差異がひそんでいるのです。

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納谷幸喜さん(元横綱大鵬)に聞く
「苦労は買わなくてもちゃんと天が与えてくれた」
<中略>
普通の人は今日やったことの結果をすぐ欲しがるけれども、そうではない。人生は、生まれた時から一つの時計が回っている
<中略>
コツコツ繰り返すことで精神は鍛えられる。
<中略>
耐えるとはこれに向かって自分との戦いなんです
<中略>
相撲は瞬時に体が動く。頭で考えていては遅い。
<中略>
バカになるとは邪心を捨てて相撲に打ち込むということ。
<中略>
「ある程度出来上がった人間が入門しても何のおもしろみもない世界だ」
<中略>
ふき掃除、洗濯など一から修業して力士として人間として成長していく。それが大事なこと。
<中略>
厳しく言ってくれる人は頼りになるが、おだてる人はいざ相談にいったら逃げるよ
<中略>
本物なら淡々とやって、みんながそれを見て、さすがに横綱だなあと思う。それでいいんです。自分からあーだ、こーだではない
<中略>
横綱というのは淡々としなきゃいかんのですよ。

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 相撲の技は、いまさら申すまでもないのですが、頭で考えるだけでは駄目なのはもちろんのこと、頭で考えてそれから技がでるというのでも、駄目なのです。たとえば、「上手投げ」をかけるとします。「上手投げ」をかけようと思って、それからその技がでるようでは問題になりません。こうと思った瞬間には、もう技がでているのでなければなりません。これは相撲だけにかぎらぬことかも知れませんが、相撲は勝負が瞬間のあいだに決着する競技であるだけに、この一点が大切な問題となるのです。「心身一如」とでもいいましょうか、自分の意識と自分の身体とが、一枚になりきるのでなければ、勝を制することはむつかしいのです。
 相手の「隙」をつかむことは勝負のうえに肝要このうえもないことですが、さてその「隙」は、眼で知るのでなく、こちらの体で感得すべきです。自分の修錬がつんでくると、相手の身体的ないし心理的な動きは、ただちに自分の身に感応されるものです。