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意外なことに、戦前の明治神宮では、正月7日間と同じくらい、例祭が行われる11月1日から3日にかけての参拝客数が多かった。それが1950年ごろから正月三が日の参詣客が激増してきて、現在では両時期を比べるまでもない(『明治神宮五十年史』)。

本来であれば、明治神宮にとってもっとも重要な行事は、明治天皇在世中の天長節(すなわち明治天皇の誕生日)であった11月3日の例祭、あるいは明治天皇が没した7月30日の明治天皇である。

これは、お詣りする人々の中で、明治神宮を「明治天皇を祀った神社」だと見なす意識が薄れ、代わりに「初詣スポット」とする考え方が主流になってきたことを示している。

そもそも江戸時代までの日本に現代のような「初詣」という慣習はなかった。江戸の人々も正月には社寺に参詣していたが、現代のように元日・三が日に集中していたわけではない。彼らは「時期」と「行き先」に関する細かいルールを守ってお詣りしていた。

例えば、川崎大師には元日ではなく大師の縁日(祀っている神仏の降誕、降臨などゆかりある日)である21日といったように、それぞれの神社仏閣の一年で最初の縁日(初縁日)にお詣りするのが一般的だった。正月は一か月にわたって様々な神社仏閣の初縁日が続くので、もともと江戸時代の正月のお参りは三が日に集中することなく「分散」していたのである。

江戸時代にも、元日に参詣する慣習はいちおうはあった。ただし現代のように「どこか有名な社寺へ参詣する」という感覚ではなく、居住地の氏神へのお詣りや、年ごとに変わる「恵方」(歳徳神がいるとされた方角)にある社寺へ参詣する恵方詣」が主流であった。

明治5(1872)年、我が国最初の鉄道が新橋―横浜間で開業したが、途中に川崎停車場が設けられたことで、東京から汽車に乗って川崎大師を訪れることができるようになった。当時この寺院の周辺はとてものどかで、近代化が進む東京の人々にとって絶好の気分転換の場であった。

また、当時は汽車に乗ること自体が貴重な体験で、ハレの楽しみだった。川崎大師がこのような「鉄道でのアクセスが良くリフレッシュできる」という独特の魅力を備えたことで、恵方や縁日などといった細かい縁起にこだわらず、いつでもお参りしたくなるスポットになったのだ。

それではなぜ正月三が日に参拝客が集中したのか? 当時は今以上に、業種によって休みの日にばらつきがあり、「日曜定休」や「毎月1日と15日定休」など様々な休暇の慣行があった。しかしほぼすべての業種が年頭の三が日を休みにしていたため、その時期に参詣する人々が増えていった。ほどなくして、この新しくてユルい慣習が「初詣」と呼ばれるようになったのである。

このように、初詣は、明治以降に都市から郊外へと延びる鉄道路線が誕生したことをきっかけとして誕生した。とくに、鉄道網の発達とともに都心から同一の社寺に複数の鉄道がアクセスするようになると、参詣客=乗客を奪い合う激しい競争が生じた。

そのほとんどは「国鉄(現在のJR)VS私鉄」という対立図式であったが、両者による運賃割引などのサービス合戦が呼び水となって初詣客数がどんどんふくれあがっていった。たとえば成田山の初詣客数は、「国鉄VS京成」の熾烈な競争によって大正15(1926)年から昭和15(1940)年にかけてじつに約10倍にまで激増していった。

現在の初詣人出ランキングトップ10の寺社をみると、川崎大師や成田山だけでなく伏見稲荷大社鶴岡八幡宮など、ほとんどすべてが大都市の郊外に位置しており、さらに複数の鉄道路線がアクセスしていることがわかる。

これは偶然ではなく、初詣の成り立ちをふまえれば、アクセスの良い郊外の社寺がランキング上位にあるのは必然的な結果なのである。三が日に大都市郊外の有名社寺に数百万人の参拝客が一挙に押し寄せる「密」な現代の「初詣」の姿は、明治以降の近代化・都市化の産物だったわけである。

