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本誌が昨年報じた、小室さんの論文が法律専門誌『NY Business Law Journal』’19年夏号に掲載されたという快挙。実は、その論文がコンペティションで2位を受賞したことが、ニューヨーク弁護士会のホームページで発表されていたのだ。

コンペの過去の受賞者は、アメリカのトップクラスの法律事務所に就職したり、世界有数の金融機関や国際的な環境保護団体に進んだりと活躍中。まさに法学部生にとっての“登竜門”なのだ。

ニューヨークの法曹関係者から論文を高く評価され、強力なコネクションを得た小室さん。高年収のキャリア歩み、眞子さまとの“セレブ婚”も夢ではない――。だが、前出の宮内庁関係者は厳しい意見を口にする。

「いまや小室さんへの批判は金銭トラブルや将来設計だけでなく、過去の行状にまで及んでいます。昨年末には『週刊文春』で小室さんの中高時代のいじめも告発されました。いくら実績を誇示しても、自分の夢ばかり追って他人を顧みない印象の小室さんに、国民の反発が強まる可能性もあります」

小室さんが書いた論文は、資金調達の仕組み「クラウドファンディング」についての法制度を研究したものだった。そのなかには、こんな一節があった。

社会的企業や投資家などの関係者は、克服しがたい困難に直面してもそれが本当に“克服しがたい困難”なのか問いただすことが重要だ。そうすれば、信頼を損なわずにその困難を克服できる解決策を見つけられるだろう》

’21年は皇室にとって“試練の年”になると皇室担当記者は語る。

「両陛下や皇族方が地方に直接足を運ばれる機会が復活する兆しは見えません。皇室と国民の距離が離れてしまわないか危惧されます。さらに大きな懸案は、眞子さまの結婚問題です。小室圭さんとの結婚が現実味を帯びるにつれ、ますます反発が強まっていくでしょう。秋篠宮さまが結婚を『認める』と発言されたことで、眞子さまと小室さんの結婚は確定的となり、早ければ年内の結婚もありえます。もしかすると、今回が眞子さまにとって、皇室で迎えられる最後のお正月だったかもしれません」

ちなみに、小室さんの論文はクラウドファンディングに関する法制度について論じたもの。論文のなかには以下のような記述もあった。

《信頼は目に見えません。信頼の喪失はクラウドファンディングでは致命的であり、クラウドファンディング市場全体に影響を与える可能性さえあることに、常に留意する必要があります》

「年が明け、宮内庁内部にある動きが見られます。美智子さまが長年厚い信頼を置かれてきた“危機管理のエキスパート”を宮内庁に招くことが検討されているようです。そうした動きは皇室の現状が“危機的な状況にある”ということにほかなりません」(皇室関係者)

 宮内庁が早急な対応を迫られている「危機」──それは昨年12月に西村泰彦宮内庁長官が会見で述べた見解が指し示す通りだ。

「小室さん側と小室さんの代理人に説明責任がある」
「小室さん側が沈黙することで、かえって国民に誤解を与えることになる」

 そうした宮内庁トップの発言は、小室さん側への“最後通牒”のように報じられることもあったが、「それは違う」と宮内庁関係者が続ける。

「その発言の意図は、あくまで眞子さまが女性皇族としての通常のプロセスを経て結婚ができるよう、環境整備に努めたいというものでしょう。秋篠宮さまが結婚を認められた以上、宮内庁は積極的にサポートしていく、ということに過ぎません。

 つまり、これまでは“小室家の個人的なトラブル”として沈黙していたものに、皇室全体が公然と関与していくと“宣言”したことにほかなりません」

「事はすでに“1人の女性皇族の結婚”という範疇を超えました。ここまで逆風が大きくなると、皇室への国民からの信頼さえ揺るがしかねず、今後の皇室制度の在り方にまで影響が出かねません。皇室の中枢では“皇室が危機に瀕している”という認識さえあるのです。結婚を巡る問題の解決に向け、皇室が総力体制で取り組むという新局面に入ったと言っていいでしょう」

 西村長官の会見で強調されたことが、もう1つある。「小室さん側の説明責任」を指摘した発言は、上皇后美智子さまの意向を反映したものではない、ということだ。実際、「長官の苦言の背景には、美智子さまのご懸念があった」という旨の報道があった。

宮内庁のホームページには、そうした報道を否定する文書が掲載されました。さらに、長官とのやり取りの中で、美智子さまが皇族方の健康状態について尋ねられたことも記された。そうしたやり取りの中身までもがわざわざ公開されたことに、何らかの意図を感じました」(皇室ジャーナリスト)

 昨今、秋篠宮さまは目に見えてお痩せになり、その健康状態が不安視されている。その原因は、眞子さまのご結婚だろう。ホームページに記された内容は、秋篠宮さまを心配される美智子さまの、お気持ちの表れなのではないか。

美智子さまはいちはやく、眞子さまのご結婚問題を“ご家族全体の苦しみ”と捉えられ、胸を痛めておいででした。また眞子さまがお考えを深められるよう助力すべきともお考えになってきました。

 眞子さま個人を支えるのはもとより、秋篠宮さまを含めて家族全体で問題に取り組み、そこで苦しむ方がいればお互いに支え合うべきだとお考えなのでしょう」(前出・宮内庁関係者)

 美智子さまのお考えの通り、家族一丸となって、事態の収束に動かれようとする皇室ご一家。そして、それに呼応するように宮内庁も早期解決に向けて本腰を入れ始めた。

上皇ご夫妻をお支えする上皇職に、現在、菅内閣において『内閣危機管理監』を務める人物が加わるのではないかといわれています。彼は10年以上前に当時の天皇皇后両陛下をお支えする侍従職も務めていて、特に美智子さまの信頼が厚いことでもよく知られています。さらには元警視総監でもあり、西村長官の直接の後輩にもあたります。2人ならばうまく連携もとれるはずです。

