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天文17年(1548年)、東山丘陵の末端に織田信秀が築城した。三河国松平氏駿河国今川氏などの侵攻に備えてのもので、実弟織田信光が守る守山城と合わせて東方防御線を構成したものである。信秀は、これまでの居城であった古渡城を放棄し、末森城を居城とした。

天文21年(1552年)に信秀は死去した。信秀の居城である末森城を譲られたのは、織田信勝(達成、信成、あるいは信行とも。織田信長実弟)であった。

弘治2年(1556年)、信勝は林秀貞柴田勝家などとともに信長に叛旗を翻すが、稲生の戦いで敗れる[7]。この際、信勝は末森城に籠城しており、信長は末森城下の町に火を放った。このとき、末森城内にいた母・土田御前の介入で、信勝は赦免され、末森城は陥落を免れている。

しかし永禄元年(1558年)、再び謀反を企てたのを柴田勝家が信長に内報し、信勝は清須城で謀殺された。これにより末森城は廃城となったとされるが、後に、小牧・長久手の戦いに際して、織田信雄が再び末森城を使用したという(後述)。

なお天文22年(1553年)、城主の信勝が加賀の白山比咩神社から分霊を迎え城中に白山社を祭ったものが廃城後も近隣の人々の信仰を受けて維持され、明治になって近隣の神社と合祀されて城山八幡宮となった。また、城の西北山麓に信秀の霊廟があったが、現在は名古屋市千種区四谷通にある桃巌寺内で信勝とともに供養されている。

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1534年生まれの信秀の嫡男、織田信長那古野城で生まれた可能性が高いとされている。信秀は那古野城を幼い信長に譲り、自身は同じ台地の東南方を固めるために現在の真宗大谷派 名古屋別院(名古屋市中区)の地に古渡城を築いてそこに移った。なお那古野城奪取は1538年説もあり、勝幡城で誕生ともいわれる。

1555年、信秀の後を継いでいた織田信長は、一族の織田信友を滅ぼして清須城(清須市)に移った。信長が離れた後の那古野城は信長の叔父信光、信長の重臣林秀貞らが一時入ったが、やがて廃城となった。

50年後の1609年、徳川家康がこの城の故地に目をつけ、名古屋城の築城に着手する直前には、鷹狩に使われるような荒れ野になっていたと伝えられている。

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