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昭和8年12月23日に生まれた上皇さまは、2日で生まれてから3万2031日となり、在位中に崩御した昭和天皇と並ぶ長寿となられました。

これは確かな記録が残るとされる飛鳥時代推古天皇以降の天皇の中では最高齢となります。

昭和天皇の活動記録である「昭和天皇実録」によりますと、昭和60年7月12日に84歳の昭和天皇が、江戸時代の後水尾天皇と並んで歴代の天皇の中で最高齢となった時には昭和天皇の意向で祝賀行事は行われませんでしたが、側近とともにうな重を食べたということです。

上皇さまは現在、新型コロナウイルスの感染が拡大し多くの人が困難に直面していることを案じるとともに、外出も控えられているということで、宮内庁によりますと、上皇さまの長寿を祝う行事は行われないということです。

上皇さまは昭和天皇の長男で、昭和8年12月23日、皇太子として誕生されました。

戦争が続く中で子ども時代を過ごし、11歳の時に疎開先の日光で終戦を迎えられました。

戦後の復興期に青春時代を送り、19歳の時に昭和天皇の名代としてイギリスのエリザベス女王戴冠式(たいかんしき)に参列するため初めて外国を訪ねられました。

そして大学生活を終えた翌年、軽井沢のテニスコート上皇后さまと出会い25歳で結婚。祝賀パレードには50万人を超える人たちが詰めかけ、多くの国民から祝福を受けられました。

その後は上皇后さまと国内外で公務に励むとともに、天皇陛下をはじめ3人のお子さまを手元で育て、新たな皇室像を示されました。

昭和天皇崩御に伴い55歳の時、初めて今の憲法のもと即位されました。翌年の記者会見では「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴として現代にふさわしく天皇の務めを果たしていきたいと思っています」と述べられました。

上皇后さまとともに戦争の歴史と向き合い、在位中は毎年、終戦の日に「全国戦没者追悼式」に臨み、戦争が再び繰り返されないよう願うおことばを述べられてきました。

戦後50年を迎えた平成7年には「慰霊の旅」に出て、沖縄や被爆地の広島や長崎などを訪ねられました。戦後60年の年に太平洋の激戦地サイパンを訪問するなど海外でも戦没者を慰霊されました。

上皇さまは災害の被災地にも、上皇后さまとともに心を寄せ続けられました。

平成3年、雲仙普賢岳の噴火災害に見舞われた長崎県島原市を訪れ、体育館でひざをついて被災者にことばをかけられました。その後も、平成7年の阪神・淡路大震災など大きな災害が起きるたび現地に出向き、被災した人たちを見舞われました。

平成23年東日本大震災では異例のビデオメッセージで国民に語りかけるとともに、7週連続で東北3県などを回り、その後も折に触れて被災地を訪ねられました。

平成4年には歴代の天皇で初めて中国を訪問するなど、天皇として36か国を訪ねるなどして、国際親善にも尽くされました。

平成28年8月、上皇さまはビデオメッセージで退位の意向が強くにじむお気持ちを表明し「次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが難しくなるのではないかと案じています」と胸の内を語られました。

そして退位に向けた特例法が成立し、平成31年4月30日、85歳で退位されました。

上皇さまはおととし退位して天皇陛下に公務を引き継いだあと、上皇后さまと静かな日々を送られています。

去年3月には天皇ご一家とのお住まいの入れ代わりのため、上皇后さまとともに26年余り暮らした皇居の御所をあとにして、仮住まい先の東京 港区の仙洞仮御所に移られました。

体調に特段の変わりはなく朝と夕方の2回、上皇后さまと庭を散策して身近な自然に親しむなど、お二人でいたわり合いながら暮らされています。

一方で、新型コロナウイルスの感染拡大によって外出を控えられる日々が続くなど、一般の人たちと同様、生活は大きく様変わりしました。

上皇さまは感染状況を毎日側近に尋ね、国民生活への影響や医療従事者などの苦労に思いを寄せつつ、最近はデルタ株による感染の拡大を案じられているということです。

上皇さまは僅かな外出の機会として定期的に皇居にある生物学の研究所を訪れ、ハゼの分類に関する研究を続けていて、ことし5月には魚類学雑誌に論文を発表されました。

最近は東京オリンピックパラリンピックの競技を上皇后さまとテレビで観戦し、選手たちの活躍に声援を送られているということです。

今月、天皇ご一家が赤坂御用地のお住まいから退去されるとバリアフリー化の改修工事が行われ、上皇ご夫妻が来年春ごろまでに移り住まれる見通しです。

天皇家のお引っ越しは、10日間ほどかけて行われます。身の回りのお荷物だけでなく、代々天皇家に伝わる貴重品や地方からの献上品、海外首脳や王族たちからの贈り物など、かなりの数の物品の運び出し・運び込みをしなければならないからです。そのため、引っ越し期間中は地方の御用邸で静養されるのが通例でした」(宮内庁関係者)

