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#テレビ

WBAミドル級スーパーチャンピオンの村田選手は9日夜、さいたま市IBFのチャンピオン、ゴロフキン選手との王座統一戦に臨みました。

試合はもともと去年12月に予定されていましたが、新型コロナウイルスの影響で延期となり、村田選手にとってはおよそ2年4か月ぶりの試合でした。

会場にはおよそ1万5000人の観客が集まり、村田選手が元3団体統一王者で、WBAの王座を19回連続で防衛するなど、現役屈指のチャンピオン、ゴロフキン選手とどのような試合をするか注目されました。

試合は第1ラウンドから村田選手が積極的に前に出て、ボディーを中心とした攻撃でゴロフキン選手を苦しめました。

中盤からはゴロフキン選手が強烈なパンチで主導権を握り、村田選手はたびたびロープ際に追い込まれました。

そして第9ラウンド、ゴロフキン選手の右の強打が村田選手の顔に当たって、よろめいたところで試合が終わりました。

村田選手は9ラウンド2分11秒、テクニカルノックアウトで敗れ、王座統一は果たせませんでした。

村田選手は「総合力で上を行かれた。2年4か月ぶりの試合でゴロフキン選手とやれる、こんなにラッキーなことはない。拍手をおくっていただいてうれしく思う」と話していました。

ゴロフキン選手は「村田選手はスーパーチャンピオンの名にふさわしい戦いだった。すばらしい舞台を用意してくれた方々にお礼を言いたい」と話していました。

試合後、記者会見に臨んだ村田諒太選手は「まだ感情が湧いてくる時点ではなく、これから湧いてくるのだと思う。ゴロフキン選手は強さよりもうまさを感じた。ブロッキングの隙間にパンチを入れてくる技術など幅の違いというのをリング上で感じた。総合力で上を行かれた」と振り返りました。

また「ボディーは効いたなという感じはあった」とみずからの攻めに手応えがあった一方で「右ストレートが強く当たる距離でパンチをもらってくれない。そこがゴロフキン選手が打たれ強いと言われるゆえんかなと思った」と強さを分析していました。

そして「よくやったとか、全部出し切りましたとか、もうちょっと時間がたってみないと言えない。いま、この時点では客観的に捉えることができない」と話していました。

村田諒太選手が所属する帝拳ジム本田明彦会長は「村田選手のガードのかたさがあったからあそこまでもった。100%の力を発揮したと思うが、ゴロフキン選手が上だった」と試合を振り返りました。

そして「2年以上のブランクがあっても、あれだけのものを見せられたのはすごい」とおよそ2年4か月ぶりの試合となった村田選手をたたえました。

そして、村田選手の今後について「たぶん、本人は勝っても負けても最後だと思ってやったと思う。俺もそうだし、村田もそうだと思う」と話していました。

#スポーツ

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#天皇家

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【茂木誠先生の特別講義2022】ウクライナ戦争における情報戦。

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1932年から1933年(または1934年)にかけてウクライナ・北カフカース・クバーニなどウクライナ人が住んでいた地域をはじめ、カザフスタンなど、ソビエト連邦各地でおきた大飢饉を指す。特にウクライナでの被害が甚大で、かつウクライナを標的としたソビエトの政策が飢饉の原因であったことから、ホロドモールはソビエトの政策に抵抗したウクライナの農民に対するソビエト国家による攻撃の集大成であり、人工的・人為的な大飢饉であったとされている。

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「派内には下村博文・会長代理をはじめ、萩生田光一経産相世耕弘成参院幹事長、福田達夫・総務会長、稲田朋美・事務局長などポスト岸田を目指す総裁候補が綺羅星の如く並んでいる。そこに総裁選出馬の実績がある高市さんが出戻ってきたら、総裁候補の地位を奪われかねない。だから派閥復帰には派内の反対が強い」

 振り返ると、安倍氏の“マドンナ切り捨て”は今に始まったことではない。

 第1次安倍政権では現東京都知事小池百合子氏を総理補佐官や防衛大臣に抜擢したが、首相に返り咲くと第2次政権からは一転して干し上げた。かわりに重用したのが“タカ派ジャンヌダルク”と呼ばれた稲田氏だった。

 当選3回で規制改革相に入閣させたのを皮切りに、自民党政調会長防衛大臣を歴任させ、一時は党内で「安倍の後継者」とさえ言われた。

 防衛大臣時代に同省の不祥事対応などで能力不足が露呈して事実上解任された後も、すぐに総裁特別補佐や幹事長代行の役職を与えて復権させたほどだ。

 ところが、稲田氏が総裁選出馬に意欲を見せ、「選択的夫婦別姓」容認に転じると一転して距離を置いた。総裁選への協力要請にも、安倍氏は「一歩一歩頑張ればいい」とクビを縦には振らなかった。

