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ニクソン政権とフォード政権で国務長官などを務めたヘンリー・キッシンジャー氏が29日、コネティカット州の自宅で死去した。100歳だった。同氏が設立したキッシンジャー・アソシエーツが発表した。

同氏は1970年代の米中国交正常化やそのほか国際政治史を動かした出来事で重要な役割を果たした。100歳になってからも精力的に活動し、今年7月に北京を訪問して中国の習近平国家主席と会談した。

死去までの経緯は明らかになっていない。

キッシンジャー氏は23年にドイツでユダヤ系ドイツ人として生まれ、38年に家族と渡米してナチス・ドイツユダヤ人迫害を逃れた。43年に米国に帰化し、ハーバード大学で学んだ。

ニクソン政権下で国務長官として中国を極秘訪問し、ニクソン氏による歴史的訪中につなげ、米中国交正常化に道を開いた。

同氏はまた、冷戦時代の対ソ連緊張緩和政策の立役者ともなり、政権交代後にフォード氏に同行してロシアのウラジオストクを訪問、首脳会談で戦略兵器制限交渉の枠組みで合意がまとまった。

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また、イスラエルアラブ諸国の対立激化を受けて双方を行き来する「シャトル外交」を展開。イスラエルとシリア間でゴラン高原における兵力引き離し協定を成立させ、シャトル外交という表現が使われるきっかけにもなった。

ベトナム戦争のパリ和平協定もまとめ、73年にノーベル平和賞を受賞。辞退したベトナムのレ・ドゥク・ト氏との共同受賞だったが、ノーベル賞委員会の2人のメンバーが異論を唱えて辞任するなど、大きな論争を呼んだ。

公職を退いた後にコンサルティング会社であるキッシンジャー・アソシエーツを設立。このほか、企業の取締役や外交・安全保障関連フォーラムの幹部も務め、メディアにもたびたび登場し、多くの著書を残した。

ニクソン、フォード米政権で国務長官を務め、1970年代の米外交政策決定で重要な役割を果たしたヘンリー・キッシンジャー氏が29日、米コネティカット州の自宅で死去した。100歳だった。同氏が設立したコンサルティング会社が発表した。

  キッシンジャー氏は大統領補佐官(国家安全保障問題担当)として中国を極秘訪問し、72年のニクソン大統領による電撃的な訪中を実現させ、79年の米中の国交正常化に道を開いた。ベトナム戦争のパリ和平協定にも尽力し、73年にノーベル平和賞を受賞した。

  ユダヤ系ドイツ人の家庭に生まれたキッシンジャー氏は、ナチスの迫害を逃れ1938年に家族と渡米し、ハーバード大学で博士号を取得。同大教授を経てニクソン政権の大統領補佐官に就任した。

  冷戦下で旧ソ連とのデタント(緊張緩和)や戦略兵器制限交渉への貢献でも歴史に名を残した。その一方で、ベトナムカンボジアへの大規模空爆、チリのピノチェト軍事政権を支持し、東ティモールバングラデシュの大量虐殺に目をつぶったと批判された。

  キッシンジャー氏は「正義と無秩序、不正義と秩序の二者択一なら常に後者を選ぶ」というドイツの詩人ゲーテの言葉を引用したことで知られ、外交と軍事力は「力の均衡」を実現するために用いるべきだという現実主義外交を展開した。

  このアプローチは、ベトナムやチリ、中東の紛争地で冷戦下の政策決定を正当化する手段となり、旧ソ連の覇権を抑えることに一意専心するあまり、大義追求のため倫理に欠けると批判的に受け止められた。

  政権から離れた後も多数の論文を公表するなど、積極的な言論活動を続け、今年7月には100歳という年齢にもかかわらず、習近平国家主席と北京で会談し、民間人の立場で米中関係に関する意見交換を行ったばかりだった。

原題:Henry Kissinger, Secretary of State in 1970s Crises, Dies at 100(抜粋)

米国の国務長官や安全保障担当のアドバイザーを務めたヘンリー・キッシンジャー氏が29日、死去した。100歳だった。同氏のコンサルティング会社、キッシンジャー・アソシエーツが明らかにした。