 2020年3月、御代がわりのため、上皇ご夫妻が吹上仙洞御所(皇居)から仙洞仮御所(東京・港区高輪)へ引っ越される際は、ご夫妻は神奈川県の葉山御用邸と、栃木県の御料牧場で静養された。

「今回、天皇ご一家も那須御用邸(栃木県)でお過ごしになる予定でした。しかし、緊急事態宣言が9月12日まで延長され、都道府県間の移動は極力控えねばならなくなった。隣県にある葉山御用邸なら大丈夫ではないかという声もありましたが、陛下が都外への移動を固辞されたのです。国民が移動の自粛を強いられるなか、例外的な行動をするべきではないという強いご意志があったのでしょう」(前出・宮内庁関係者)

 赤坂御用地のすぐ隣には「迎賓館赤坂離宮」があるが、宮内庁の管轄外であり、警備やお食事の手配が難しい。

調整が難航していたところ、陛下から“宮殿はどうだろうか”というご提案があったそうです。実は、側近たちも皇居内の宮殿ならば警備面でも安心だと考えていたものの、日常生活を送る場所として想定されていないので、ご相談申し上げられずにいた。陛下からの打診は大変ありがたいことだと側近たちも胸をなで下ろしたそうです。

 進んで窮屈な生活を受け入れられたことは、国民に寄り添う姿勢を貫かれる陛下と雅子さまらしいことだと思います」(前出・宮内庁関係者)

 2年前の御代がわりの儀式「即位礼正殿の儀」において、陛下が高御座に上られ、即位を宣明されたシーンは記憶に新しい。それが行われたのが、宮殿の正殿・松の間だった。宮殿には、文化勲章親授式歌会始の儀など皇室の主要な儀式で使用される「正殿」のほかに、一般参賀で皇族方が並ばれる長いベランダのある「長和殿」などがある。

天皇ご一家のプライベートなエリアとされるのが表御座所です。陛下の執務室である『菊の間』、内奏や報告を受けられる拝謁室『鳳凰の間』、談話室の『芳菊の間』のほかに、皇后専用の『桐の間』や侍従の部屋が並んでいます。ご一家はおそらくここで暮らされることになるが、住居として想定されていないので、寝具などを持ち込む必要があります」(皇室関係者)

昭和天皇実録』によれば、昭和天皇は訪欧前の“宿泊リハーサル”として、表御座所に宿泊したことがある。食事は芳菊の間、着替えは萩の間、寝室として花の間を使用したと記されている。

「宮殿の地下には、天皇ご一家の食事を担当する『大膳課』の事務室や厨房もあり、食事にも困らないでしょう。とはいえ、昭和天皇でさえ“リハーサル”で泊まられただけの場所です。緊急事態宣言の解除を待って引っ越された方が、ご不便をかけることもなく、よかったのではないかと思うのですが……」(別の宮内庁関係者)

 宣言明けまで待つといっても2か月ほどのはず。なぜ両陛下はお引っ越しを迅速に行うことにこだわられたのだろうか。

 前述の通り、美智子さまは2020年3月から、上皇陛下と仙洞仮御所にお住まいだ。長引くコロナ禍で、美智子さまは「おこもり生活」を徹底されている。

「娘の黒田清子さんともお会いになっておらず、側近たちと顔を合わす機会も制限されているそうです。最近は、ご近所のマンションに住む学生時代のご友人と手を振り合われるのが楽しみだそうです。約束の時間を決め、ご友人はベランダで、美智子さまはお庭で、待ち合わせをされているようですよ」(前出・別の宮内庁関係者)