ところが、初詣人出ランキングでトップに君臨する明治神宮は、ランキング上位の他の社寺と比べると様々な面で“例外的”である。

まず、この神社はとびぬけて新しい。成田山新勝寺の開山が940年、川崎大師の開創が1128年である一方、大正9(1920)年に誕生した明治神宮は2020年にちょうど創建100周年を迎えたばかりである。

明治天皇の死去後に、その陵墓が東京ではなく京都(伏見)につくられることになったため、東京の政財界の重鎮たちが「東京に明治神宮を!」と猛烈な運動を起こし、100年前、代々木にこの神社が誕生した(前掲山口『明治神宮の出現』)。

立地をみても、明治神宮はきわめて例外的である。この神社が誕生した大正時代には、代々木という土地はすでに東京の都市圏の一部になりつつあったので、「郊外」とは言い難い。しかも、ランキング上位の他の社寺のほとんどには、参詣客の利用を見越して敷設された鉄道路線があるが、明治神宮にはそのような路線が一つもない。

にもかかわらず、日本中のあらゆる有名社寺のなかでもダントツNo.1の鉄道アクセスに恵まれているのである。明治神宮の公式ホームページによると、現在は徒歩5分圏内に4つの駅があり、JR、東京メトロ都営地下鉄の合計6路線が通っているという。

ここで創建当時のアクセスの良さを具体的にみてみよう。鎮座当初の明治神宮に行くには、東京市電、国鉄山手線(現在のJR山手線)、京王電軌、玉川電鉄のいずれかを使うのが一般的だった。この時点ですでに4路線の駅の徒歩圏内というかなり恵まれた場所にあるとわかる。

そして、図らずも明治神宮をさらにアクセスしやすい神社にしたのが、創建から3年後の大正12(1923)年におこった関東大震災である。この震災では、東京の東側の地域が壊滅的な被害を受けた。その後の復興のなかで、東京の人口は西部・南西部の方面へ大きく重心を移していったため、そちらに向かって網の目のように鉄道路線がはりめぐらされていく。

なかでもターミナル駅としてめざましい発展をとげたのが新宿と渋谷であり、その中間に位置する明治神宮は意図せずして鉄道によるアクセスがどんどん向上していった。まさに「棚からぼた餅」である。

震災後の昭和2(1927)年4月には、小田急電鉄が新宿―小田原間に小田原線を開業して参宮橋駅を設置し明治神宮の西参道に接続、同8月には東京横浜電鉄東横線が渋谷まで延伸して南西郊外および横浜方面から参拝しやすくなった。

昭和13(1938)年には渋谷―虎ノ門間に地下鉄銀座線が開業して青山六丁目駅(のちに神宮前駅表参道駅と改称)が設けられ、上野・浅草・銀座といった主要繁華街からのアクセスがさらに良くなった。

「君、地下鉄に乗つたか?……乗りに行つたか等々の会話は昭和二年の暮から数ヶ月に亘つて東京市中のそここゝにきかれた」(今和次郎『新版大東京案内 上』昭和4(1929)年)

と当時の書籍で紹介されているように、誕生からまだ間もない当時の地下鉄は単なる交通手段にとどまらず、輝かしい最先端の乗り物であり、一大アトラクションでもあった。

なお、明治神宮の鉄道アクセス向上は戦後もとどまるところを知らない。昭和47(1972)年、営団地下鉄千代田線の霞ヶ関―代々木公園間の開業と同時に、明治神宮前駅が開業した。すでに北千住まで伸びていた千代田線は国鉄常磐線と直通運転をしていたため、東京の東側だけではなく柏や松戸など千葉県内からも参拝しやすくなった。

それまで営団は他の私鉄各社に比べると初詣客輸送に消極的で、大晦日終夜運転も行っていなかったが、この年の大晦日に戦後初めての終夜運転を実施し、初詣記念回遊切符を発売した(『営団地下鉄五十年史』)。