同社の声明によるとキッシンジャー氏はコネティカット州の自宅で息を引き取った。死因は明かされていない。

少年時代にナチス政権下のドイツを脱出したキッシンジャー氏は、米国の歴史上最も大きな影響力を持ち、物議を醸した外交官の一人となった。

同氏は1970年代の米国外交の代名詞であり、ノーベル平和賞も受賞した。ベトナム戦争における米軍の関与終結に向けた調整に寄与したことが受賞理由となった。また秘密外交を通じ、当時のニクソン大統領による72年の訪中を実現したことでも評価された。

一方で、ベトナム戦争時のカンボジア爆撃を巡り、多くの人々から非難を浴びた。この爆撃は大量虐殺を行った政治勢力クメール・ルージュ」の台頭につながったとされる。また南米チリに関して、民主的な政権に対するクーデターを支持したとして批判を受けた。

中東では後に「シャトル外交」の呼称で知られる外交を展開。73年の第4次中東戦争後、イスラエルとアラブ勢力の間での兵力引き離しを実現した。

米国とソ連の関係では「デタント(緊張緩和)」を掲げ、両国の軍拡競争に歯止めをかける合意を複数成立させた。この姿勢はおおむね米国の指針となり、レーガン政権まで続いた。

ニクソン大統領がウォーターゲート事件で失脚してからも、キッシンジャー氏自身は独立した立場で活躍。外交にまつわる本人の見解は、常に関心を集めた。

冷戦期のアメリカで国務長官として外交政策を担ったヘンリー・キッシンジャー氏が29日、死去した。100歳だった。

キッシンジャー氏が設立した政治コンサルティング会社「キッシンジャー・アソシエーツ」が発表した。米コネチカット州の自宅で亡くなったという。死因は公表されていない。

1970年代半ばに公職から退いたが、その後何十年にもわたって、さまざまな世代の指導者たちから意見を求められ続けた。

ジョージ・W・ブッシュ元大統領は、アメリカは「外交問題に関して最も信頼でき、特徴的な声のひとつを失った」と、追悼した。

リチャード・ニクソン大統領の娘のトリシャ・ニクソン・コックス氏とジュリー・ニクソンアイゼンハワー氏は、キッシンジャー氏の人生は「とてもユニークで、徹底してアメリカ人だった」と述べた。

ヘンリー・キッシンジャー氏は、平和の大義を推進した数々の功績により、長く記憶されるだろう。しかし私たちが決して忘れることができないのは、その人柄だ」

外交政策に大きな影響
1923年にドイツで生まれたキッシンジャー氏は、家族と共にナチスから逃れ、1938年にアメリカにわたった。故郷バイエルンのなまりは生涯続いた。

1943年にアメリカの市民権を得て、米陸軍に入隊。対諜報部隊に3年間所属した。

その後入学した米ハーヴァード大学では、学士、修士、博士学位を取得。その後、同大学で国際関係を教えた。

1969年、当時のリチャード・ニクソン大統領はキッシンジャー氏を国家安全保障担当の大統領補佐官に任命。アメリカの外交政策に大きな影響力を持つようになった。1973年に国務長官も兼任した。

1977年までの8年間で、ヴェトナム戦争へのアメリカの関与を終わらせ、中国との国交を正常化し、1973年の第4次中東戦争ではエジプトとシリア、イスラエル間の敵対行為を停止させた。シャトル外交という考え方はこのときに生み出された。

キッシンジャー氏は中国で不滅の人気を誇り、訃報はすぐにソーシャルメディアの「微博(ウェイボー)」でトレンド入りした。

中国中央電視台の英語放送「CGTN」は、キッシンジャー氏を「中国国民の古い友人」と呼び、死去を伝えた。

中国中央電視台の放送では、米中関係で重要な役割を果たした同氏を、「伝説の外交官」「生きた化石」と説明した。

一方でキッシンジャー氏は長年にわたり、人権よりもソ連との対立を優先させたり、チリのアウグスト・ピノチェト政権をはじめとする世界中の抑圧的な政権を支援したりしてきたとして、痛烈な批判にさらされた。

しかしキッシンジャー氏自身は、こうした批判を相手にしなかった。

100歳の誕生日直前の米CBSの取材では、「批判する人々の無知を反映している」と語っていた。

キッシンジャー氏は1973年、北ベトナムのレ・ドゥク・ト氏と共にノーベル平和賞を受賞した。レ・ドゥク・ト氏は賞を辞退している。

この授与は議論を呼び、ノーベル委員2人が辞任している。

第4次中東戦争の調停のため、中東を訪問する飛行機の中のキッシンジャー氏画像提供,GETTY IMAGES
画像説明,
キッシンジャー氏は第4次中東戦争の調停のために積極的に中東を訪問し、「シャトル外交」というアプローチを生み出した