「自分の役に立つと思えば、肩入れして持ち上げるが、言うことを聞かなくなったり、自分の立場を脅かすかもしれないと警戒すると容赦なく突き落とす。まさに権力者の常套手段です」

 そう語るのは政治評論家の有馬晴海氏だ。

 安倍氏は退陣後も最大派閥の会長として権力を持ち続け、総裁カードを次々に切り捨てて後継者が育つことを許さない。そのスタイルは“闇将軍”と呼ばれた田中角栄氏にも似ている。有馬氏が続ける。

キングメーカー安倍氏はこれまで高市氏を通じて佐渡金山の世界遺産推薦など、岸田政権に注文をつけてきた。しかし、ロシアのウクライナ侵攻によって、プーチン大統領を外交パートナーとしてきた安倍氏への評価は国際的にも国内でも非常に厳しくなっている。党内での立場が相対的に弱まってきたから、岸田首相に配慮しなければならない。3月14日に行われた麻生、茂木氏との3者会談で『政権を支える』と合意したのがその表われです。

 安倍氏は平然と岸田批判を口にする高市氏にこれまでのように肩入れするわけにはいかなくなった。首相が内閣改造高市氏を交代させると言えば反対しないはずです」

 ところが、高市氏の更迭は党内の権力バランスの大きな変化につながりそうだ。“闇将軍”の角栄氏は最後は派内から“クーデター”を起こされて失脚、結束を誇った田中軍団は分裂に追い込まれ、自民党の世代交代を引き起こした。

 実は、最大派閥の安倍派内では、安倍氏が派内から総裁候補を立てようとしないことに不満が溜まり、「安倍離れ」が始まっている。

「総裁選出馬を止められた下村さんや稲田さんは安倍さんに対して不信感を拭い切れていないし、側近の萩生田さんも自分の支持層は安倍さんの岩盤保守とは少し違うと考えている。だから福田総務会長を含めて、総裁候補たちは安倍さんに頼らなくてもいいようにそれぞれ個別に勉強会を開くなど自前の勢力拡張を急いでいる。皮肉なことに、安倍さんに一番忠実なのは無派閥で自分の勢力がない高市政調会長ではないか」(前出・安倍派ベテラン)

 そんな状況で安倍氏がいまや“唯一の忠臣”である高市氏を見捨てれば、「安倍さんに従っても使い捨てられる」と派内から造反の火の手が上がり、角栄氏の“二の舞い”となる可能性がある。それが岸田政権を支える最大派閥の崩壊へとつながれば、自民党に激震を呼ぶのは間違いない。

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#政界再編・二大政党制

共産党の志位委員長は東京都内で演説し、党の綱領で「解消に向かって前進をはかる」としている自衛隊について「一足飛びに自衛隊を無くすことはできない。憲法9条の理想に向け、国民多数の合意で一歩一歩、自衛隊の現実を改革していくのが党の立場だ」と説明しました。

そのうえで自衛隊とかなりの期間共存していくことになる。その間、日本が侵略された場合は、自衛隊も含めあらゆる手段を用いて国民の命と国家の主権を守るために頑張り抜く」と強調しました。

このあと志位氏は記者団に対し「自衛隊を活用する方針は22年前の党大会で決めたものだが、まだまだ伝わっていない。夏の参議院選挙では、憲法9条も国民の命も両方ともしっかり守っていくという党の立場を訴えていきたい」と述べました。

日本の排他的経済水域で行われるサケマスの流し網漁は、ロシアの川で生まれた魚が多いため、事前に日本とロシアの政府間で交渉を行い操業条件を決めたうえで、例年4月10日に解禁されます。

ことしは19隻が出漁する予定ですが、ロシアの軍事侵攻の影響で交渉が始まっていないため、出漁できない状況になっています。

根室市の歯舞漁港では、例年であれば、解禁日には日付けが変わると同時に出漁する光景が見られますが、漁に出るはずの漁船は陸にあげられたままになっていました。

一方、政府は11日にもロシア側と交渉を行う方向で調整していて、漁業者からは期待や不安の声が聞かれました。

主に沿岸で操業しているという根室市の漁業者は「サケマス漁をしている人たちには諦めムードも広がっている。例年は活気がある港も、ことしは人がいなくて静かだ」と話していました。

