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9日の会合では、今の皇位継承順位を変えず、皇族数を確保するため、
▽女性皇族が結婚後も皇室に残る案と
旧皇族の男系男子を養子に迎える案の
2つをめぐって議論が行われました。

このうち女性皇族が皇室に残る案については、「今の皇族には本人の意思を尊重したうえで特例として認めるべきだ」という意見の一方、「女性皇族の配偶者と子どもが皇族になるのは、ハードルがやや高い」という慎重論も出されました。

有識者会議は「皇族数の確保が喫緊の課題だ」として、女性皇族の子に継承資格を与えるかどうかの結論は出さず、皇族数を確保する具体策の検討を進める方針です。

座長を務める清家篤慶應義塾塾長は「議論の積み重ねで一定の方向性が見えてきた」と述べ、今月26日の次の会合で、一定の方向性を示したうえで、報告書の作成に向けて議論を続ける考えを示しました。

この状況を打開する策が、たった1つだけあるという。「ご結婚なし」で皇籍を離脱し、養子縁組ができれば、眞子さまが小室さんと“添い遂げる”ことができる可能性があるというのだ。

 かつて、宮内庁皇籍離脱を申し出た皇族がいた。三笠宮家の長男、「ヒゲの殿下」こと故寛仁親王だ。1982年、「皇族としての務めと社会活動が重なり多忙を極めた」という理由から、「辞めたい」と口頭で申し出たという。

 現行のルールでは皇族方の「本人の意思」と皇籍離脱する「やむを得ない特別な理由」が認められた場合、皇室会議が開かれ議論が行われる。故寛仁親王皇籍離脱を申し出た際には、当時の宮内庁長官が「特別な理由」を「不祥事など皇族の身分にとどまることがふさわしくないとされた場合」と定義し、会議は開かれなかった。そこには宮内庁の強い説得もあったという。

「万が一、眞子さまが皇室を『辞めたい』とおっしゃったらどうなるでしょうか。故寛仁親王の際には会議は開かれませんでしたが、眞子さまがそれ相応の理由を用意されれば、皇室会議が開かれるかもしれません。そして、会議で承認されれば、眞子さま皇籍を離脱することができます」(皇室関係者)

 もし眞子さまがそうした申し出をされたとしたら、宮内庁は説得することができるだろうか。

皇籍離脱のハードルは高いものですが、眞子さまがいま置かれている状況は、まさに“危急の事態”とも言えます。ご結婚問題により、これほどまでに皇室への逆風を招いたことが、“皇族の身分にとどまることがふさわしくないこと”と認識されることもあり得ます。結婚への見通しが暗いいま、結婚をしないで皇籍を離れることはやむを得ない、という判断は否定されるものではないでしょう」(宮内庁関係者)

 その際、追い風になるのが、政府の有識者会議で議論されている「養子縁組」だ。想定されているのは、あくまで旧皇族が皇室に養子に入ること。しかし、皇室と旧皇族の垣根を越える「養子入り」が実現に向かえば、皇族が一般人の養子に入ることの国民の心理的なハードルも下がるはずだ。

「結婚なき皇籍離脱ののちに、眞子さまが“小室家の養子になる”という選択肢があるのです。それならば、秋篠宮さまが否定されている納采の儀など、いわゆる女性皇族の結婚の儀式を経ることなく、眞子さまは小室さんとひとつ屋根の下で、一緒に生計を立てて、暮らしていくことができる。しかも、皇族の身分を離れる際に支払われる一時金の1億4000万円ほども、滞りなく払われるのではないでしょうか」(別の皇室関係者)

「さらに、眞子さまと小室さんは『実子と養子』として兄妹の関係になります。実子と養子は結婚が認められていますから、眞子さまが一般人となられて時が経ち、国民からの関心が薄れた頃に、ひそかに結婚することもできるのです」(前出・皇室関係者)

 ただ、今は皇室の危機と言いましたが、実は皇室の歴史は「危機」の連続なんです(笑)。

 たとえば私が描いた「天上の虹」の主人公は西暦690年から697年まで在位した持統天皇ですが、彼女は天智天皇の娘として生まれ、天武天皇の皇后の立場を経て、40代の半ばで天皇に即位しています。彼女が史上3人目の女性天皇になったのも、皇位継承者が次々と亡くなる"危機"が原因でした。

 持統天皇天武天皇の間に産まれた草壁皇子は病弱で若くして病死、早世した自身の姉と天武天皇の間に産まれた大津皇子は謀反の疑いで死を命じられました。持統天皇は自分の孫を即位させようとしましたが、まだ幼かったために彼女が自ら即位することになったのです。