キッシンジャー氏は1977年に政府の職から退いたが、その後も公共問題に関するコメンテーターとして活躍し続けた。故ジョン・F・ケネディ氏から現職のジョー・バイデン氏までの12人の歴代大統領や議員らも、しばしば同氏に助言を求めた。

また、さまざまな企業の役員を務め、外交政策や安全保障のフォーラムにも顔を出した。著書は21作に上る。

キッシンジャー氏は今年5月に100歳を迎えたが、7月には中国の習近平国家主席と会うために北京を電撃訪問するなど、晩年になっても精力的な活動を続けた。同氏は、毛沢東氏から習近平氏までのすべての中国の指導者と直接やりとりした唯一のアメリカ人でもある。

この訪問はホワイトハウスを憤慨させ、国家安全保障会議NSC)のジョン・カービー報道官は、「民間人が中国指導者に接触できるのに、アメリカ政府は接触できないのは残念だ」と遺憾の意を示した。

キッシンジャー氏は2022年7月、99歳の時の米ABCのインタビューで、自分のこれまでの決断で撤回したいものはあるかと質問され、「私はずっとこれらの問題について考えてきました。私の趣味であり、職業でもある」と述べ、こう続けた。

「そして、私が行った提言は、その時の私にできる最善のものだった」

キッシンジャー氏には、50年近く連れ添った妻のナンシー・マギネス氏がいる。前妻との間に2人の子供がおり、孫も5人いるという。

アメリカのニクソン政権とフォード政権で国務長官などを務め、アメリカと中国の国交正常化に大きな役割を果たしたヘンリー・キッシンジャー氏が自宅で亡くなりました。100歳でした。

これはキッシンジャー氏が設立したコンサルタント会社が発表したもので、キッシンジャー氏は今月29日、アメリカ東部コネティカット州の自宅で死去しました。

キッシンジャー氏は1923年にドイツでユダヤ人の家庭に生まれ、ナチスの迫害を逃れるため、1938年に家族とともにアメリカに渡りました。

アメリカ国籍を得て、第2次世界大戦ではアメリカ軍でドイツ語の通訳を務め、戦後はハーバード大学で国際関係学の博士号を取得しました。

そして、国務省国家安全保障会議を経て、ニクソン大統領の安全保障担当の補佐官となり、1973年に国務長官に就任しました。

ニクソン大統領がいわゆるウォーターゲート事件で辞任し、フォード政権にかわった後も国務長官を務めました。

キッシンジャ-氏はソビエトとのデタント、緊張緩和路線を推し進めたほか、1971年、当時、国交がなかった中国と秘密交渉にあたり、翌年にニクソン大統領が電撃的に中国を訪問する調整を成し遂げ、アメリカと中国の国交正常化に大きな役割を果たしました。

また、ベトナム戦争のパリ和平協定をまとめ、アメリカ軍のベトナムからの完全撤退を実現したとして、1973年にノーベル平和賞を受賞しました。

キッシンジャー氏は最近まで精力的に活動し、ことし7月には米中の対立が続く中、北京を訪問して習近平国家主席と会談し、今月15日に行われた米中首脳会談に向けた環境整備を進めるねらいがあったと受け止められていました。

中国メディアも相次ぎ速報
キッシンジャー氏の死去について、中国メディアもアメリカのメディアを引用する形で相次いで速報しました。

このうち、国営の中国中央テレビは「キッシンジャー氏の外交思想はアメリカの外交政策に大きな影響を与え続けた」と伝えました。

また、中国共産党系のメディア「環球時報(かんきゅうじほう)」は「この半世紀、キッシンジャー氏は常に中国に関心を寄せ、中国を100回近く訪問し、中国の国民が最もよく知る外国人の一人だ」と伝えました。

ことし100歳になったキッシンジャー氏は7月に、首都・北京を訪れて習近平国家主席と会談し、「両国関係はアメリカと中国、それに世界の平和と繁栄にとって極めて重要だ」と述べていました。