 そんな美智子さまに、新たなご心配事が浮上したという。前出の宮内庁関係者の話。

「近頃、美智子さまのご体調が優れないようなのです。今年6月の定期検診で、心不全の診断指標となるホルモン値が正常値を上回っていることが発覚しました。原因は不明だということです。美智子さまはゆっくり歩かれていても、時折立ち止まり、はあはあと息を切らされることがあるそうです。かなりおつらいのではないか」

 この8月中旬、炎天下のなかで美智子さま上皇陛下とご一緒に、お忍びで皇居へ向かわれたという。

「午前中に皇居に入られ、上皇陛下は生物学研究所に向かわれました。一方、美智子さま宮内庁病院に入られた。定期検診とのことでしたが、夕方までじっくりと検査をされたようです」(皇室記者)

美智子さまにとって、仙洞仮御所での生活は多大なストレスとなっているようだ」とは、前出の皇室関係者。

「仙洞仮御所は、とにかく敷地が狭い。美智子さま上皇さまとの散歩を日課とされていますが、敷地内では同じところを回るしかありません。また1年半ほど前、羽田空港が新たな飛行ルートを採用し、仙洞仮御所の上空を飛行機が通るようになりました。声を張らないと会話ができないほどの騒音だそうです」

 さらに、「指のしびれも続いており、趣味のピアノを満足に弾ける状態ではない」(前出・皇室関係者)という。そんな美智子さまを案じられているのが、雅子さまだ。

天皇ご一家の引っ越しが終わり、赤坂御所の改修が終われば、上皇ご夫妻はそこにお引っ越しができます。赤坂御用地は敷地も広く、散歩されるには充分なばかりか、孫の悠仁さまもいらっしゃるなど、ご気分が晴れるはずです。美智子さまにとって、皇太子妃時代に30年間暮らされた、思い出の邸宅でもあります。

 雅子さまは、不自由な生活を続けられている美智子さまに、“できるだけ早く赤坂御用地に戻られてほしい”とお考えなのでしょう。

 たしかに雅子さまは、8月15日にあった全国戦没者追悼式でふらつかれるなど、ご体調は万全とはいえませんが、“美智子さまのために、9月中には引っ越しを完了させたい”と異例の宮殿暮らしを決断されたのではないでしょうか」(前出・別の宮内庁関係者)

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 宮内庁の様子が少しテレビに映りましたが、15名くらいの職員が「おめでとうございます」と言っているのです。何をバカなことを言っているのでしょうか? みんなで魔子ちゃんに向かって「おめでとうございます」と言っているのです。

 この茶番は一体何でしょうか? NHKから出たということは、魅痴子さんから情報が出たのだと思います。魅痴子さんが情報操作をして流したのです。

 これには、「3つの流れがある」と、僕は言ってきました。それが、魅痴子さん、秋死ノ宮、鬼子さんです。それぞれのおつきの情報屋に情報を流すのです。NHKには、魅痴子さんが情報を出したのに違いありません。

 すると、バラバラの情報が出てくるのです。魅痴子さんに都合の良い情報、秋死ノ宮に都合の良い情報、鬼子さんに都合の良い情報が出てくるのです。「よい情報をあげるから来なさいよ」と言うと、「本当ですか」と記者が群がります。「ほら、あげるわよ」と言うので、その筋の情報を流すのです。

 NHKは、魅痴子さんが握っているのです。「良い話がありますから、情報を流します」と言うのです。他の連中は知りません。そのような流れです。

国民無視もいいところですから、国民は怒っているのです。無視されて、ものすごく怒っているのです。昨日9時から、篠原常一郎さんも特別対談をやったのです。1万人も集まっていて、みんな怒っているのです。この先どうなるのか、まだよくわかりません。いずれにしても、大変な事件です。

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#天皇家

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#320「終末時代の警鐘、大都市ニネベの滅亡預言」ナホム書 より 山森一裕 2021年8月26日 レディースタイム

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3 The Lord is slow to anger but great in power;
the Lord will not leave the guilty unpunished.
His way is in the whirlwind and the storm,
and clouds are the dust of his feet.

