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天皇陛下は、誕生日を前に、お住まいの赤坂御所で、アクリル板の設置など感染防止対策が取られる中、記者会見に臨まれました。

この中で天皇陛下は「この1年は、コロナ禍に翻弄されてきました。愛する方を失った御家族や御友人のお悲しみはいかばかりであったことでしょう。心から哀悼の意を表します」と述べられました。

そして「閉塞感からでしょうか、みずから命を絶つ人が増えていることも極めて痛ましいことで、皆で何とか防がなくてはなりません」と続けられました。

天皇陛下は、医療関係者や、社会で弱い立場にある人たちを支えてきた人々にも言及し「このような方々に対し、国民の間で感謝の念を広く共有することができた1年となりました」と話されました。

そして「今しばらく、国民の皆さんが痛みを分かち合い、協力し合いながら、コロナ禍を忍耐強く乗り越える先に、明るい将来が開けることを心待ちにしております」と述べられました。
一方、人々と直接触れ合うことが難しくなる中で始めたオンラインでの交流については「臨場感があり、人と人とのつながりを肌で感じることができました。引き続き、状況に応じた形で活用していきたいと思います」と話されました。

天皇陛下は、また、先日、宮城と福島で震度6強の激しい揺れを観測した地震を振り返りながら、まもなく発生から10年になる東日本大震災について「未曽有の災害がもたらした被害の大きさが改めて思い起こされるとともに、過去のこととしてではなく、現在も続いていることとして考える必要があることを改めて感じました」と述べられました。

そして「私も雅子も、被災地に永く心を寄せていきたいと思っています」と語り、再び被災地を訪れたいという気持ちをあらわされました。
療養が続く皇后さまについては、感染拡大による活動への制約などから、体調を整えにくくなっている面があるとしたうえで、「これからも、無理をせずにできることを一つ一つ着実に積み重ねていってほしいと思います」と話されました。

また、大学1年生の長女の愛子さまについては、「早いものでことしの12月で成人を迎えます。今後、成年皇族として公務に当たっていくことになりますが、感謝と思いやりの気持ちを持って、一つ一つの務めを大切に果たしていってもらいたいと思います」と話されました。

一方、秋篠宮ご夫妻の長女の眞子さまの結婚について、天皇陛下は、「国民の間でさまざまな意見があることは私も承知しております。このことについては、眞子内親王が、御両親とよく話し合い、秋篠宮が言ったように、多くの人が納得し喜んでくれる状況になることを願っております」と述べられました。

ことしの天皇誕生日は、感染拡大の状況を踏まえ、皇居での一般参賀や祝宴などは行われず、皇族方や三権の長らによる祝賀行事だけが、例年よりも規模を縮小して行われます。

天皇陛下が61歳の誕生日を迎えられたことについてアメリカのブリンケン国務長官は声明を発表し「アメリカ政府および国民を代表して心からお祝い申し上げます」と祝意を伝えました。

そして「バイデン大統領と私は、副大統領、および国務副長官として日本を訪問したことを懐かしく思っており、私たちの貴重なパートナーシップをさらに深め、拡大していくために、再び日本を訪問することを切望している」として、日本への訪問に強い意欲を示しました。

また、声明でブリンケン長官は「バイデン大統領と菅総理大臣が先月の電話会談で再確認したように、日米同盟は自由で開かれたインド太平洋における、平和と繁栄の礎だ」として、日米同盟の重要性を改めて強調しました。

そのうえで、日米の共通の目標として気候変動や新型コロナウイルスといった課題への対応を挙げ「日本の地球規模での指導力を称賛するとともに、両国の絆をさらに強化することを楽しみにしている」として日米の連携をさらに深めることを目指す姿勢を示しました。

(宮内記者会 代表質問1)
新型コロナウイルスの感染拡大により、皇室の活動も制限され、天皇陛下が多くの国民と交流される機会が減りました。国民との直接のふれあいが難しい中、陛下は皇后さまとご進講を重ね、オンライン行幸啓を始めたほか、元日には国民に向けたビデオメッセージも公表されました。感染症の影響が長期化する中で、コロナ禍の天皇や皇室の在り方、今後のご活動の方針について、どのようにお考えでしょうか。新しい取り組みについてのご感想とともにお聞かせください。