「女帝の手記」の主人公、孝謙称徳天皇の時代も、皇族は大きな危機に直面していました。孝謙称徳天皇聖武天皇の娘で、女性として史上唯一の皇太子になり、749年から770年の間に2度皇位につきました。彼女が生きた700年代は天皇の座をめぐる苛烈な権力争いが繰り広げられていた時代なんです。

 私は孝謙称徳天皇を、かつて恋仲にあったと思われる藤原仲麻呂を軍事力で叩き潰す苛烈さを持ち合わせた人物として描きました。その決断によって皇室は存続したわけですが、戦いが逆に転んでいれば“藤原王朝”ができていてもおかしくなかったでしょう。

 今は天皇が政治力を持っていませんが、かつては絶対的な権威であり権力者でもあった天皇という立場は、常に反乱や暗殺と背中合わせでした。反乱を恐れてライバルを次々と殺していたら皇位継承者がほとんどいなくなってしまった雄略天皇の例や、1人も後継者が見当たらず血筋を遡りようやく探し当てて即位にこぎつけた継体天皇の例もあるほどです。

 孝謙称徳天皇と聞くと、道鏡を思い出す人も多いと思います。道鏡といえば日本史上に残る「悪人」として有名で、「女帝を性的にたぶらかして自ら天皇になろうとしたいかがわしい僧侶」というイメージが定着していますよね。

 ただ私は道鏡の書いた文字を資料で見たことがあるのですが、とても素直な人だという印象を受けました。資料を調べても、道鏡が悪人だとはどうしても思えないんです。

 それにもし道鏡が本当に国家乗っ取りを企んだ悪人だったとすれば、孝謙称徳天皇が亡くなって後ろ盾を失ったあとに、当然死罪にされているはずです。ところが実際は、当時日本三大寺院の1つと言われた下野薬師寺の長官になっています。これはもちろん左遷ですが、お寺の長官は今でいえば大学の学長の立場ですから、そこまでひどい身分でもありません。

 これはおそらく、道鏡が本気で国家転覆を狙っていたわけではないことを周囲もわかっていて「女帝さまの方が彼に夢中になっちゃって大変だったね」というような同情があったんだと思いますね。

 何かと話題になる小室圭さんについてはよく存じ上げないのですが、個人的には、眞子さまとの結婚について国民に説明をする必要があると思っています。お金のことや今後の計画について彼が考えていることが伝わってこないので、もし自分の娘の結婚相手だとしても「もう少しちゃんとして」と感じるでしょうね。

 ただ皇室の歴史を振り返ると、「前例のないこと」が溢れているのも事実です。しかもその多くは、時代ごとの世間の雰囲気を反映しています。

 たとえば現在の上皇陛下が、上皇后陛下とご結婚なされたことも、当時としては異例なことでした。当時皇太子だった上皇陛下が、華族ではなく一般の方と自由恋愛で結婚することに、周囲の大人が「えーっ」と驚いていたのを覚えています。でも美智子さまの美しさと知的さが世間に知られると、今度は一転して「ミッチーブーム」が起きましたよね。

 秋篠宮さまの結婚も異例づくしでした。昭和天皇の喪が明けていない1989年9月に婚約の記者会見をしたこと、長幼の序が重視される皇室で兄の皇太子よりも早い結婚、しかも秋篠宮さまも紀子さまも当時は学生だったんです。

 ただこれも、当時の空気を思い出せば納得できます。大学内で出会って自由恋愛に落ちるのはバブル時代の雰囲気にマッチしていましたし、今上天皇がキャリアウーマンの雅子さまとご結婚されたことも合わせて、いかにも当時の「長男と次男の結婚」という印象を受けます。

 ですから眞子さまが「お父様はお父様、私の愛は私の愛」と思うのも、時代を考えれば自然なことなのかもしれません。一般の世界でも親と子で意見が食い違うことはありますから。

「女帝の手記」の中で私は、孝謙称徳天皇は女性として史上初の皇太子になる場面を描きました。それ以前にも女性天皇はいましたが、多くは「男性がいないので消去法で選ばれたケース」や、「幼い男児が成長するまでのつなぎ」の存在でした。しかし孝謙称徳天皇は、将来天皇になることを正式に期待されて育った歴史上初めての女性だったわけです。

 ただ逆説的ですが、皇室の歴史が「前例のないこと」ばかりだったからこそ、その中で守られ続けてきた「男系男子優先」という伝統の価値は計り知れないのではないかと私は思います。

