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 体制派の有能な教会官僚でありながら、反社会的な快楽主義を大胆に実践する非行貴族、という明らかに矛盾した人生を送っていたタレーランは、政治的な野心家であった。

 彼は教会体制内で自分がスピード出世したことに満足しておらず、しかも多数の有力な既婚女性たちとの不倫関係にも退屈していた。つまり彼は、「パリ社交界の爛熟した生活を満喫する、危険な不満分子!」だったのである。

 そしてこの「クールな悪徳司教」タレーランが35歳の時、フランス革命が勃発した。彼は即座に革命運動に便乗し、政治権力と名声を獲得しようと動き始めた。彼のその後の人生は、あからさまな裏切りと変節の繰り返しであった。

(1) 1789年のフランス革命に「聖職者層」の代議員として参加したタレーランは、即座に「第三身分層(市民層)」の反教会主義に同調して、「フランス革命政府は、カトリック教会の全財産を没収すべきである」と主張し始めた。当時のフランスのカトリック教会は、全国土の15%を所有する大地主であった。

 革命直前まで、教会本部の高官として教会の既得利権を守るために奮闘していたタレーランが、あっという間に反教会主義陣営のリーダーに変身したのである。その結果カトリック教会は、全財産を没収されてしまった。

(2) 1792年8月、過激化した革命政府はルイ16世の王権を剥奪し、国王一家を幽閉した。同年9月には、暴徒化したパリ武装民衆による貴族と王党派の無差別虐殺が始まった。革命推進派であったはずの「プリンス」タレーランは即座に革命政府に愛想をつかし、さっさとイギリス、そしてアメリカに亡命してしまった。

(3)1794年、ファナティックな革命原理主義ロベスピエールによる恐怖政治が終焉し、その翌年から、無能で不安定なDirectoire(総裁政府)が開始された。タレーランは96年に帰国し、その翌年、人脈を使って外相のポストを獲得した。

 しかし彼は短期間で総裁政府の無能ぶりに見切りをつけて、当時イタリア戦線で華々しい戦果を挙げていた英雄将軍ナポレオンに近づいた。そして1799年、ナポレオンとタレーランは「ブリュメール十八日のクーデター」を起こした。タレーランは、自分を外相に登用してくれた総裁政府をあっさり破壊したのである。

(4)クーデター後、ナポレオンとタレーランはConsulat(統領政府)を設立し、1804年には、ナポレオン帝政を作った。タレーランは両体制の外相を務め、帝政では皇帝侍従長も兼任するようになった。

 しかし1806年以降、ナポレオンとタレーランは外交と戦争政策で明確に対立するようになり、07年、タレーランは外相を辞任した。タレーランはナポレオンの外交政策アドバイザーを続けたが、同時に彼は墺露両政府から賄賂をとって、ナポレオンの戦争を妨害し始めた。常に冷静で冷酷であったタレーランにとって、ハプスブルク(墺)帝国、プロイセンプロシア)帝国、ロシア帝国大英帝国という当時の欧州四大帝国のすべてと長期戦争を続けるナポレオンは、「フランスの敵、そしてヨーロッパの敵」となったのである。

(5)1813年秋、ナポレオンの対露遠征が大失敗であったことが明らかになると、タレーランは活発なナポレオン帝政破壊工作を開始した。1789年にブルボン王朝に打撃を与える革命運動に加担した「大貴族」タレーランは、1813年になると、「ブルボン正統主義」を提唱する守旧派勢力の指導者に変身したのである。

 そして1814年5月にブルボン王朝が復活すると、ナポレオン帝政の外相であったタレーランが、またしても外相に就任した。

(6)1814年秋~15年春のウィーン会議においてフランスの国益を守ることに大成功したタレーランは、15年夏にブルボン王朝の首相兼外相となった。しかしタレーランの1789~1813年の苛烈な裏切り行為を決して忘れていなかったルイ18世の側近たちは、国王を説得してタレーランを解雇させた。

 失脚したタレーランは「リベラルな反体制派」に再変身して、元老院における政策討論でブルボン王朝の“保守反動”政策に反対し続けた。そして1830年に「七月革命」が起きると、タレーランは即座に反ブルボン派のルイ・フィリップ王を支持したのである。この革命の後、「七月王政」はタレーランに外相就任を要請したが、すでに高齢(76歳)であったタレーランはそれを断り、次の4年間、ロンドンで駐英大使を務めて長い外交家のキャリアを終えた。

 厚顔で鉄面皮なタレーランは自分の変節行為について、「私は不道徳な陰謀策士とみられてきたが、実は私は冷静な態度で人間たちを軽蔑していただけなのだ。……私が策略や陰謀を企てたのは祖国を救うためであり、私の共犯者はフランスであった」と述べていた。

