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「大嘗宮の儀」は、皇居・東御苑に設営された「大嘗宮」で行われ、14日午後6時半、天皇陛下が主要な建物の1つ「悠紀殿(ゆきでん)」に入られて始まります。

天皇陛下はことし5月の儀式で「悠紀」地方に選ばれた栃木県の「斎田(さいでん)」で新たに収穫された米などを天照大神とすべての神々に供えられます。

そして、拝礼して日本古来のことばで記した「御告文」を読み上げたあと、お供えの米などをみずからも食べる「直会(なおらい)」が行われ、国と国民の安寧や五穀豊じょうなどを祈られます。

続いて天皇陛下は15日午前0時半、もう1つの主要な建物の「主基殿(すきでん)」に入られます。

ここでは「主基」地方に選ばれた京都府の「斎田」で収穫された米などを同じように神々に供えたうえでみずからも食べ、国と国民の安寧や五穀豊じょうなどを祈られます。

天皇陛下が「主基殿」から退出されて「大嘗宮の儀」が終わるのは、15日の午前3時ごろになる見通しです。

儀式には安倍総理大臣など三権の長や閣僚、それに都道府県の知事や各界の代表など500人余りが参列する見通しで「大嘗宮」の中の「幄舎(あくしゃ)」という建物で儀式の様子を見守ることになっています。

天皇皇后両陛下は「大嘗祭」の中心的な儀式「大嘗宮の儀」に夜を徹して臨まれることになります。

14日は午後、皇后さまがお住まいの赤坂御所を先に出発して、皇居・宮殿の「表御座所(おもてござしょ)」に入られます。

その後、天皇陛下皇位のあかしとして受け継いだ三種の神器のうちの剣と曲玉とともにモーニング姿で赤坂御所を出られます。

そして、皇居・東御苑の「大嘗宮」のそばにある宮内庁楽部の庁舎に入られます。

お二人とも着替えをして、天皇陛下は格式の高い純白の装束「帛御袍(はくのごほう)」を着用され、皇后さまは「袿袴(うちきばかま)」に身を包まれます。

続いて両陛下は「大嘗宮」の奥にある「廻立殿(かいりゅうでん)」に移動して2回目の着替えに臨まれます。

天皇陛下は最も格式が高い「御祭服(ごさいふく)」と呼ばれる白い装束に身を包まれ、皇后さまは純白の十二単に着替えられます。

そして、午後6時半から始まる「悠紀殿供饌の儀(ゆきでんきょうせんのぎ)」に臨まれます。

これが終わると、天皇陛下は再び「廻立殿」などで2度にわたる着替えを行い、着替えを終えられた皇后さまと同様、夕食の出される「表御座所」に向かわれます。

その後、翌日の午前0時半から始まる「主基殿供饌の儀」のため、両陛下は再び「廻立殿」に移動し「御祭服」と純白の十二単に着替えて儀式に臨まれます。

「大嘗宮の儀」が終わり、両陛下が赤坂御所に戻られるのは夜明け前になる見通しです。

「大嘗宮の儀」に向けて、皇居などではさまざまな儀式や行事が行われてきました。

天皇陛下が即位したことし5月1日から1週間後の8日には、皇居の「宮中三殿」で天皇陛下が「即位の礼」と「大嘗祭」の中心的な儀式の期日を皇室の祖先や神々に伝えられる儀式が行われました。

同じ日、天皇陛下伊勢神宮神武天皇陵、それに昭和天皇以前の4代の天皇の陵にも期日を伝えるため使者を派遣する儀式に臨まれました。

5月13日には大嘗祭で使う米を収穫する2つの地方を決める「斎田点定の儀」が宮中三殿にある、国内の神々をまつる神殿で行われました。

亀の甲羅を使った「亀卜(きぼく)」と呼ばれる宮中に伝わる占いで、東の「悠紀」地方に栃木県が、西の「主基」地方に京都府が選ばれました。

9月には「大嘗祭」で使う米を収穫する2つの「斎田」が決まり、米を収穫する儀式「斎田抜穂の儀」が行われました。

収穫された米は先月、皇居・東御苑に設けられた「大嘗宮」の米を保管する部屋に納められました。

大嘗祭(だいじょうさい)」は毎年11月に国と国民の安寧や五穀豊じょうを祈って行われる宮中祭祀新嘗祭(にいなめさい)」を天皇の即位後、初めて大規模に行うもので、皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式とされています。

