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20年近く前に出版され、現代を予見したような内容が書かれた吉本隆明氏『ひきこもれ』(20年9月に新装版が刊行)から、「不登校生」に向けた熱いメッセージを紹介します。

不登校について考える時にぼくがいつも思い出すのは、子どもの頃、教室に流れていた嘘っぱちの空気です。

偽の真面目さ、偽の優等生、偽の品行方正――先生が求めているのは、しょせんそういったもので、見かけ上だけ、建て前だけ申し分のない生徒でいればそれでいいのです。

生徒のほうも小学校高学年くらいになるとよくわかっていて、「それに合わせればいいんだろう」と思って振る舞っている。ぼくはそれを「偽の厳粛さ」と呼んでいますが、とにかく先生と生徒の両方で嘘をつきあって、それで表面上は何事もなくうまくいっているような顔をしているという、そういう空気がたまらなく嫌でした。

嘘は誰でもつきますが、嘘をつきあって、それでいて真面目で厳粛であるというのは、いくら子どもでも耐えがたいわけです。だから、学校というのはなんて嫌なところなんだろうと思っていました。

実際、小学校高学年から中学校くらいにかけて学校に行くのがきつくてたまらなくて、よくさぼっていました。いわば不登校的な要素の強い生徒だったのですが、それは「偽の厳粛さ」のせいです。授業と授業の間の休み時間、ぼくらの頃は遊び時間と言っていましたが、あの時間が唯一、息苦しさを緩和してくれる要素でした。あれがなければ、ぼくだって相当おかしなことになっていたと思います。

だいたい、教室の中で勉強がよくできるなんていうのは、偽の頭のよさだということくらい、ほとんどの生徒はわかっています。

ぼくは当時、学校の勉強がわりにできたのです。だから、先生のほうも「こいつ、いやがっていい加減に授業を受けてるな。生意気な奴だ」と思っていたはずなのですが、何も言いませんでした。

そう思っているのなら、その通り言ってくれればいい。「おまえ、勉強ができればそれでいいってもんじゃないんだぞ」と、教師が率直に言ってくれるような雰囲気があれば、それが一番いいわけです。しかし、そこのところは偽の感情の交流でもってすまされていた。どこまでいっても偽物なのです。

教師は黒板に向かって数式を書いたり、文法を説明したりして、授業をきちんとこなしてくれればそれでいい。生徒にいつも背中を見せていればたくさんなのです。

「とにかく教師は生徒に向き合うべきだ」という考えには、子どもを「指導」してやろうという、プロを自任する教師の、ある種思いあがった気持ちがあります。そんなことをしなくても、毎日後ろ姿を見ているだけで、子どもはいい先生を見抜きます。自分の好きな先生を見つけて、勝手に影響を受けていくのです。

それを、向き合って何かを伝えようとか、道徳的な影響を与えようなどとするから、偽の厳粛さが生まれ、子どもに嫌な圧迫感を与えるのです。不登校が長引く原因も、こんなところにあるのではないでしょうか。

会社でも、家庭でも、どこか率直ではないというか、本質と別のところで上っ面の調和を保っているようなところがある。

でもぼくは、一般社会の中にいて、不登校的な生き方を貫いていくべきだと思うのです。自分たちが優れていると思っている人も、その逆の人も、一般の人たちとは別に自分たちだけの社会を作ろうとは思わないほうがいい。

確かに学校にいると、くだらないことや嫌なことがたくさんあります。でも、前にも述べたように、学校などというものは、適当にさぼりながら何とか卒業するくらいでいいのです。重たく考える必要はありません。どうしてもみんなと一緒にやらなくてはいけない最小限のことだけをやる。その上で、自分の中の不登校的な感覚を失わずにやっていけばいいのです。

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尾崎豊

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