これに対し、習主席は「われわれは古い友人であるあなたが両国の国民の友好を増進し、歴史的な貢献をしたことを忘れない」と述べ、米中両国の対立が続く中、関係改善に貢献したキッシンジャー氏に敬意を示していました。

中国外務省「米との関係 誠実な思いと重要な貢献 深く心に刻む」
キッシンジャー氏が死去したことについて、中国外務省の汪文斌報道官は30日の記者会見で「中国人民はキッシンジャー氏の中国とアメリカの関係への誠実な思いと重要な貢献を深く心に刻むだろう」と述べたうえで、習近平国家主席アメリカのバイデン大統領に弔電を送って哀悼の意を示したことを明らかにしました。

そして「キッシンジャー氏は中国とアメリカの関係は両国、そして世界の平和と繁栄のために極めて重要であると考えていた。中国とアメリカ両国は彼の戦略的ビジョンや政治的な勇気、そして外交の知恵を継承・推進し、サンフランシスコでの首脳会談で合意した重要な共通認識に基づいて健全で安定し、持続可能な中米関係の発展を推し進めるべきだ」と述べました。

キッシンジャー氏と中国
アメリカと中国の国交正常化に大きな役割を果たしたキッシンジャー氏は、中国の歴代の指導者と会談を重ねてきました。

1971年には、当時、国交がなかった中国の当時の首相、周恩来と秘密交渉にあたり、1972年のニクソン大統領の電撃的な中国訪問につなげました。

2013年6月には鳩山元総理大臣とともに、10月に死去した李克強 前首相と会談し、沖縄県尖閣諸島をめぐり悪化した日中関係などについて意見を交わしました。

また、2013年の7月には、江沢民国家主席と上海で会談し、天安門事件が起きた1989年に江氏と会ったことを振り返り、中国の立場に理解を示す場面もありました。

最近も、2021年に北京で開かれた米中の国交正常化につながった、いわゆる「ピンポン外交」から50年になるのを記念する催しにビデオメッセージを寄せたほか、習近平国家主席とたびたび会談するなど、アメリカ外交の重鎮として両国の間で精力的に活動していました。

国営の中国中央テレビは「キッシンジャー氏は1971年に初めて中国を訪問してから100回以上訪中している」と伝え、「中国人民の古くからの友人だ」としています。

米有力紙「最も力を持った国務長官
キッシンジャー氏は、およそ半世紀にわたり、12人のアメリカ大統領に直接、外交や安全保障上の助言をしてきたとされます。

有力紙、ニューヨーク・タイムズは、「第2次世界大戦後、最も力を持った国務長官であり、キッシンジャー氏ほど著名で、かつ悪口を言われた人物もいなかった」と評しました。

キッシンジャー氏は、複数の大国が均衡状態を保つことによってこそ、安定が保たれるという「勢力均衡論」を掲げた1人で、東西冷戦のただ中にあったニクソン政権当時、国交がなく、敵対していた共産主義圏の中国を極秘裏に訪問し、国交正常化に道筋をつけました。

毛沢東氏から、現在の習近平氏にいたるまで、中国のすべての指導者と渡り合った唯一のアメリカ人とされ、ここ数年、米中関係が冷え込んでからも中国に足を運び、中国共産党は最大限の敬意をもってキッシンジャー氏をもてなしてきました。

また、キッシンジャー氏はロシアのプーチン大統領とも長年、親交があり「古くからの友人」とも呼ばれていました。

大統領に就任する前のプーチン氏へのインタビューを中心にまとめられた書籍「プーチン、自らを語る」によりますと、1990年代、サンクトペテルブルクキッシンジャー氏を出迎えたプーチン氏がかつて情報機関に所属し、東ドイツで働いていたと伝えると、キッシンジャー氏は「まともな人間はみんな情報機関からキャリアの一歩を踏み出しているよ。私もそうだ」と答えたとされています。

さらに、この時キッシンジャー氏は、1989年のベルリンの壁崩壊をめぐり世界の勢力均衡が急激に崩れるおそれがあるため、ソビエトは勢力圏に置く東ヨーロッパを性急に手放すべきではないと考えていたとプーチン氏に明かしたとしています。