中心的な儀式の「大嘗宮の儀(だいじょうきゅうのぎ)」と「大饗の儀(だいきょうのぎ)」をはじめとする一連の儀式や、関連する行事で成り立っています。

一連の儀式はことし5月、天皇陛下宮中三殿にまつられた皇室の祖先や神々に「即位の礼」と「大嘗祭」の期日を伝えられる儀式から始まりました。

その後も関連する儀式や行事が行われ、14日から15日にかけて「大嘗宮の儀」が、16日と18日に「大饗の儀」が行われます。

続いて「天照大神」をまつる三重県伊勢神宮に参拝する儀式などが行われ、12月4日、宮中三殿に参拝されるなどして天皇陛下の即位に伴う一連の儀式がすべて終わります。

「大嘗宮の儀」は「大嘗祭」の中心的な儀式で、皇居・東御苑に設営された「大嘗宮」で行われます。

儀式は14日午後6時半から「悠紀殿供饌の儀(ゆきでんきょうせんのぎ)」が行われ、15日午前0時半から「主基殿供饌の儀(すきでんきょうせんのぎ)」が行われます。

天皇陛下は「御祭服(ごさいふく)」と呼ばれる最も格式の高い白い装束に身を包んで儀式に臨まれます。

着替えなどを行う「廻立殿(かいりゅうでん)」を出たあと、皇位継承順位1位の皇嗣秋篠宮さまとともに廊下を進まれます。

そして「悠紀殿」や「主基殿」に入られて儀式が始まります。

天皇陛下は新しく収穫された米などを天照大神とすべての神々に供えたあと、拝礼して日本古来のことばで記した「御告文(おつげぶみ)」を読み上げられます。

続いてお供えの米などをみずからも食べる「直会(なおらい)」が行われ、国と国民の安寧や五穀豊じょうなどを祈られます。

米は「悠紀殿供饌の儀」では栃木県の「斎田(さいでん)」で収穫されたものが、「主基殿供饌の儀」では京都府の「斎田」で収穫されたものが使われます。

天皇陛下が「悠紀殿」や「主基殿」から退出され、それぞれの儀式が終了するまでに、およそ3時間ずつかかる見通しです。

宮内庁はそれぞれの建物の中で行われる儀式の詳細については「秘事(ひじ)」として明らかにしていません。

一方、皇后さまは純白の十二ひとえに身を包み、天皇陛下のあと「廻立殿」を出て女性の皇族方とともに廊下を進まれます。そして「悠紀殿」と「主基殿」のそばにそれぞれ設けられた「帳殿(ちょうでん)」に入り、「悠紀殿」と「主基殿」に向かって拝礼したあと、退出されることになっています。

「大嘗宮」は皇居・東御苑に設営されたもので、およそ90メートル四方の敷地に大小30余りの建物が建てられています。

主要な建物とされるのは中央の左右に配置されている「悠紀殿」と「主基殿」です。

それぞれ、東の「悠紀」地方に選ばれた栃木県の米や西の「主基」地方に選ばれた京都府の米などが供えられ、儀式では天皇陛下が中に入って国と国民の安寧や五穀豊じょうなどを祈られます。

「悠紀殿」と「主基殿」の奥には廊下でつながった「廻立殿」があります。

「大嘗宮の儀」に先立ち、天皇皇后両陛下が身を清めたり着替えられたりする建物で、儀式の参列者は、天皇陛下が「廻立殿」を出て屋根のある廊下を通り、「悠紀殿」や「主基殿」に入られる様子を見守ります。