#反ロシア#対中露戦

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#外交・安全保障

ユン・ソギョル次期大統領は10日、ソウルで記者会見し、来月発足する新政権の閣僚のうち、これまでに指名した8人の候補者を発表しました。

このうち、副首相兼企画財政相には経済官僚出身のチュ・ギョンホ(秋慶鎬)氏、国防相には韓国軍の合同参謀本部で次長を務めたイ・ジョンソプ(李鐘燮)氏、国土交通相には前のチェジュ(済州)道知事のウォン・ヒリョン(元喜龍)氏など、ユン次期政権の政策立案を進めている「政権引き継ぎ委員会」の幹部を中心に指名しています。

ユン氏は「国と国民のために、それぞれの分野をしっかりけん引してくれる方かどうかを基準に選んだ」と説明し、外相などほかの閣僚人事についても検討作業が終わりしだい速やかに発表するとしています。

ただ国会は先月の大統領選挙で敗れた今の与党が過半数を占めているため、閣僚の候補者は今後、出席する聴聞会で厳しい追及を受けることが予想されます。

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#朝鮮半島

パキスタンでは、先月カーン首相の経済政策の失敗の責任などを追及していた野党連合が議会下院に首相の不信任案を提出しましたが却下され、野党側が憲法違反にあたるとして最高裁判所に提訴しました。

最高裁判所は7日与野党双方の主張を聞き取った結果、不信任案の却下は憲法違反であり下院で採決を行うよう求める判断を示し、10日採決が行われました。

その結果、与党の一部が造反して不信任案は可決され、カーン首相の退陣が確定しました。

地元メディアによりますとパキスタンで首相の不信任案が可決されるのは初めてです。

近く新しい首相が選ばれる見通しですが、パキスタンでは軍が政治に強い影響力を持っていることから、政権が交代しても中国やアフガニスタンタリバン暫定政権寄りの政策が変わることはないと見られていて、新政権はカーン政権時代に冷えきったアメリカとの関係をどう再構築していくかが課題となります。

スリランカでは、外貨不足などによって急激なインフレが起きているのに加えて、ガソリンや軽油といった燃料や病院の薬が不足し、電気も1日に合計で最大13時間止まるなど生活に深刻な影響が出て、人々の不満が高まっています。

こうした中、9日最大都市コロンボでは、抗議活動のために人々が中心部に集まり、AP通信は数千人が参加したと伝えています。

通り沿いには若者から高齢者まで幅広い年齢層の男女が集まり、経済危機は政府の責任だとして、ラジャパクサ大統領の辞任を求めるプラカードや国旗を掲げて、少なくとも6時間以上にわたり抗議の声を上げました。

会社員の娘と参加した女性は「今はガスも電気もありません。大統領には退陣してほしい」と話していました。

またデモに初めて参加したという39歳の男性は「自分たちの声を届ける方法はこれしかないので来ました。もう家でじっとしてはいられません。政府がどうすることもできないのであれば、できる人に任せるべきだ」と話していました。

スリランカでは先月31日、大統領の自宅近くでデモ隊と警察が衝突し、一時、全土に非常事態宣言が出るなど混乱が続いています。

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#南アジア

#ロン・ポール

ウクライナ東部のドネツク州、クラマトルスクで8日、鉄道の駅がミサイルで攻撃を受けこれまでに子ども5人を含む52人が死亡しました。

攻撃について、ウクライナ側は広い範囲に被害をもたらし、使用を禁止する国際条約があるクラスター爆弾をロシア軍が使ったと非難しています。

攻撃を受けた駅について、ユニセフ=国連児童基金は「人々が避難する主要なルートだった」と指摘しているほか、地元の市長は「当時、多くの人たちがホームで列車を待っていた。この時間にはおよそ4000人がいたとみられる」と述べるなど、現地では攻撃はロシア軍が避難しようとする多くの市民が駅にいる時間帯をねらったものだったのではないかと批判する声が上がっています。

ロシア側はウクライナ軍による攻撃だ」と主張し、関与を否定していますが、欧米各国からはロシア軍による無差別攻撃で戦争犯罪だなどとしてロシアの責任を問う声が強まっています。

一方、多くの市民の犠牲が連日明らかになっている首都キーウ周辺の状況について、ウクライナの複数のメディアは、ロシア軍が撤退したキーウの西、およそ50キロに位置するマカリウで、射殺された132人の住民の遺体が見つかったと伝えました。

こうした中、ロシア国防省は9日「キーウ近郊のイルピンで、ロシア軍が市民を殺害したとする偽装工作を行うため、ウクライナ側が街に遺体を運び込む計画を立てている」と発表し、市民の被害はウクライナ側によって仕組まれたものだという主張を展開しています。