 内閣危機管理監といえば、国の危機管理の頂点に立つ人物。いま皇族方と宮内庁が直面する“危機”に決着をつけるにはこれほど適任な人材はいません」(前出・皇室関係者)

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 堀川御所に移住した後の孝明天皇、そして睦仁親王の情報は当然ながらほぼ皆無です。ただし、その後の情報は皆無ながらも、孝明天皇については堀川御所移住前の情報はあります。しかし、睦仁親王については堀川御所移住前から情報は少なく、その後は情報が皆無なので、睦仁親王がどのような考えや思いをもって周辺に当たっていたかは分かりません。
 それでも推測は可能です。睦仁親王の皇子が堀川辰吉郎です。この堀川辰吉郎に仕えながら保護・育成したのが玄洋社であり、頭山満とされます。睦仁親王が自分と思いの異なる者に自身の皇子を託すはずがないので、玄洋社およびその総帥とされる頭山満の思想と行動を見れば、裏天皇の睦仁親王の考え・思い、そして睦仁親王と日本政府、および表天皇側との関係も垣間見えてきそうです。
 頭山満は、彼のウィキペディア記事を見れば「アジア主義者の巨頭」「日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った」とあります。 頭山のアジア主義とは以下のようなものだったと思えます。

欧米支配から脱却したアジア共栄圏の構築がその目的。そのために日本は積極的に海外進出し、その中で日本は国際的地位を高め、英国から独立。

この頭山のアジア主義は同時に睦仁親王の考えでもあったように思えます。
 ただし頭山は目的達成のために日本の海外での積極的武力行使、日本政府に対しても過激な行動に出てもいて、ここまでもが睦仁親王の考えに沿っていたかは不明です。睦仁親王が英国支配に屈辱を覚え、日本政府および表天皇と緊張した関係にあったのは確かだとは感じますが…。

睦仁親王大室寅之祐は明治4(1871)年11月17日に東京皇城の吹上御苑において揃って大嘗祭を執行されておられますので、ともに天皇と呼ばれて何ら差し支えない立場です。つまり明治天皇は二人いた」のですが、大室寅之祐が表の明治天皇として表に出て、睦仁親王は「ウラの明治天皇」となったので、いわば國體明治天皇となったのです。

日英修好通商条約(1858年)とは「英領日本」の条約でした。当然日本政府としては英国側に最大限配慮した関係を持たざるを得ません。表の天皇となった大室寅之祐は英国女王の守護役となるであろうガーター騎士団員に、大正天皇昭和天皇ガーター騎士団員だけではなく、英国陸軍の元帥にも任命されています。明らかに天皇は英国女王とは主従の関係でしょう。

それに対して裏天皇は英国女王と主従の関係にあったわけでないです。玄洋社は裏天皇堀川辰吉郎に仕え、保護・育成する結社でした。この玄洋社の日本政府への姿勢は、両者のその方向性が合致すれば協力し、方針が違えば政府の要人中の要人であっても殺害計画をも実行に移す、というものでした。

日本政府と玄洋社はこのように非常に緊張した関係にあったことを大隈重信遭難事件は教えます。緊張した日本政府と玄洋社の関係は、表天皇側と裏天皇側の関係を表してもいたようにも感じます。

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このような、「違いを認めつつ、一つに帰る」という「差異と帰一性の共創原理」に支えられ、竹内文書契丹古伝などにも記されている、超古代にあったとさる日本主導の「王道のワンワールド」を復活させる、気宇壮大なる大戦略を描き推進してきたのが堀川辰吉郎などの「裏天皇」と「京都皇統」なのです。


「昭和維新の指導者たち~北一輝と大川周明」.mpg

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安岡正篤先生 1 1


安岡正篤先生 1 2

#満州事変#満州国

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1932年、満州国建国の際の理念。

アジア的理想国家(楽土)を、西洋の武による統治(覇道)ではなく東洋の徳による統治(王道)で造るという意味が込められている。

五族協和」とは、満日蒙漢朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うとする趣旨の言葉。満州には五族以外にも、ロシア革命後に逃れてきた白系ロシア人や、ユダヤ人迫害政策を取ったナチス党政権下のドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人、ウイグル人等のイスラム教徒なども居住していた。

満州には内戦の続く疲弊した中華民国からの漢人や、新しい環境を求める朝鮮人、そして大日本帝国政府と満州国政府の政策に従った満蒙開拓団満蒙開拓移民満州武装移民)らの移住・入植が相次ぎ、人口も急激に増加した。

内地(日本本土)においても、(当時の農村不況も相まって)困窮する零細農民や土地を持たぬ小作農、土地を相続できない農家の次男三男以下など、または大陸にて雄飛し名をあげる野望を抱く「大陸浪人」らの間で、満州に憧れる風潮が生まれた。

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同時に、安岡は朝鮮や満洲・中国にもしばしば旅行して、講
演をしたり、各地の識者と懇談した。朝鮮総督宇垣一成に招
かれて全道知事に話をする一方では、反日独立運動の闘士・寉
麟と肝胆相照らす仲になったりした。

 五族協和とか、王道楽土と言われながらも、現地の日本人政
治家や役人、商人の堕落、現地人蔑視の話を聴き、安岡は次第
に日本の前途に対する心配を抱いていった。


日本人は何を考えてきたのか 第9回「大本教 民衆は何を求めたのか」

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#天皇家

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