速報◆25日、ヨーロッパから帰国中の皇太子・裕仁(ひろひと)親王(20)が、ベトナムのカムラン湾を出発。一路、日本・横浜へ。 =百年前新聞社 (1921/08/25)
— 百年前新聞 (@100nen_) 2021年8月25日
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— 京都新聞 (@kyoto_np) 2021年8月25日
その上で、忘れてはならないのは、
翌慶応四年五月十日に出された新政府の太政官府が発した
戦死者の慰霊に関する布告「御沙汰書」だ。
これは明らかに、
明治天皇の口述による新政府に対する御指図によるもので、
次のように始まる。
「大政御一新の折柄、賞罰を正し、節義を表し、
天下の人心を興起遊ばされ度、
既に豊太閤・楠中将の精忠英邁、御追賞仰せ出され候。」
そして、以下、
若き十七歳の明治天皇が、明らかに
目に涙をたたえられて語られたままに記されている。
「天下に魁けして国事に斃れ候諸士
及び草莽有志の輩、冤枉罹禍の者少なからず
・・・親子の恩愛を捨て、世襲の禄を離れ、墳墓の地を去り・・・
尚況んや国家に大いなる勲郎あるもの、
いかでか隠滅に忍ぶべけんやと嘆き思し召され候。」
「之に依りその志操を天下に表し、
かつ忠魂を慰められたく、
今般、東山の佳域に祠宇を設け
右等の霊魂を永く合祀致さるべき旨仰せ出され候。」
この「「御沙汰書」に表明された明治天皇の思いが、
東京九段の招魂社、後の靖國神社創建に至る。
森信三先生は、言われた。
人生で逢うべき人には必ず会える。
一瞬遅からず、一瞬早からず,と。私は、その時、司法試験受験生だった。
そして、何度目かの読書会の後、
森信三先生と二人きりでエレベーターに乗ることになった。
その時、
森信三先生はズバリと前置きなく私に言われた。
「あなたは、司法試験に合格しませんよ」
と。そして、
「あなたは、多角的な関心を持たれている。そのような人は、
重箱の隅をつつくような司法試験には合格せんのです」
と続けられた。
西村眞悟FBより