天皇陛下
日本の歴史の中では、天変地異や疫病の蔓延など困難な時期が幾度もありました。

これまでの歴代天皇の御事蹟をたどれば、天変地異等が続く不安定な世を鎮めたいとの思いを込めて奈良の大仏を作られた聖武天皇、疫病の収束を願って般若心経を書写された平安時代嵯峨天皇に始まり、戦国時代の後奈良天皇正親町天皇など歴代の天皇はその時代時代にあって、国民に寄り添うべく、思いを受け継ぎ、自らができることを成すよう努めてこられました。

その精神は現代にも通じるものがあると思います。

皇室の在り方や活動の基本は、国民の幸せを常に願って、国民と苦楽を共にすることだと思います。

そして、時代の移り変わりや社会の変化に応じて、状況に対応した務めを考え、行動していくことが大切であり、その時代の皇室の役割であると考えております。

国民を思い、国民に寄り添う点で、災害で被災された方々、障害者や高齢者、あるいは社会や人々のために尽くしてこられている方々にも心を寄せ、ねぎらい、励ましていくことはとても大切なことです。

それは、私と雅子二人の自然な気持ちであるとともに、皇室としての大事な務めであるとも思います。

この1年は、コロナ禍に翻弄されてきました。

愛する方を失った御家族や御友人のお悲しみはいかばかりであったことでしょう。

心から哀悼の意を表します。

また、コロナ禍の閉塞感からでしょうか、自ら命を絶つ人が増えていることも極めて痛ましいことで、皆で何とか防がなくてはなりません。

その一方で、強い使命感を持って医療に取り組んできた方々や保健所などで現場の対応に当たってきた関係者を始め、高齢者や障害者など、社会的に弱い立場にある人々を支えてきた関係者や、子供食堂のような、困難な状況に置かれた子供たちを支援してきた関係者など、多くの方々からお話を伺う機会を得、皆さんの有り難い尽力に思いをより深く致しました。

このような方々に対し、国民の間で感謝の念を広く共有することができた1年となりました。

このところ、新規感染者の数は、幸いにして全国的に減少傾向に転じているようです。

また、新型コロナウイルスワクチンの接種も始まりました。

今しばらく、国民の皆さんが痛みを分かち合い、協力し合いながら、コロナ禍を忍耐強く乗り越える先に、明るい将来が開けることを心待ちにしております。

同時に、現在の状況を見ると、新型コロナウイルス感染症の影響により、多くの国民の皆さんと直接触れ合うことが極めて難しくなっていることを、私たち二人も残念に思っております。

このような状況の中で、人々とのつながりを築き、国民の皆さんの力になるために、私たちに何ができるかを考え、宮内庁とも相談して、オンラインでの交流の可能性が検討されました。

昨年8月には「新型コロナウイルス感染症大流行下の水防災に関する国際オンライン会議」にお誘いを頂いて、オンラインで聴講し、会議後に、参加者の方々ともオンラインでお話ししてみたところ、臨場感があり、人と人とのつながりを肌で感じることができました。

そこで、その後、更に検討を重ね、昨年秋以降、オンラインで日本赤十字社の医療現場、高齢者や障害者の仕事や活動の場、そして、今年に入ってからは、昨年7月の豪雨災害の被災市町村を訪問し、それぞれ、関係者の皆さんとお話をすることができました。

このオンライン訪問には、感染症対策としての利点以外にも、同時に複数の場所にいる人々に会うことや、中山間地域など通常では訪問が難しい場所でも訪問できるという利点があることを実感いたしました。

この1年は公務に様々な制約が生じ、例えば、新年の一般参賀を行うことも難しい状態でしたが、代わりに、ビデオメッセージで国民の皆さんに私たちの気持ちをお話しすることができたことも含め、オンラインによる活動に新たな可能性を見いだせたことは、大きな発見と言えます。

地方を訪問する際の駅頭や沿道も含めて、現地で多くの方々と同じ体験を共有し、その土地、その土地の雰囲気を肌で感じるなど、実際の訪問でなければ成し得ない部分はあるものの、感染が収束しない現状では、オンラインは有効な手段と考えられます。

オンラインには、オンラインなりの課題もあるでしょうが、引き続き、状況に応じた形で活用していきたいと思います。

(問2)
ご家族についてお尋ねします。
皇后さまは療養が続く中でも、この1年多くの活動をされましたが、体調や様子について陛下はどのようにご覧になっていますか。愛子さまは今年で20歳になり、成年皇族の一員となられます。入学した学習院大学に通学できない中でのお過ごしようや父親としての向き合い方、将来の活動や結婚についてのお考えをお聞かせください。陛下は平成期、上皇さまと秋篠宮さまと定期的にお話する機会がありましたが、直接顔を合わせられない中でどのようにコミュニケーションをとられていますか。