皇后さまは天皇陛下と同じように「廻立殿」を出て廊下を進んだあと「悠紀殿」と「主基殿」のそばにある「帳殿」に入って拝礼されます。

また、秋篠宮さまは「悠紀殿」と「主基殿」の手前にそれぞれ設けられた「小忌幄舎(おみあくしゃ)」に、女性の皇族方は、「悠紀殿」と「主基殿」の間に設けられた「殿外小忌幄舎(でんがいおみあくしゃ)」に入って拝礼されます。

天皇陛下が入られる「悠紀殿」と「主基殿」のほか、皇族方が入られる建物などが設けられた区域は「柴垣(しばがき)」という高さ1メートルほどの垣根で囲われ、四方には門が設けられています。

一般の参列者は「柴垣」の外にある「幄舎(あくしゃ)」という建物に入り、儀式の様子を見守ります。

「大嘗宮」にはこのほか、宮内庁の「楽部(がくぶ)」が雅楽を演奏する建物や全国の都道府県から集められた特産物が並べられる建物、それにかがり火をたく建物などが設けられています。

「大嘗宮」は儀式のあと、21日から12月8日までの18日間の日程で一般参観が行われ、その後、解体されることになっています。

「大嘗宮の儀」では、天皇陛下が拝礼される「悠紀殿」と「主基殿」の中に、「※にぎ服(にぎたえ)」と「麁服(あらたえ)」という神々のための衣とも言われる織物が供えられます。

「にぎ服」は白い絹の織物のことで、2反分の絹を芯に巻きつけた巻物2本が供えられます。

一方「麁服」は麻で織られたさらし布のことで、1反ずつ折り畳まれた反物が4反供えられます。

古くから「にぎ服」は今の愛知県、「麁服」は今の徳島県から納められることが慣例となっていて、前回、平成2年の「大嘗祭」でも両県から調達されています。

今回も慣例を踏まえて両県から調達することになり、宮内庁は前回のノウハウを受け継ぐ愛知県と徳島県の法人や個人に伝統を尊重した手法での制作を依頼し、先月、皇居に納入されました。

※「にぎ」は、糸へんに「曾」

「大嘗宮の儀」では「庭積の机代物(にわづみのつくえしろもの)」と呼ばれる全国各地の特産物が「大嘗宮」の庭に並べられ、神々に向けて披露されます。

これらの特産物は、宮内庁が47の都道府県に対し、米とあわに加えて5品目を上限に品目の推薦などを依頼し、推薦のあった各地の農産物や海産物などを購入して調達しました。