 しかし1814年春にナポレオンが失脚し、敗戦国フランスが敵国軍に占領された後のタレーランの政治行動と外交政策を観察すると、「私が策略や陰謀を企てたのは、祖国を救うためであった」というタレーランの“言い訳”にも、かなりの真実味があったことが理解できる。祖国敗北の後、悪名高き“裏切りの常習犯”であったタレーランは、自分が「偉大な忠国者」であることを証明してみせたのである。

 1814年春のパリ条約におけるタレーランの活動は、素晴らしいものだった。常に冷静で大胆で狡猾であったタレーランは四戦勝国(英露普墺)を相手に堂々と敗戦交渉を行い、戦勝諸国にフランスの要求をほとんど呑ませてしまったのである。

 1814年4月のフランスは無政府状態であった。ナポレオン敗北とフランス政府崩壊に驚いた国民は、茫然自失の状態であった。

 当時ソルボンヌ大学歴史学教授であったフランソワ・ギゾー(後に仏首相となった)は、「敗戦時、すべての国民が虚脱状態であった。国家危機の真っ只中で、誰も行動しようとしなかった。人々は不平不満を並べたてるだけで、何も実行できなかった。フランス政府の高官たちは自分が逃げ出すことに忙しく、祖国の運命には無関心であった。フランス国民は、『今後、自分たちがどのような国家を望んでいるのか』ということを具体的に考える能力すら失っていたのである」と回想している。

 このような全国民の虚脱状況にあって、「ナポレオン失脚後のフランス」に関して準備していた人物が一人だけいた。タレーランである。

 彼は1805年から「ナポレオンはいずれ大失敗するだろう」と冷酷に予告していたから、フランスの敗北にまったく驚かなかった。1813年からタレーランはナポレオン失脚後の政治体制をいろいろ構想していたが、14年になると、「もう一度、ブルボン王朝を復活させるしかない」という結論に達した。

 タレーラン自身は、ブルボン家が好きではなかった。しかし「現在のフランスを内乱・内戦から救うためには、もう一度、ブルボン家を利用するしかない」という苦渋の結論に達したのである。

 そしてタレーランブルボン家を復活させるに際して、正統主義(legitimacy)原則という理屈を持ち出した。

 この正統主義とは、(1)ヨーロッパの政治と外交は、正統な王家を代表する諸政府によって運営されるべきである、(2)ヨーロッパの平和と安定に対する加害者は「王権簒奪者」であった革命派とナポレオンだったのであり、ブルボン家は被害者であった、(3)したがって被害者であるブルボン家には、革命前のフランスの領土と権力を回復する正当な権利があり、ヨーロッパ諸政府はブルボン家が再び君臨しているフランスを処罰すべきではない、という理屈である。

 実にブリリアントな屁理屈である。タレーランがこの正統主義の理屈を持ち出し、それを戦勝諸国に呑ませれば、戦勝国はフランスを処罰する根拠を失う。そして弁舌が巧みで行動力のある外交家タレーラン(革命政府とナポレオン帝政に積極的に加担したタレーラン!)は、たった一人でこの「正統主義」という屁理屈を戦勝諸国に呑ませてしまったのである。

 その結果、1814年5月にナポレオン戦争終結させるために結ばれたパリ条約では、フランスが革命前の領土をすべて回復することが認められ、しかも賠償金はゼロであった。革命政府とナポレオンがヨーロッパ諸国にあれほど巨大な損害を与えたにもかかわらず、フランスは処罰と復讐を逃れたのである。

 しかもタレーランは敗戦状態のドサクサを利用して(ルイ18世が実際に国王の権力を握る前に)、ブルボン復古王朝が遵守すべき憲法までさっさと決めてしまった。

 タレーランが決めた新憲法は、イギリス的な自由主義的立憲体制であった。ブルボン家はこのリベラルな憲法案を嫌ったが、タレーランは、「ブルボン家がこの憲法を受け入れることが、王制復古の必要条件なのです」と言葉巧みに説得して、新憲法を押しつけてしまった。

 アンチ・ナショナリスト開明的なコスモポリタン)であったタレーランは、鈍感なくせに強情なブルボン家が、以前の絶対主義的君主制をもう一度復活させようと試みることを阻止したかったのである。

 同時代の小説家バルザックは、「敗北したフランスが戦勝諸国によって分割される、という悲劇から祖国を救ったのがタレーランだ。ブルボン家を国王に復位させたのも、タレーランだ。そのタレーランに対して、フランス国民は罵詈雑言を浴びせたのである」と記している。