天皇陛下
雅子は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大による活動への制約などから、体調を整えにくくなっている面はありますが、種々の工夫や努力を重ねながら、幸いにして、昨年も諸行事や諸儀式を滞りなく務めることができました。

特に、昨年の5月から6月にかけては初めての養蚕に取り組んだほか、11月には立皇嗣宣明の儀・朝見の儀を無事に終え、また、新年のビデオメッセージでは、一緒に国民の皆さんに御挨拶ができたことを良かったと思っております。

ただ、雅子はいまだ快復の途上にあり、体調には波があり、大きな行事の後には、疲れがしばらく残る傾向があります。

これからも、無理をせずにできることを一つ一つ着実に積み重ねていってほしいと思います。

また、雅子は私の日々の活動を支えてくれる大切な存在であるとともに、公私にわたり良き相談相手となってくれております。

私も、今後ともできる限り雅子の力になり、支えていきたいと思っています。

国民の皆さんには、これまで雅子に温かく心を寄せていただいていることに、改めて感謝の気持ちをお伝えするとともに、引き続き雅子の快復を温かく見守っていただければ有り難く思います。

昨年の4月から大学生になった愛子は、新型コロナウイルス感染症の影響により、オンラインでの授業が続いておりますが、昨年秋に初めて大学に登校した際に「大学では新しい知識を得たときに感じられる喜びを大切にしながら、様々なことに取り組んでいければと思っています」と語っていたように、大学での勉強に意欲的に取り組んでいることを私と雅子もうれしく思い、また、少し頼もしくなったように感じております。

オンラインでの授業では、課題もかなり多く、愛子もその一つ一つに一生懸命に取り組んでおり、大変そうですが、授業を準備される先生方の御苦労も大きいものと思いました。

私たちも、愛子がオンラインで授業を受けているのをそばで見る機会もありましたが、私たち自身も、新たな知見を得ることができたり、何か学生時代に戻ったような気持ちになりました。

今後、どのような状況の大学生活になるかは分かりませんが、愛子には、有意義な学生生活を送ってもらいたいと願っております。

愛子は、普段時間のあるときには、屋外で運動も少ししたりしていますが、家の中で過ごす時間も長いので、私たち家族3人で楽しく団欒する時間を大切にしてくれています。

また、早いもので今年の12月で成人を迎えます。愛子が誕生した時の会見でも申しましたが、孟子の言葉を参考にした「敬宮」「愛子」という名前には、人を敬い、人を愛してほしいという、私たちの願いが込められています。

それは20年経つ今でも変わっておりません。

今後、成年皇族として公務に当たっていくことになりますが、感謝と思いやりの気持ちを持って、一つ一つの務めを大切に果たしていってもらいたいと思います。

そして、いろいろな方からたくさんのことを学び、自らの考えを深めていき、また、今まで以上に、様々な経験を積み重ねながら視野を広げていってほしいと願っています。

その過程で、将来のことも含め、私たちで相談に乗れることは、できる限りしてあげたいと思います。

上皇陛下や秋篠宮と直接会う機会が減っていることは残念ですが、上皇陛下や秋篠宮とは適宜連絡を取るようにしております。

ただし、詳細については、回答を控えたいと思います。

上皇陛下、上皇后陛下には、新型コロナウイルス感染症の感染拡大にお心を痛められつつ、日々を送っておられることと拝察いたします。

どうか御無理をなさらず、お身体を大切に、末永くお健やかにお過ごしいただきますよう心よりお祈り申し上げます。
(問3)
秋篠宮さまの立皇嗣の礼が終わりました。陛下のご感想をお教えください。

長女眞子さまは、小室圭さんとの結婚についてのお気持ちを公表した文書で「天皇皇后両陛下が私の気持ちを尊重して静かにお見守りくださっていることに、深く感謝申し上げております」と記されました。秋篠宮さまは結婚を認める考えを示されましたが、陛下はどのようにお考えですか。お二人の結婚に関して国民の間で様々な意見があることについて、どのように捉えていらっしゃいますか。

