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Twitterを見てるとわかる。

新型コロナウイルスの感染者の発表が、14日まで、3日連続で過去最多を更新する中、菅総理大臣は、15日、総理大臣官邸で、川崎市健康安全研究所の所長で、政府の分科会のメンバーも務める岡部信彦・内閣官房参与から感染状況の報告を受けました。

このあと、岡部氏は記者団に、「人が動けば、感染が増えるのは覚悟しないといけないが、重症者が増えるのは困る。一番いいのは、人が移動しないことだが、特効薬としては使えないので、注意深い行動について、うまく説明していくことが大切だ」と述べました。

一方、「Go Toキャンペーン」について、岡部氏は、「皆さんにも注意してもらいながら、やっていくことが重要だ」と述べました。

東京都は、15日、都内で新たに10歳未満から90代までの男女合わせて255人新型コロナウイルスに感染していることを確認したと発表しました。

年代別では、
▼10歳未満が4人、
▼10代が15人、
▼20代が68人、
▼30代が47人、
▼40代が42人、
▼50代が43人、
▼60代が18人、
▼70代が12人、
▼80代が5人、
▼90代が1人です。

都内で1日の感染の確認が300人を下回るのは5日前の11月10日以来です。

200人を超えるのは6日連続です。

感染の確認は曜日ごとにばらつきがあり、傾向が異なりますが、日曜日に200人を超えたのはおよそ3か月前の8月23日以来です。

255人のうち、▼およそ44%にあたる113人はこれまでに感染が確認された人の濃厚接触者で、▼残りのおよそ56%の142人はこれまでのところ感染経路がわかっていないということです。

これで都内で感染が確認されたのは合わせて3万4751人になりました。

一方、都の基準で集計した15日時点の重症の患者は14日より3人減って38人でした。

また、15日は死亡が確認された人はいませんでした。

だが、田中角栄はなぜ葬られたのか。ここでその理由を解明しなければならない。

長年にわたる取材で、実は田中角栄は、日中国交正常化以後、首相在任中の外交課題で繰り返しキッシンジャーらの激しい怒りの対象になっていたことが分かった。怒りは雲散霧消することなく、憎しみに深化していったとみられる。

キッシンジャーが、田中の外交に復讐していたことも分かった。その事実は、今に至るも、日本の外務省にもまったく知られていない。

殺人事件の捜査なら、(1)殺害の凶器、(2)殺害の方法、(3)動機について、証拠を認定することが必要不可欠となる。

(1)田中を葬った凶器とは、「Tanaka」もしくは「PM(首相)」などと明記した証拠文書である。

(2)方法とは、その文書を日本側に引き渡し、刑事捜査を可能にした手続き。つまり、「キッシンジャー意見書」と日米司法当局間の文書引き渡し協定だ。文書は、意見書に基づき、米証券取引委員会(SEC)に渡され、日米協定に従い、最終的に東京地検に渡った。

その結果、東京地検による贈収賄罪事件の捜査が可能になった。キッシンジャーはその際、自ら実行行為に参画したわけではなく、補助的な役割を演じただけだった。

しかし、スキャンダルも、(3)動機が証拠付けられなければ成り立たない。その動機は、刑事事件の動機ではなく、田中を政治的に葬るという動機である。

既述の通り、(1)を含む文書を(2)が示す方向で、最終的に東京地検に届くよう導く役割を演じたキーマンは、事件発覚時の米国務長官ヘンリー・キッシンジャーだった。

残された課題は、キッシンジャーにどんな「動機」があったのか、なかったのかを確認することである。

田中を葬ることにつながる、キッシンジャーの「動機」を示す文書記録は多数残されていた。対立は「日中国交正常化」から、日本の「中東政策」、「日ソ関係」などの外交分野に広がっていた。

その機密文書は翌2006年5月、国家安全保障文書館のホームページにアップされた。テーマはニクソン―フォード政権時代の秘密外交を詳述する2100件のキッシンジャー『会談録』文書」の一つだった。今も、ネット上の同じページに掲載されている(注3)。

筆者をロッキード事件取材に駆り立てたこの文書は、1972年8月31日付で、「トップシークレット/センシティブ/特定アイズオンリー」と指定された「会談録」だ。「アイズオンリー」とは、配布後に回収される文書で、機密度が非常に高い。

キッシンジャー大統領補佐官は、その中で、田中角栄とみられる日本人らを烈火の如く「ジャップは上前をはねやがった」と罵っている。

キッシンジャーはなぜ、そんなに怒っていたのか。「上前をはねた」とは、一体どういう意味なのか。疑問が募った。

この文書こそ、まさにキッシンジャーの激しい「怒り」を示した文書だったのだ。しかも、田中による日中国交正常化を厳しく非難した言葉だった。

この文書からスタートして、米国立公文書館ニクソン大統領図書館、フォード大統領図書館などで、田中首相在任中の米国の文書を渉猟した。長年の取材で分かったのは、キッシンジャーニクソン大統領が、政治家田中の外交政策を嫌悪していたことだった。

日中国交正常化だけではなかった。第四次中東戦争に伴う石油ショックで、田中は日本外交の軸を「アラブ寄り」に転換し、さらに独自の日ソ外交を進めた。日ソ外交で、田中は今も知られていない復讐をされていた。

興味深いのは、田中自身を含めて、日本政府側は当時も今も、こうした米側の思考と外交をほとんど認識していないことだ。

ただ、日本の「アラブ寄り外交」への転換について、田中とキッシンジャーは激論を闘わせており、田中も米側の意向を十分理解したに違いない。

三木清ではないが、キッシンジャーの怒りは度重なり、「復讐心」を持つほどのレベルに達していったのである。

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