キッシンジャー氏は、ことし1月にはスイスで開かれた世界のリーダーが集まる通称「ダボス会議」にオンラインで参加しました。

この中で、ロシアによるウクライナ侵攻について、ウクライナ政府のとるべき方針として「戦闘は続けつつもロシアと対話を行い、軍事侵攻前の境界線まで押し返したら戦闘を停止すべきだと信じている。これは戦闘の拡大を防ぐ方法だ」と述べ、ロシアとの対話を重視すべきだとの姿勢を示していました。

亡くなる約1か月前にも 米中関係の改善訴える
キッシンジャー氏は、亡くなるおよそ1か月前の10月24日、ニューヨークで開かれた、米中の関係者を集めたパーティーで講演し、両国関係を改善に向かわせることの重要性を訴えていました。

この中でキッシンジャー氏は「私は、文字どおり、人生の半分をアメリカと中国の関係のために費やしてきた。私は中国の人たちが好きだし、中国の文化に感銘を受けた。米中関係というのは、世界に平和と発展をもたらしうる関係であると同時に、もし手を携えなければ世界を破壊しうる類いまれな関係にあるということを理解できるかどうかにかかっている」と述べました。

そして、この講演の3週間後の11月15日にサンフランシスコで行われることになる、バイデン大統領と習近平国家主席による首脳会談について、キッシンジャー氏は「2人の首脳がサンフランシスコで会うに当たり私が期待するのは、両者が互いに平和の実現に熱心であることを言い表すことばを見つけ出すことであり、首脳どうしが容易に、かつ継続的に話ができるような制度を築くため、あらゆる努力を払うことだ」と述べ、首脳どうしが意思の疎通をはかることができる環境を築く重要性を訴えていました。

岸田首相「平和と安定に大きな功績 哀悼の誠をささげたい」
岸田総理大臣は総理大臣官邸で記者団に対し、「アメリカと中国の国交正常化など地域の平和と安定に大きな功績を残された。私自身も若い頃からたびたび直接、お会いし、知見をたまわった。今日(こんにち)までの偉大な足跡に心から敬意を表し、哀悼の誠をささげたい」と述べました。

中国外務省は30日、キッシンジャー元米国務長官が死去したことを受けて、習近平国家主席がバイデン米大統領に哀悼の意を伝えたと表明した。

李強首相と王毅外相もそれぞれ、キッシンジャー氏の家族とブリンケン米国務長官に哀悼の意を伝えたという。

外務省の汪文斌報道官は定例記者会見でキッシンジャー博士は中国人民の古き良き友人であり、中米関係の開拓者・建設者だ」と述べ、中米関係への誠意ある献身が深く記憶されるだろうと述べた。

また、キッシンジャー氏は中米関係が両国と世界の平和と繁栄に不可欠だと考えていたと指摘。「中国と米国はキッシンジャー氏の戦略的ビジョン、政治的勇気、外交的知恵を継承し、中米関係の健全で安定した持続可能な発展を促進すべきだ」と述べた。

キッシンジャー氏の訪中は100回以上に及び、最後となった7月の訪問では習氏とも面会した。

同氏の死去は中国の国営メディアやソーシャルメディアユーザーによっても広く悼まれている。

香港大学助理教授で地政学ストラテジストのブライアン・ウォン氏は「(中国における)キッシンジャー氏に対する包括的な印象は米国の中で中国人を理解している人物というものだった」と語った。

ロシアのプーチン大統領は30日、亡くなったキッシンジャー元米国務長官のナンシー夫人に弔電を送り「賢明で先見の明のある政治家」だったと哀悼の意を表した。

プーチン氏はヘンリー・キッシンジャーの名は現実主義的な外交政策路線と切っても切れない関係にある。国際的な緊張の緩和と、世界の安全保障の強化に貢献した最重要のソ連・米国の合意の実現を可能にした」と指摘。

「私はこの深く非凡な人物と個人的に何度も交流する機会があった。私には間違いなく最良の思い出がある」と述べた。

キッシンジャー氏は1970年代に米ソの対話を推進し、両国初の重要な核兵器管理条約を導いた。

🇷🇺ロシアから見たキッシン…

🎙ヘンリー・キッシンジャーの世紀は終わった。
ニクソンとフォードの下で国務長官を務めタカ派でもハト派でもなく主義主張もなく利益のみを追求するキッシンジャーは現代政界の創造者の一人とみなされている。