天皇陛下
延期されていた立皇嗣の礼関連の主要な諸行事が滞りなく終了したことに安堵しています。

その立皇嗣宣明の儀において、秋篠宮は、「皇嗣としての責務に深く思いを致し、務めを果たしてまいりたく存じます」と述べたことを心強く聞きました。

秋篠宮には、皇嗣として、その職務もますます重いものとなっていきますが、秋篠宮妃共々、身体に気を付けながら、務めを果たしていってもらいたいと思います。

眞子内親王の結婚については、国民の間で様々な意見があることは私も承知しております。

このことについては、眞子内親王が、御両親とよく話し合い、秋篠宮が言ったように、多くの人が納得し喜んでくれる状況になることを願っております。
(問4)
現在、皇位継承は男性に限られていますが、長い歴史の中では女性が天皇になった事例もありました。一方、ヨーロッパの王室では近年、性別に関係なく長子を優先して継承する動きが広がっています。皇室の歴史や伝統と、世界的に進むジェンダー平等や女性の活躍推進の動きについて、陛下はどのようにお考えでしょうか。

天皇陛下
御質問において言及されたようなヨーロッパの王室などにおける状況はよく承知しています。

しかし、昨年も申し上げたとおり、制度に関わる事項について、私から言及することは控えたいと思います。
(問5)
この1年を振り返って印象に残った出来事についてお聞かせ下さい。

間もなく東日本大震災から10年になります。陛下はこれまで皇后さまと被災地をたびたび訪問し、被災者に心を寄せてこられましたが、被災地の人々や復興への思いもあわせてお聞かせ下さい。

天皇陛下
この1年は、新型コロナウイルス感染症が猛威を振るいました。

新年のビデオメッセージでも述べたとおり、私も雅子も、この感染症がなかなか収束しない状況を憂慮しております。

また、この感染症の感染拡大の影響により、特に、多くの可能性を持つ若い人々が苦境に陥っていることや、女性や若者の自殺や家庭内暴力児童虐待などが増加していることなども危惧しております。

他方、この苦難に直面しての我が国の国民の忍耐力や強靭さに感銘を受けるとともに、この1年でとても多くの「感謝」の気持ちを感じたことも印象に残ったこととして挙げられます。

医療従事者の皆さんが、新型コロナウイルス感染症が流行し始めてからというもの、自らの感染の脅威にさらされながらも、強い使命感を持って、最前線で、昼夜を問わず、患者さんの命を救うために尽力いただいていることに心から感謝いたします。

また、保健所の方々など、患者を適切に医療現場につなぐべく、努力をしている方たちにも心からの感謝の気持ちを伝えたいと思います。

この1年、新型コロナウイルス感染症の様々な影響に苦しんでいる方々の思いや置かれている状況をより深く理解し、寄り添えればとの気持ちから、様々な分野の専門家や現場で対応に当たられている方々から、雅子と共にお話を伺ってきました。

高齢者や障害者、あるいは生活困窮者や生活困窮世帯の子供たちなどの現状について理解を深めるとともに、たくさんの方が、社会的に弱い立場にいる人々を支え、その命と暮らしを守るために力を尽くしていることを大変有り難く思いました。

そのような方々が、自らも感染症による負担や苦労を強いられる中で、なおも大勢の他者のために尽くす姿に大変感心いたしました。

また、教育現場では、多くの学校行事が中止とならざるを得ない中、小学6年生たちが、自らプロジェクトチームを立ち上げ、様々な演出を凝らして思い出に残るイベントを作り上げた話や、地域で子供たちの学びを支えるボランティアが増え、例えばボランティアの皆さんが教室の消毒作業に協力してくれた話などを伺い、新型コロナウイルス感染症の感染拡大によって様々な制約が課される中、子供たちのたくましさや人々の優しさを今まで以上に感じる話を聞くことができました。

長引く感染症の流行への対策を継続することは努力を要します。

自らのできる範囲で感染の拡大防止に努める多くの皆さんに感謝いたします。

親族・友人など親しい人との直接的な接触を避け、暮らしの隅々に注意を払う生活にはストレスを感じる方も多いと思います。

皆さんお一人お一人が、人知れず続けている努力を多といたします。

英国で、歩行器の補助を必要としながらも、新型コロナウイルス感染症に対応する医療従事者を支援するため、100歳の誕生日までに自宅の庭を歩いて100往復する活動により多額の寄付金を集め「キャプテン・トム」の愛称で知られるようになったトム・ムーアさんの行動とムーアさんへの爵位授与、そして、今月、ムーアさんが新型コロナウイルス感染症で残念ながら亡くなった際に、多くの人がその死を悼み、功績を讃えて拍手を送ったことも深く印象に残りました。

