https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

d1021.hatenadiary.jp
d1021.hatenadiary.jp

#法律(道路交通法・一時停止)
#滋賀作

奈良時代に都が置かれた、奈良市の「平城京」の跡地で、都の中心に近い場所から大型の建物の跡が見つかりました。専門家は、「日本書紀」の編さん者として知られる「舎人親王」など、有力な貴族の邸宅だった可能性が高いとしています。

建物の跡が見つかったのは、奈良時代の都「平城京」の中心部だったところから、南東に1キロほど離れた場所です。

奈良市埋蔵文化財調査センターがことし1月から行った発掘調査で、奈良時代前半の邸宅とみられる、複数の大型建物の跡が見つかりました。

平城京内は当時、碁盤の目のように敷地が道路で区切られていて、邸宅の敷地の広さは、建物の柱の位置などから、当時の区画4つ分にあたるおよそ6ヘクタールと推定されています。

当時の大臣の住まいに匹敵する広さだということで、センターでは今回の建物の跡も有力な貴族の邸宅だった可能性が高いとしています。

調査にあたったセンターの菊井佳弥調査員は、「この一帯は平城京の中でも高級住宅地と言える場所で、政権を握るような人たちが住んでいたと思う。木簡などで居住者が特定できるよう、今後も発掘調査を続けたい」と話しています。

平城京の中心に近い場所で見つかった大規模な邸宅の跡。いったいどんな人物が住んでいたのでしょうか。

考古学が専門の文化庁の近江俊秀主任文化財調査官は、「舎人親王」の邸宅だったのではないかとみています。

舎人親王は、飛鳥時代に活躍した天武天皇と、天智天皇の娘との間に生まれ、奈良時代前半にはいまの内閣にあたる「太政官」のトップを務めました。

現存する日本最古の公式の歴史書日本書紀」の編さん者としても知られ、奈良時代前半の朝廷で高い地位を占めていました。

近江調査官は、今回の邸宅が舎人親王のものだとみる理由について、「区画4つ分の宅地を与えられたのは、当時の貴族の中でもかなり位が高い大臣クラスの人物と想定される。平城京に遷都された時期の大臣クラスで、まだ居住地がわかっていない人物となると、舎人親王が最有力候補になる」と指摘しています。

また、都の中では、同じ奈良時代前半に政権を握った「長屋王」や、舎人親王の弟も、今回と同じ規模の土地を宅地として与えられていたとみられることから、「平城宮を中心に、天武天皇の系統の有力な皇子が一定の距離を保って邸宅を構えていた可能性がある」としています。

その上で、近江調査官は「居住者がわかってくれば、その裏にある都市計画や当時の政治的な思想まで解明できるのではないか」と話していました。

#アウトドア#交通