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僕は偏差値35から東大を目指して2浪しましたが、受験勉強をはじめた当初は、ノートもただ写すだけで、大事なポイントがわかっていませんでした。ところが、合格した友人たちのノートを譲り受けたとき、彼らが図を描いて問題を整理していることを知ったんです。

それを参考にして、例えば世界史ならヨコ軸に「フランス」「イギリス」、タテ軸に「17世紀」「18世紀」をとった2×2のマトリクス(「田の字」の図)で考えてみると、余計な枝葉が消えて、思考が整理されました。

社会というものは、あまりに複雑で、すべてを1つの型だけで見るのは難しいものです。自然科学では、雑音を削ってピュアな見方をすることもできますが、社会科学ではそれは難しい。やはり多面的な見方をして、それらを合わせた理解をすることが重要だと思います。

僕は、何かを深く理解する、物事を深く考えるときに、それを自分自身や、誰かに説明できる状態に持っていくことが、理解に深みを与えると考えています。

図で説明することによって、枝葉をそぎ落とした本質、要するに論理構造そのものを見るということですね。

「ミクロとマクロを行き来する思考」ですね。私の言葉で言うならば、「ビッグピクチャーで考える」ということです。全体を見たり、中の構造を見たり、それを行ったり来たりするという訓練が必要でしょう。

僕が「この人の思考は面白いな」と感じるのは、自分がまったく持っていない軸を持っていることに気づいたときなんです。ああ、こんな軸で考えられるのかと。逆に言うと、ただ1つの軸だけで見ていたのが、偏差値35だった頃の僕でした(苦笑)。

あまりにも情報があふれて、現象の処理だけに終始することがあるんですよね。

根幹、本質がどこにあるのか。その現象を生み出している構造や因果を理解すると、打つ手が見えてきます。

受験の段階では覚えることは少ないということです。科目によってばらつきはありますが、例えば物理や数学は、覚えることはほぼありませんよね。

小学生のときにピタゴラスの定理をしっかり理解できていると、その後の三角関数もすべてわかりますし、そこに線を足したり、右、左と見比べたりするだけで、別の定理がイメージできたりもします。実は、小学校のときから根本はずっと一緒だったりするんです。

僕自身、最初はそれに気が付かなかったんです。覚えなければならない法則や方程式がこんなにあるのかと。でも、実は1つ覚えればすべてに応用が効きますし、そもそも1つのことしか言っていないというようなことばかりですよね。法則や方程式という枝葉に気を取られて、本質を見ていなかったわけです。

受験になると、たいてい山のように参考書を買ったりしますが、僕は、そんなものはいらないと思っています。これはなかなか理解されませんが、参考書は1冊か2冊、それさえ読まなくてもいいほどで、教科書だけで十分だというのが僕の実感なんですよ。

まったく同じことを、東大卒の方からよく聞きます。参考書はいらない、教科書に全部書いてあるでしょうと。でも、受験生にそう言っても信じません。東大の試験会場に行けば、世界史や日本史は、みんな山川出版社の教科書を読んでいるんだぞと言いたいんですが(笑)。

年号なんかも、暗記する必要はないんです。時代の流れとして、17世紀はこんな時代だとわかっていれば、この出来事はその中盤で起きたということは覚えなくてもわかります。そこから派生したものの1つとして、年号が登場するだけです。それなのに、何年に何の事件が起きたとか、最初から必死で暗記しようとしてしまうんですね。

受験の土俵というのは、ルールも求められていることもシンプルで、リアルの社会に比べるとすごく簡単な世界です。ですから、思考の土台をしっかりさせれば、もっとレベルを底上げできると思うのですが。

しかし、今は、わかりやすいものや格好のいいものに飛びついてしまう時代だとも思います。最近の参考書はすごいですよ。カラフルで、美少女のイラストが描いてあったりして、「この参考書で勉強できたら嬉しい」という世界です。もちろんレイアウトの妙や見せ方を良くすることは大事ですが、なにか本質がともなっていないように感じますね。

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