尽力する医療従事者を、自分のできる精一杯の努力で支援しようとする人を、更に無数の人々が優しく包むように応援する姿に感銘を受けました。

ムーアさんは、生前「明日はきっと好い日になる」との言葉を残しています。

今は確かに困難な日々を送らざるを得ませんが、一人一人が自分にできる感染防止対策を根気強く続けることで「明日は好い日になる」と私も信じ、そうなることを願わずにはいられません。

新型コロナウイルス感染症について、日本国内への影響を中心に述べてきましたが、昨年強い印象を受けたのは、この感染症が全世界的な広がりを持つものになっているということです。

先日、私は雅子と共に「国連水と衛生に関する諮問委員会(UNSGAB)」満了5周年のオンライン国際会議に参加しましたが、その場でも感染対策としての水の重要性が話題になりました。

感染拡大防止対策として、我が国では、いわゆる三密回避、マスク着用と並んで手洗いが当然のこととして行われていますが、世界には,手洗いに適した衛生的な水が満足に得られない地域もあります。

また、世界では、特に発展途上国を中心に、新型コロナウイルス感染症以外でも、結核マラリアHIV/エイズエボラ出血熱など、様々な感染症が非常に多くの人命を奪っています。

これらの感染症を克服するには、一国のみの努力では不十分であり、国際的な協力が不可欠であることを改めて認識させられています。

昨年は新型コロナウイルス感染症に加え、自然災害もありました。

7月には、豪雨により、熊本県を中心に、多くの尊い命を失われたことが痛ましい記憶として刻み込まれています。

気候変動由来と見られる自然災害の巨大化・広域化が懸念されます。

昨年は戦後75年でした。節目の年を迎え、戦争の悲惨さと平和の尊さを今後とも心に刻んでおかなければならないとの思いを新たにいたしました。

また、先の大戦で世界で唯一の被爆地となった広島、長崎には永く心を寄せていきたいと思います。

明るい話題としては、昨年12月に、小惑星探査機はやぶさ2が、長期にわたる壮大なミッションの第一部をやり遂げたことにより、人々に夢をもたらしたという快挙がありました。

はやぶさ2が持ち帰った成果がどのような発見につながるのか、私のみならず多くの人々が期待していると思います。

東日本大震災からもう10年が経とうとしていますが、この震災が2万人を超える死者・行方不明者をもたらし、各地に甚大な被害を及ぼしたことは、今思い出しても胸が痛みます。

震災直後、岩手・宮城・福島各県へのお見舞いや首都圏に避難されてきた方々のお見舞いをさせていただき、その後も、雅子と一緒に被災地を何度か訪問して復興状況を見てまいりましたが、被災地ではまだ様々な問題が残っているように思います。

確かにインフラ面では再建が日々進んでいますが、御家族など親しい方が亡くなられた方々、避難を余儀なくされ、家族や友達が離散してしまったり、生活環境が一変してしまった方々のことを考えると、震災からの傷がまだ癒えていないというような気がいたします。

つい最近の、今月13日には、マグニチュード7を超える地震福島県沖においてありました。被災された皆様に心からお見舞いをお伝えいたします。

報道では、10年前を思い出したとの声も多く聞かれました。

未曽有の災害がもたらした被害の大きさが改めて思い起こされるとともに、東日本大震災については、過去のこととしてではなく、現在も続いていることとして考える必要があることを改めて感じました。

私も雅子も、今後とも被災地の方々の言葉に耳を傾け、被災された方々の力に少しでもなれるよう、被災地に永く心を寄せていきたいと思っています。

そしてまた、機会があれば、10年を超す歳月を経た被災地を訪れてみたいと願っております。
(関連質問 問1)
眞子様と小室さんの結婚の問題について、陛下は「多くの人が納得し喜んでくれる状況になることを願います」というふうに述べられました。そのためには何が必要とお考えになりますでしょうか。

天皇陛下
この件に関しましては、先ほど申し上げたこと以上のことは、今はお答えは差し控えさせていただきたいと思います。

(問2)
2問目の質問で愛子様の現在の御様子についてお伺いいたしましたが、愛子様の将来の御結婚については、陛下はどのようにお考えでしょうか。

天皇陛下
愛子は先ほども申しましたとおり、大学生活も始まったばかりですので、今後ともいろいろなことを学びながら、自分としての視野を広めていくことになると思います。