また平成12(2000)年には代々木駅に都営大江戸線、平成20(2008)年には明治神宮前駅東京メトロ副都心線が開通した。副都心線は開業時から東武東上線西武池袋線と直通しているうえ、平成25(2013)年には東急東横線とも直通運転を開始して、和光・川越方面、所沢・飯能方面、および横浜方面からも明治神宮前駅に手軽にアクセスできるようになった。

実は創建プロジェクトが始まった当初、明治天皇を祀る神宮の鎮座候補地については、富士山や箱根、飯能(埼玉県)など様々な意見が出された。その後紆余曲折を経て、最終的に代々木に落ち着いたという経緯がある(前掲山口『明治神宮の出現』)。

他の候補地ではなく東京、しかもこのように鉄道でのアクセスが抜群に良い代々木という地に創建されたことが、初詣での明治神宮の人気の要因となったことは間違いない。

かくして、新しく誕生した明治神宮、郊外へ延びる複数の鉄道路線がアクセスする成田山国鉄VS京成電車)と川崎大師(国鉄VS京浜電車)が初詣でとびぬけて賑わうという、現代の私たちが見慣れた姿が定着していった。

このように明治神宮は、東京の都市化にともなう鉄道網の発達の恩恵を浴びるように享受していったが、それでいて「都会らしくない魅力」があった。それは、内苑の広大な森である。

明治神宮の造営は、明治以降の新しい「帝都」東京に、近代国家形成のシンボルである明治天皇を祀る神宮をつくるという新たな「伝統」形成を目的とした壮大なプロジェクトであり、建築・造園・林学などの分野から当時最先端の学知を結集して進められた(今泉宜子明治神宮―「伝統」を作った大プロジェクト』新潮社)。こうして大正期に誕生した人工の森が、現在では都内随一の豊かな森として訪れる人々の心を癒していることは周知のとおりである。

しかも、大手ゼネコンばかりが活躍する現代の巨大な公共事業とは異なり、この神社の造営過程では全国から青年団の団員たちが集結して「奉仕」した。そのため「国民みんなで協力してつくりあげた神社」というイメージが共有されるようになった。

戦後の高度経済成長期に、加速度的に東京の都市化が進展し公害問題が表面化すればするほど、それと反比例するかのように、内苑の木々が成長して荘厳さを増していき、明治神宮の森の「脱都市」という魅力は高まり続けていく。

森のなかの参道を歩きながら「こんなに素晴らしい森が東京にあるなんて…」と感嘆する人は、大正期の創建直後から史料上でたくさん確認できるし、現代でもごく一般的な感想であろう(筆者自身も耳にしたことが何度もある)。

このように、「脱都市」の雰囲気を堪能できるという点で、明治神宮は先述した明治初期の川崎大師と似たような魅力をもつようになったと言えるかもしれない。鉄道での訪れやすさにくわえて、都会の喧騒を忘れさせてくれる豊かな森が、参拝客を引き付けて止まないのだろう。

以上、明治神宮と初詣の歴史について、主として鉄道との関わりに注目して記してみた。もちろん、鉄道アクセスが良くて自然があれば自動的に人気が高まるというわけでもなく、人々が参詣をする動機には、多かれ少なかれそれぞれの神仏への信仰心があることは言うまでもない。

しかしながら、古くから変わらずに続いてきた「伝統」のように思われている初詣を、鉄道という近代化の装置とのかかわりから考えてみるのも、有益なことではないだろうか。

新型コロナの影響で「密」な初詣がにわかに問題視されている現在、とくにさしたる信仰上の理由がないにもかかわらず、やたらと三が日に混雑が集中する初詣の歴史を知れば、少し考え方も変わってくるだろう。

明治神宮に参拝するのなら、元日(三が日)ではなく、明治天皇にゆかりが深い7月30日か11月3日にしよう」とか「遠くにある有名な神社仏閣ではなく、近所の氏神様にお参りにいこう」などと柔軟に考えることもできるはずである。

余談となるが、私の2020年の「初詣」は、11月のある晴れた日の明治神宮であった。昨年まで大勢押し寄せていた外国人観光客の姿も見えず、境内はじつに閑散としていた。いつ訪れても、この神社の森を歩くときのすがすがしさは格別である。

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