特産物は米とあわ以外に延べ221品目に上り、北海道の昆布や静岡県のお茶、それに愛媛県のみかんや沖縄県のゴーヤーなどが集められました。

これらの特産物は先月から順次、皇居に運び込まれ、各地から品々を持ち込んだ生産者らには宮内庁の幹部が中身を確認したうえでお礼のことばを述べました。

「大嘗宮の儀」では「悠紀殿」と「主基殿」のそばにある「庭積帳殿(にわづみのちょうでん)」に並べられ、神々に披露されることになっています。

「斎田」は「大嘗祭」で使う米を収穫する田んぼのことで、宮中に伝わる占いに基づいて栃木県と京都府から選ばれました。

栃木県で選ばれたのは、高根沢町大谷下原の石塚毅男さん(55)が耕作した田んぼ1227平方メートルです。

「とちぎの星」という栃木県のオリジナル品種が作付けされていました。

京都府では、南丹市八木町氷所新東畑の中川久夫さん(75)が耕作した田んぼ2695平方メートルが選ばれました。

米の査定で最上位の特Aの評価を受けている「キヌヒカリ」という品種が作付けされていました。

2つの「斎田」では、ことし9月に収穫が行われ、それぞれ精米180キロと玄米7.5キロが皇居に納められました。

「斎田」を耕作した「大田主(おおたぬし)」の石塚さんと中川さんも「大嘗祭」の中心的な儀式に参列することになっています。

「大嘗宮の儀」では「庭上参役者(ていじょうさんえきしゃ)」と呼ばれる装束姿の宮内庁職員や皇宮警察の護衛官が多い時で32人居並びます。

このうち「大嘗宮」の南の「神門(しんもん)」の内側には儀式の威儀を整える「威儀の者(いぎのもの)」が、左右に6人ずつ並びます。

「威儀の者」は黒やひ色の武官の装束の上に「小忌衣(おみごろも)」を羽織り、太刀と弓矢を携えていて、宮内庁の職員がおおむね30分ごとに交代しながら務めます。

また、四方の「神門」の外側には門の警備を担う「衛門(えもん)」が並びます。

「衛門」は日頃から皇居の警備などを担っている皇宮警察の護衛官が務め、薄い藍色の「はなだ色」の武官の装束の上に、同じく「小忌衣」を羽織り、太刀と弓矢を携えています。

「衛門」は儀式の間は合わせて20人が、それ以外の時間帯は8人が配置につくことになっています。

「大饗の儀」は大嘗祭の中心的な儀式の1つで、天皇陛下が「大嘗宮の儀」に参列した人たちを招いて催される饗宴です。

皇居・宮殿で16日と18日の2回に分けて行われることになっていて、皇后さまとともに臨まれます。

皇族方のほか三権の長や閣僚、地方自治体の代表に加え、各界で功績のあった人たちなどおよそ500人が参列する見通しです。

いずれの回も、正午に天皇陛下が宮殿の「豊明殿(ほうめいでん)」に入り、続いて入られた皇后さまとともに、松や山などが描かれた「錦軟障(にしきのぜじょう)」と呼ばれる大きな飾り幕を背に席に着かれます。

そして、天皇陛下が国の一層の発展と国民の幸せを願うおことばを述べられ、参列者の代表がこれにこたえます。

続いて、天皇皇后両陛下は、参列した人たちとともに、栃木県と京都府の「斎田」で収穫された米でつくられた「白酒(しろき)」と「黒酒(くろき)」と呼ばれるにごり酒を口にされます。

このあと、栃木県と京都府から届けられた「献物(けんもつ)」と呼ばれる特産品の数々が披露され、両陛下は参列者とともに「斎田」で収穫された米やお祝いの料理に箸をつけられます。

豊明殿」の一角には栃木県と京都府の名所などの四季を和歌とともに描き表した「風俗歌屏風(ふぞくうたびょうぶ)」が飾られます。

また「大饗の儀」で歌い舞われてきた「久米舞(くめまい)」や新たにつくられた「風俗舞(ふぞくまい)」なども宮内庁の楽部によって披露され、儀式はおよそ1時間半で終わる見通しです。