私もその過程でいろいろなことを恐らく相談に乗ることと思いますので、結婚のことも含めて、いろいろ将来のことも話し合う機会というものがあるかと思います。

(問3)
一番最初の、新型コロナに関する質問の関連なんですけれども、昨秋以降、オンラインの活動を陛下も始められていましたが、それに至るまでですね、なかなか国民との直接の交流ができないという状況がずっと続いた中で、陛下自身ですね、もどかしい思いだったり、早く国民に会いに行きたいというかですね、そういったですね、危機感だったりですね、そういった思いを抱いたことはございましたでしょうか。

天皇陛下
現在の新型コロナウイルス感染症の感染状況では、三密を避ける、つまり人と人との交流というものが閉ざされてしまって、言ってみれば本当に日常生活が大きく変わったというふうに感じます。

その中で、本当に一人一人が大変な御苦労をされていた現状では、やはり皆さんのことを、私も大変気になったわけですけれども、今は皆さんのところに会いに行くということ、お話をするということをしてはいけないことでありますので、国民の皆さん一人一人への思いを持ちながら、今、自分ができることはいったい何なんだろうかということを常に考えながら、日々を過ごしてきたように思います。

その過程でもって、オンラインというものもいろいろ普及してきましたし、先ほどもお話ししましたように、水の関係の国際会議で実際にオンラインをやってみたところ、人と人とのつながりというものを肌で感じることができましたので、宮内庁ともいろいろ相談をしながらオンラインで、皆さんとつながっていくということを考えるに至ったわけです。

ですから、オンラインはそれなりの課題というものも、先ほどお話ししたようにあると思いますけれども、これからはそういうものを使っていきたいというふうに思っております。

「この『多くの人が納得し喜んでくれる状況になることを願っております』というご表現は、秋篠宮さまが2018年11月の誕生日会見で眞子さまのご結婚問題について『多くの人がそのこと(=小室家の金銭トラブルへの対応)を納得し喜んでくれる状況、そういう状況にならなければ、私たちは、いわゆる婚約に当たる納采の儀というのを行うことはできません』と述べた上で、昨年の誕生日会見でも『決して多くの人が納得し喜んでくれている状況ではない』と改めて述べられたことを踏まえられたものです。

 天皇陛下は皇太子時代、皇室制度やご家族の問題などセンシティブ(繊細)な問題についての質問には、一貫して『発言を控えるべき』『発言は控えたい』などと回答されてこられました。しかし、眞子さまのご結婚問題については秋篠宮さまのご発言を引用する形ではありますが、敢えて発言をされたわけです

 眞子さまは昨年11月に公表したお気持ちの文書の中で、天皇陛下が「私の気持ちを尊重して静かにお見守りくださっている」と綴っていた。今回はその“沈黙”を破るかたちで、ご発言されたことになる。

「これは国民の理解を得られるように努力しなさいと眞子さまに促されたとも受け取れるのです。皇室は天皇を頂点とした家父長制度的な慣習を残しており、女性皇族はご結婚で皇室を離れるのを前に『朝見の儀』に臨み天皇にお別れの挨拶をします。黒田清子さんは当時天皇だった父の上皇陛下に挨拶をされましたが、高円宮家の次女・千家典子さんも三女の守谷絢子さんも上皇陛下に挨拶をされています。上皇陛下は典子さんや絢子さんにとっては祖父の兄のご長男です。

 一般的には遠縁ですが、皇室の家長という立場で天皇陛下眞子さまについて、今や静かに見守っているだけではいられないとの考えに至られたのではないでしょうか」(同前)

 眞子さまはご結婚で皇室を離れるに当たり、元皇族としての品位を保つために最大で1億5000万円を超える一時金を手にされる可能性がある。そうなると、やはり当面の生計を立てる術はこの資金しかないということになろう。

眞子さまのご結婚について反発する声が国民の間に根強い背景には、小室さんの母・佳代さんの元婚約者に対する小室家の冷徹に見える対応や3年間に亘ってしっかりと説明責任を果たしてこなかった事実があります。ですが、やはり最も大きいのは小室さんが一時金をあてにしているのではないかという疑念です。