 資料が残っていて史実と思われる範囲だけでも、約1700年間にわたって皇室は男系男子優先の伝統を守り続けてきました。女性の天皇孝謙称徳天皇の後、江戸時代初期の明正天皇まで即位していません。最近はY染色体がどうといわれることもありますが、大昔の人はそんなこと分かるはずがありません。でも事実として、歴史上の皇室の方々は男系男子優先の伝統を守り続けてきたわけです。

 私は、天皇と皇族は日本の美意識や価値観を示す存在であると同時に、日本人みんなが知っている物語の登場人物でもあると思っています。日本という長い歴史物語の中で、誰もがその人の出自や先祖を知っている存在として、皇室は民族の物語を体現しています。

 その重みがあるからこそ私は、女性・女系天皇の問題を“2021年のものさし”だけで考えることに抵抗があるんです。皇室がその時々の時代の空気を反映するものだとしても、現代における「男女同権」「女性の力を生かす」という安易なイメージで物事を急速に動かすことには反対です。

 そもそも、日本の歴史上の女性たちが力を発揮していなかったなんて私には全く思えないんですよ。「万葉集」を読めば、女性たちの残した歌の大胆さや自由度に驚かされます。

 私は「恋歌・万葉集」(光文社)の中で、奈良朝前期を代表する女流歌人大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)を登場させています。彼女は若いころから才気豊かなプレイガールとして有名で、架空の恋歌をたくさん作り、自分の心情をあらわす段階から一歩進んで、恋愛文学と呼ぶにふさわしい次元を切り開きました。

「わが背子に恋ふれば苦し 暇あらば 拾ひて行かむ 恋忘貝(あの人に恋いこがれているので苦しい。かなうならば、恋を忘れるという貝を拾いに行けたらいいのに)」という歌なんて、「作り話だから大胆なこと書いてもはずかしくないわ」というフィクションの強みが感じられますよね。

 それに「万葉集」は、男性と女性どころか天皇から政治犯まで同列に作品が並べられている歌集です。決して女性が下に見られていたわけではないんですよ。

 私はマンガの中で、天皇や皇室の方々を私たちと同じ、人生に悩む1人の人間として描いています。欲もあれば恐れもある、恋に悩んだり、時には権力争いの相手の命を奪うことも厭わない、皇室の方々もそんな1人の人間だと思っているからです。

 よく持統天皇は「親と夫の七光り」で権力を志向した女だと言われます。大津皇子が謀反の疑いをかけられたのも彼女の陰謀だという説があるくらいです。ところが彼女の歌を見てみると、夫が亡くなった時に残した1首を除いて、感情むき出しの歌がないんです。

 それだけ自分の感情を抑えられた方が、息子を天皇にするためだけに本当に甥を殺したりするだろうか、というのは疑問ですね。

 万世一系という価値観が強くアピールされるようになったのも、天武天皇持統天皇の時代だと思います。「女帝の手記」にも、世俗の権力を握って政治のトップに立つだけでなく、自ら天皇の権威さえも手にしようとする男性が多く登場します。お隣の中国では、権力闘争に打ち勝てば新しい王朝を建てられますから、中国に憧れて「天皇」を「皇帝」と呼びかえようとした人もいます。

 そういった危機を阻止するため、どれだけ権力を極める人物が現れたとしても、その外側に皇室の権威を保存し続ける必要がある。それには、万世一系という錦の御旗は非常に効果的だったんだと思います。

 ですが最近は、皇室の権威に対して敬意を払わない人々が増えていることが気になっています。雅子さま適応障害でお休みをされていた時には「税金泥棒」のようなおぞましい言葉で東宮家を批判する人たちがいましたし、愛子さまが学校をお休みがちになった時期もそうです。

 眞子さまのご結婚についても、たかだか数年間の出来事で秋篠宮家に対してどうしてこれほどひどいことを言うのでしょう。「ああいう父親が育てた息子が天皇になってもろくなことがない」などという声を聞くと、日本人はいつからこんなに下品になってしまったのかと悲しく思います。

 このような空気の中で、皇室の今後を決める制度について大きな決断をすることには不安を感じざるをえません。そもそも悠仁さまという立派な皇位継承者がいるわけですから女性天皇女系天皇の問題について今急いで決める必要はないんです。

 もちろん、途切れてしまってから慌てるのもいけません。慌てて決めるとろくな結果にならないというのも、歴史が証明していますから(笑)。

 皇室の歴史はいつも危機の連続でした。しかしその時代ごとの人が奔走して、現代まで皇室の伝統をつないできたんです。逆に言えば、いま皇室が危機に瀕しているとしても、それは「いつものこと」でもあるのです。慌てず、落ち着いて、いま皇族として生きておられる方々と、いま日本で生きる私たちの関係についてゆっくり考えていけばいいんだと思います。

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