大嘗祭」は毎年11月に行われる「新嘗祭」を即位後初めて大規模に行うものです。

古くは「新嘗祭」と「大嘗祭」の区別は無かったとされていますが、7世紀後半の天武天皇の時に初めて2つが区別されたということです。

その後は、歴代の天皇が即位後に「大嘗祭」を行うことが皇室の伝統になりました。

平安時代には宮中の儀式書の「貞観儀式(じょうがんぎしき)」などで「大嘗祭」の次第が明文化されました。

長い歴史の中では「大嘗祭」が行われなかった時期もあります。

室町時代の後期以降、相次ぐ戦乱によって資金の調達が困難になるなどして200年以上にわたり伝統が途絶えたこともありました。

しかし、江戸時代の半ば、朝廷の強い意向を幕府が認める形で再び行われるようになりました。

明治時代には皇室のあり方や儀式などについて定めた旧皇室典範などが制定され「大嘗祭」は「即位礼」と並ぶ重要な儀式として位置づけられます。

そして、戦後になると新憲法が施行され、皇室制度が現在のものに改められました。

前回、平成2年の「大嘗祭」は、新憲法で定められた政教分離の原則を踏まえて皇室行事として行われ、この考え方は今回の「大嘗祭」でも踏襲されています。

大嘗祭」の主な次第は平安時代の頃から基本的に変わっておらず、今回の儀式も長い伝統を踏まえた形で行われます。

大嘗祭」は前回、平成2年に戦後の新しい憲法のもとで初めて行われましたが、政教分離の原則との整合性をめぐってさまざまな議論が生じ、裁判でも争われました。

一部の学者や市民グループは「大嘗祭」は神道に基づく宗教的儀式で、政府が関わるのは信仰を助長することになり、政教分離を定めた憲法に違反すると主張しました。

そのうえで、実施する場合は国事行為でなく皇室の私的儀式とすべきで、費用は天皇の生活費などにあてられる「内廷費」から支出すべきだという意見が出されました。

政府は有識者から意見を聴くなどして「大嘗祭」の位置づけや予算措置などについて検討を進めた結果「宗教上の儀式としての性格を有するとみられることは否定することができず、国事行為として行うことは困難だ」とする見解をまとめました。

そのうえで「一世に一度の極めて重要な伝統的皇位継承儀式であり、皇位世襲制をとる我が国の憲法の下においては、その儀式について国としても深い関心を持ち、その挙行を可能にする手だてを講ずることは当然と考えられる」として、費用は皇室の公的な予算にあたる「宮廷費」から支出することが妥当だとしました。

これに対し、反対する学者や弁護士などが集会を開いて抗議の声を上げ、各地の住民から知事などが「大嘗祭」に参列したのは憲法違反だとする訴えが起こされましたが、いずれも住民側が敗訴しました。

このうち平成14年の判決で最高裁判所は「知事の参列の目的は、皇室の伝統儀式に際し社会的儀礼を尽くすもので、その効果も特定の宗教に対する援助になるものではなく憲法に違反しない」と指摘しました。

また、全国各地から1000人余りが「即位の礼」と「大嘗祭」に国費を使うのは憲法違反だと主張して、国に損害賠償などを求めましたが、平成7年、2審の大阪高等裁判所は「原告の思想・良心の自由や信教の自由を侵害したとは評価できない」などとして訴えを退けました。

一方、この判決では「大嘗祭神道儀式としての性格を有することは明白で、宮廷費をもって執行したことは国家神道を助長するような行為として憲法に違反するのではないかという疑いは一概には否定できない」とも指摘されています。

今回の「大嘗祭」について、政府は前回の見解を踏襲し、皇室行事として行う一方で費用は「宮廷費」から支出することを決めました。

これについて秋篠宮さまは、去年11月の記者会見で「宗教色が強いもので、国費で賄うことが適当かどうか」などと話し、「内廷費」から支出されるべきだという、政府の決定とは異なる意見を述べられています。

天皇陛下の即位に伴う今回の「大嘗祭」は、前回、平成2年の儀式のあり方を踏襲し古くからの伝統を尊重しながらも、社会情勢の変化などを踏まえて一部で経費の抑制などの見直しが行われました。

まず、中心的な儀式の「大嘗宮の儀」の招待者は前回は1000人近くにのぼりましたが、実際に参列した人数や儀式の様子がうかがえるような座席の配置などを踏まえて、700人近くにまで減らされることになりました。

「大嘗宮」の規模についても見直され、一部の建物の規模や敷地の面積が縮小されたほか、儀式のあり方に影響が出ない範囲で建築の工法や資材が変更されました。

このうち、皇族方が入られる建物や一般の参列者が入る建物はいずれも皇族の数や招待者数の減少に伴って規模が縮小されました。

主要な建物の「悠紀殿」と「主基殿」の屋根は前回の儀式まではかやぶきでしたが、資材の調達が難しいことなどから板ぶきに変更され、経費の抑制につながりました。

この変更についてはことし8月、かやぶきの文化の伝承などを求めている一部の国会議員がかやぶきにするよう政府に要望するなど異論も出されました。

「大嘗宮」は儀式のあと解体されることになっていて、前回は古来の例にのっとり、大半の資材が廃棄されたり焼却されたりしましたが、今回はできるだけ再利用する方向で検討が進められています。

このほか、天皇陛下が参列者を招いて催される饗宴「大饗の儀」は招待者数の減少に伴い前回の3回から2回に減らされ、天皇皇后両陛下の負担も考慮して16日と18日に間隔を空けて行われることになりました。

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