 この一時金の原資は国民の税金であり、一時金はまさに皇室の尊厳を維持するためのものです。天皇陛下が、ご発言を控えるのではなく敢えて発言をされた背景には、一時金の支給には一点の曇りもあってはならないとのお考えがあるのではないでしょうか。そういう意味で、天皇陛下は今回、眞子さまだけではなく、弟の秋篠宮さまにも国民の理解が得られるよう努力しなさいと促されたとも受け取れるのです。

 天皇陛下の誕生日会見でのご発言は、秋篠宮さまのご発言をトレース(なぞる)しただけのもののようにも見えますが、皇室の尊厳を守るという天皇陛下の強い思いが隠されているように思えてならないのです」(同前)

天皇陛下は、たいへん慎重にお言葉を選ばれたのでしょう。眞子さまや小室さんへの批判と受け取られるような文言を使うことは避けられつつも、二人には結婚に向けての”宿題”が残っているとの認識をはっきり示されたご回答だと思います。ただ、ひとつ気になったのは、眞子さまが発表された文書との”温度差”でしょうか……」

「陛下も秋篠宮さまと同じく、眞子さまの意志を尊重しつつも、現状ではまだ小室さんとの結婚に“賛成”はできないとの認識なのではないでしょうか。ただ、眞子さまに『御両親とよく話し合い』することを求められたように、この問題は秋篠宮家で解決すべきであり、ご自身の発言によって事態が動くのは好ましくないと、陛下はお考えなのでしょう」(前出・皇室担当記者)

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確定依頼後、取引状態が「承認待ち」となっている振込(納付、振替)データを修正する必要がある場合に、データ作成者が操作します。
差戻しにより、データは作成者に戻りますので、作成者は修正を行います。

陛下は、雅子さまとご一緒に、愛子さまが受講される様子をそばでご覧になる機会があることも明かされた。その感想として「新たな知見を得ることができたり、何か学生時代に戻ったような気持ちになりました」と述べられている。

愛子さまが進学された学習院大学文学部は、陛下が学ばれた学部でもある。’80年2月、在学中だった陛下は成年式を前に行われた会見で次のように語られている。

《青春ってものはやはり、あらゆるものに挑戦し、それから自分の力を試す、自分の中のもの、外のものに限らずそういった力を試す時期であり、また、模索する時期じゃないかなって考えるんです》

「陛下は幼い頃から奥州街道などの道に興味を持たれ、大学では中世の交通史や流通史を学ばれました。いっぽうで音楽部などクラブ活動にも精力的でした。多方面でさまざまな学生と交流できたことは、陛下にとってかけがえのない経験だったようです。ご卒業時の会見では、『学生たちが自分なりの生き方を見出そうと一生懸命努力していることを学びました』と回想されていました」(皇室担当記者)

あらゆるものに挑戦し、自分の力を試す――。当時抱いた陛下のお気持ちは、今でも変わらないようだ。陛下は会見で、今年20歳を迎える愛子さまに向けて「いろいろな方からたくさんのことを学び、自らの考えを深めていき、また、今まで以上に、様々な経験を積み重ねながら視野を広げていってほしい」とエールを送られている。


超古代822 明治維新の悪人たちフルベッキ 岩倉具視(番人) 南朝北朝 大室寅之助 伊藤博文の孝明天皇刺殺 ダビデ・イエス降臨 (世直しTV 竹取翁 国際かぐや姫学会)2020.5.12

所詮龍神は魔物ですよ

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鳥羽・伏見の戦い薩長軍勝利。このとき寅之祐が大阪に初上陸。(大阪に明治天皇上陸の記念碑あり。)一同は京都御所をめざす。 1月8日慶喜松平容保松平定敬ら重役連と軍艦開陽丸にのり江戸に逃げ帰った。 1月10日のあけがた京都御所にいた睦仁(京都明治天皇)は御所を脱出。鹿島昇が京都明治天皇は暗殺されたと書いてたがウソで維新後、京都明治天皇比叡山方面の 某寺で僧として生き延びた。同日入れかわるようにして大室寅之祐が軍隊を引き連れ京都御所に入った。

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孝明天皇 譲位の決心

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 堀川御所に移住した後の孝明天皇、そして睦仁親王の情報は当然ながらほぼ皆無です。ただし、その後の情報は皆無ながらも、孝明天皇については堀川御所移住前の情報はあります。しかし、睦仁親王については堀川御所移住前から情報は少なく、その後は情報が皆無なので、睦仁親王がどのような考えや思いをもって周辺に当たっていたかは分かりません。