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1:3
ヱホバは怒ることの遲く能力の大なる者 また罰すべき者をば必ず赦すことを爲ざる者 ヱホバの道は旋風に在り 大風に在り 雲はその足の塵なり

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3 主は怒ることおそく、力強き者、主は罰すべき者を決してゆるされない者、主の道はつむじ風と大風の中にあり、雲はその足のちりである。

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「馬鹿者!おまえはすでに罰が当っておる」山岡鉄舟は叱った。

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学校では教えない平家物語の真実|小名木善行

#平清盛
#源氏VS平家
#桓武平氏#清和源氏

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#源頼朝

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熊谷氏は桓武平氏平貞盛の孫・維時(これとき)の6代の孫を称するが、武蔵七党の私市党、丹波党の分かれともされ、明らかではない。直実の祖父・平盛方(もりかた)が勅勘をうけたのち、父直貞の時代から大里郡熊谷郷の領主となり、熊谷を名乗った。

平家に仕えていたが、石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し御家人となる。

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寿永2年(1183年)5月の倶利伽羅峠の戦い源義仲に敗れた平氏は兵力の大半を失い、同年7月に安徳天皇三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れた。

1月26日、後白河法皇は、頼朝に平家追討と平氏都落ちの際に持ち去った三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出した。平氏の所領500ヵ所が頼朝へ与えられた。

後白河法皇は捕虜になった重衡と三種の神器を交換するよう平氏と交渉するが、宗盛はこれを拒絶し、合戦直前の休戦命令に従っていたにも係らず、突然源氏に襲われたということに対する抗議と「休戦命令は平氏を陥れる奇謀ではなかったか」との後白河法皇への不審を述べ立てている。

合戦に大勝した鎌倉政権軍も戦略目標である三種の神器奪還には失敗しており、屋島の戦い壇ノ浦の戦いへと戦いはまだ続くことになる。

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宗盛が朝廷に送った書状によれば、平氏側は神器の返還をめぐる和平交渉で後白河院から休戦の命を受けていたにも関わらず、鎌倉軍の奇襲を受けたため大敗に及び、平氏軍を油断させる院の奇謀によって多大な被害を被ったという。

寿永4年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いで鎌倉軍と最後の戦闘に及ぶが、田口成良ら四国・九州在地武士の寝返りにあい、追い詰められた一門は入水による滅びの道を選ぶ。安徳天皇二位尼らが入水し、平氏滅亡の様を見届けた知盛は、乳兄弟の平家長と手を取り合って海へ身を投げ自害した。享年34。

妻の治部卿局は東宮として同行していた守貞親王と共に生き残り、都へ戻った。壇ノ浦から36年後、承久の乱によって後鳥羽院鎌倉幕府に敗れて配流となり、幕府によって守貞親王の皇子が後堀河天皇として擁立され、父である守貞親王後高倉院として院政を行う治天の君となっている。

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以下の経過は大正時代に黒板勝美東京帝国大学教授が提唱して以来、広く信じられている潮流説に基づいている。

関門海峡は潮の流れの変化が激しく、水軍の運用に長けた平氏軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗ってさんざんに矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を押した。義経軍は満珠島・干珠島のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平氏軍は義経を討ち取ろうと攻めかかる。

やがて潮の流れが反転し、義経軍は乗じて猛攻撃を仕掛けた。平氏の船隊は壊乱状態になり、やがて勝敗は決した。

入水した建礼門院は助け上げられ、内侍所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)は回収されたが、二位尼とともに入水した安徳天皇崩御し、宝剣(天叢雲剣)も海に没した(別説あり)。

安徳天皇の異母弟の守貞親王安徳天皇の皇太子に擬されていた)は救出された。

合戦後ほどなく建礼門院は出家し大原に隠棲した。守貞親王はすでに皇位への道は断たれており、後に出家している。

この戦いにより、平氏伊勢平氏平清盛一族)は25年にわたる平氏政権の幕を閉じた。勝利を収めた清和源氏の頭領・源頼朝は、鎌倉に幕府を開き武家政権を確立させる。

関門海峡の潮の流れの変化が壇ノ浦の戦いの勝敗を決したと信じられている。しかし、潮流に関しては、合戦について簡潔にしか記していない『吾妻鏡』にはもちろん触れられていない。軍記物語の『平家物語』では「門司関、壇ノ浦はたぎり落ちる汐なれば、平家の船は汐に逢って出て来たる。源氏の船は汐に向かって押され」と記されており、平氏が追い潮、源氏が向かい潮で戦ったことは述べられているが、潮流が反転して戦況を転換させたとまでの筋立てにはなっていない。

現在知られる合戦への潮流の影響は大正3年(1914年)に黒板勝美東京帝国大学教授が著書『義経伝』で提唱した説である。

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