彼は米ソ関係を良好にする為に多くの事を行った外交官であり政治家であり、操り手であり、灰色の枢機卿でもあった。
100歳になっても彼は今日の多くの西洋人よりもよく見聞きしていた。

🐸ロシアのキッシン認識のまとめ方の秀逸さよ…♥

日本のメディアからこんな風に敬意と毒のバランスが取れたコメントを聞いてみたいね。

NEW - ブリンケン氏、前任者のキッシンジャー氏のように歴史を変えた人はほとんどいないと語る

フィリップ・ゼリコー  バージニア大学教授

国益だけを見つめる冷徹な現実主義者として知られるキッシンジャーだが、彼の外交センスは、冷徹な分析能力というよりも、実際には、彼自身もあまり気づいていない二つの資質によって導かれていた。一つは、「膨大な情報を踏まえた上で、そこから実行可能なエッセンスを導き出す類い希な能力」である。彼は、タイミングよく本当の問題の所在をかぎ分け、それに対処するために、官僚や外交官がどのような行動をとるべきかを思い描く抜群のセンスの持ち主だった。そしてもう一つの才能は、「他人の能力を直感的に見抜く力」、そして、でき得る限り相手の立場に「共感」を示す柔軟性である。世間のキッシンジャー評、あるいは、彼の自画像にもない、この二つの資質が彼を当代一流の外交交渉者に押し上げたのである。

en.wikipedia.org

キッシンジャーは人道的介入策を突き動かす動機には共感を示し、そうした行動を求めるアメリカの経験に深く根ざす価値も理解している。しかし彼は、これまでの人道介入政策の実施のされ方ゆえに、この政策の背後にある大義名分や価値がむしろ損なわれていると指摘する。また彼は、アジアと中東という、平和、繁栄、民主主義がまだ広く確実には根づいていない二つの重要な地域に対しては、アメリカの政策決定者は保守的な「パワー・バランス」(勢力均衡)路線を目指すべきで、(内側の改革を強硬に求めるべきではない)と指摘している。

www.youtube.com

From the Archives: Henry Kissinger on "Face the Nation," April 1985

#キッシンジャー(死去・100歳)

アメリカ ニューヨークの連邦地検は29日、ニューヨークに住むシーク教の指導者を殺害しようとしたとして、インド人の男を逮捕し、その後、起訴したことを明らかにしました。

起訴状によりますと、男はことし5月ごろ、インド政府の職員からこの指導者を殺害するよう指示を受け、アメリカにいる人物に殺害を依頼したものの、依頼を受けた人物はアメリカの麻薬取締局の潜入捜査官だったということです。

この指導者はインド北部におけるシーク教徒の分離独立を主張するアメリカを拠点とする団体を率いていて、インド政府の警戒の対象になっていたとされています。

今回の事件についてホワイトハウスNSC国家安全保障会議のワトソン報道官は、声明で「われわれはインド政府の職員と見られる人物から殺人の手配を指示されたという情報を深刻に受け止め、インド政府に対して懸念を表明した」としています。

そのうえで「インド政府が調査結果にもとづいて説明責任を果たすことを期待する」と強調しました。

ことし6月、カナダでシーク教の指導者が殺害される事件が起きた際、カナダ政府がインド政府の関与を指摘したことで両国の関係が悪化していますが、今回の事件がアメリカとインドの関係に影響を与えるのか注目されています。

#印米(NY連邦地検・NY在住シーク教指導者殺害計画・インド人の男・逮捕・起訴・ワトソン報道官声明「われわれはインド政府の職員と見られる人物から殺人の手配を指示されたという情報を深刻に受け止め、インド政府に対して懸念を表明した」「インド政府が調査結果にもとづいて説明責任を果たすことを期待する」)

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#印米(ワトソン報道官「インドからの独立を支持するシーク教徒の男性を米国内で殺害する計画を米当局が阻止した」「極めて深刻に捉えており、最高レベルを含め米政府からインド政府に提起した」「インド側は驚きと懸念を表明しそうした活動はインド政府の方針ではないと述べた」「われわれはインド政府が調査を進め、数日内に説明を行うと理解している」「関与したと見なされた者の責任を問うべきと伝えた」「標的となった男性は米国とカナダの国籍を持つ」・2019「非合法組織」2020「テロリスト」)

#南アジア

#米大統領

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