睦仁親王大室寅之祐は明治4(1871)年11月17日に東京皇城の吹上御苑において揃って大嘗祭を執行されておられますので、ともに天皇と呼ばれて何ら差し支えない立場です。つまり「明治天皇は二人いた」のですが、大室寅之祐が表の明治天皇として表に出て、睦仁親王は「ウラの明治天皇」となったので、いわば國體明治天皇となったのです。

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閑院宮典仁親王の第6皇子として産まれました。
閑院宮家(かんいんのみや)は113代東山天皇の第6皇子・直仁親王から始まる宮家です。

宮家は天皇の後継ぎをだすために残された天皇家の分家。直系の子孫が絶えたときに皇位継承者を出すための家です。

将軍家における御三家、御三卿のようなものです。

師仁(もろひと)親王は第6皇子でした。閑院宮家も継ぐことは出来ず、出家を待つばかりでした。出家先も聖護院と決まっていました。

閑院宮家は当時はもっとも新しい宮家でした。光格天皇は3代遡らないと天皇家にたどりつきません。嫡流ではなく傍流の血筋だったのです。

5代遡って皇位継承した継体天皇ほどではありませんが。分家という意識は光格天皇に大きな影響を与えたようです。

光格天皇天皇家の血筋としては遠い存在になります。そのため公家や宮中、幕府の扱いは軽くなってしまいました。

そんな光格天皇を心配したのでしょうか。前の前の天皇で、後桃園天皇の叔母にあたる後桜町院は光格天皇に熱心に学問を勧めました。

天明2から8年にかけて大飢饉が起こりました。

天明7年(1787年)。いつしか、京の人々が御所の周囲を回るようになりました。

人々は飢饉で生活が苦しくなったため、救いを求めるために御所にお参りに来たようです。

最初は1、2人だったのが、40、50人になり。年齢性別関係なく1万人もの人々が御所の塀のまわりをぐるぐる回ってます。多いときには7万人が回っていたといいます。南門までくるとお賽銭を投げ入れて紫宸殿に向かって拝んでいました。

人々は神仏に祈願するのと同じ感覚で御所を回っていたようです。

光格天皇の時代には行事が復活したり、平安時代の形式に戻したりしています。

新嘗祭もそのひとつ。それまでは宮中の外で貴族が変わりにしていました。それを御所の中で天皇が行う本来の形にもどしたのです。儀式を行うための神嘉殿も作りました。神嘉殿とは大きな神棚あるいは御所専用の神社のようなものです。しかし幕府に無断で作ったので老中・松平定信は朝廷を警戒するようになります。

石清水八幡宮賀茂社への行幸も復活させました。

天明8年(1788年)。京都で火災が発生。御所も焼失しました。御所が再建されるまで3年間、聖護院で暮らしました。

寛政2年(1790年)。朝廷の要求通りの御所が完成しました。

現在の京都御所安政元年(1854年)に消失して安政2年(1855年)に再建されたもの。寛政年間に作られたものとほぼ同じだといわれます。

光格天皇以前の御所はさらに質素だったようです。

そこで光格天皇は幕府の許可なく独断で父に「太上天皇」の尊号を与えました。

老中・松平定信は御所の新築などで朝廷に苦渋を飲まされていました。そこで松平定信は強硬手段に出ます。関白正親町公明と前大納言中山愛親を逮捕して処分しました。松平定信は朝廷の高官であっても幕府の独断で処分できるとしたのです。結局「太上天皇」の尊号を送るのは中止になりました。

文化14年(1817)。光格天皇は恵仁親王仁孝天皇)に譲位。上皇になりました。御所を出て仙洞御所に移り住みました。しかし引退したわけではありません。院政をしいたのです。

光格上皇は宮中で勉強会を開きました。実際に勉強会の中心になったのは息子の仁孝天皇仁孝天皇は中国の古典以外に六国史日本書紀などの日本の歴史書)も勉強しました。

意外なようですが、江戸時代には宮中でも日本書紀などの日本の歴史を勉強する機会がなかったのです。天皇家の歴史を学ぶことは討幕につながるかもしれないとしてタブー視されていました。

亡くなった天皇に対して。「光格天皇」の諡号が送られました。

光格天皇」の名がおくられたことに京や江戸の人々は驚きました。なぜなら、平安時代村上天皇からあとは、◯◯天皇とは呼ばれていなかったのです。ほとんど◯◯院とだけ呼ばれていました。

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