またウクライナ東部の状況についてはアメリカ国防総省が8日、ロシア軍が東部に合わせて数千人の兵士を追加で配置したとの見方を示しました。

さらにキーウ周辺から撤退したロシア軍の一部の部隊が、ロシア西部でいったん補給を受けたあと南下してウクライナ東部地域に入る可能性が高いと分析しています。

ロシア軍はウクライナ東部の掌握に向け大規模な攻勢に乗り出すとも指摘されていて、市民の犠牲が増えることへの懸念がいっそう高まっています。

当時、駅の周辺にいた人たちが状況を語りました。

このうち、西部の都市リビウに列車で避難するため妻と娘とともに駅を訪れていた男性は「燃えている車やミサイルの残がい、それに逃げ惑う人々を見ました」と話しました。

この家族が駅に着いたのは、爆発が起きてから3分後だったということです。

鉄道の駅に向かうために乗る予定だったタクシーが遅れたため、別のタクシーを使うことになったことから、駅への到着が遅れて爆発を免れたということです。

男性は「もし最初に乗る予定だったタクシーが時間どおりに来ていたら、私たち家族は爆発に巻き込まれていたでしょう」と話していました。

また、駅に集まった人たちに食べ物や飲み物を提供する予定だった支援団体の男性は「爆発音が聞こえて駅に向かうと壊滅的な状況だった。多くの死傷者がいるのが見えたし、車が燃え、ミサイルの残がいがあった。恐ろしい光景だった」と振り返りました。

そして「爆発音が6回から10回ほど連続して聞こえたが音だけでなく、体の内側に響くような振動があった。ボランティアが1人駅で亡くなった。攻撃が無差別的に行われたことを示している」と話していました。

多くの住民が犠牲となったウクライナの首都キーウ近郊のブチャから隣国ポーランドに逃れたタチアナ・ガルクーシャさん(26)が7日、NHKのインタビューに応じました。

ガルクーシャさんは、ロシア軍がウクライナに侵攻した2日後のことし2月末、身の危険を感じて家族とともに車で避難しました。

ガルクーシャさんは、避難した時の様子を振り返り「移動している途中、前方から炎上しながら道を逆走する車を見ました。乗っている人は生きていないようで、彼らを救うことはできませんでした。自分たちも同じ目にあわないよう無事に避難できるよう祈りながら移動しました」と話し、ロシア兵に見つかると殺されるという恐怖の中、2週間かけて今の避難先までたどりついたといいます。

そしてブチャの状況について、現地に残っていた住民から聞いた話として「住民たちは長くシェルターに隠れていたため食料や水がなくその場で多くの人が亡くなりました。また、亡くなった人の遺体に爆弾がしかけられていることもあり、遺体を埋めようと持ち上げただけで爆発し、犠牲になる住民もいました」と証言しました。

また、現地に残っていた知人の話としてガルクーシャさんは「彼がフェンスに隠れて街の様子を見ていたとき、目の前で住民が戦車に撃たれて殺されるのを目撃しました。その人は、ただ道を歩いていただけなのに理由もなく殺されてしまいました」と語りました。

さらに「ロシア兵が子どもたちの目の前で親を撃ち殺すケースもありました。彼らは『ロシア側の主張を認めれば命は奪わない』などと子どもたちに迫ったといいます。残された子どもたちはこれからどうやって生きていけばいいのでしょうか。ロシア兵の行為は、人間のものとは思えず、まるで獣のようです。人の命を軽んじているとしか思えません」と語り、ロシア兵の残虐行為に対し怒りをあらわにしました。

そしてガルクーシャさんは故郷のブチャについて「ロシア軍によってほとんどの建物が破壊され、すべてが奪われました。子どもたちが遊ぶような公園にも地雷が残っていて、散歩することもできません。美しい街だったのにロシア軍によって地球上から消し去られ自分の夢もすべて消えてしまいました」と苦しい胸のうちを明かしました。

そのうえで「多くの人々が私が生まれた国や街のことを心配してくれて感謝しています。破壊された街を立て直すため、先進国の方々に支援してもらいたいです」と話し、街の復興に向けてさらなる支援の必要性を訴えました。

イギリスのジョンソン首相は9日、ウクライナの首都キーウを訪問し、ゼレンスキー大統領と会談しました。

訪問はメディアなどに対して事前に知らされることなく行われ、ジョンソン首相は外で出迎えたゼレンスキー大統領と英語であいさつを交わしていました。

イギリスの首相官邸によりますと会談でジョンソン首相はウクライナに対するさらなる軍事支援として、装甲車両120台や対艦ミサイルシステムなどを供与する方針を伝えたということです。

ジョンソン首相は前日の8日、対戦車ミサイルなど1億ポンド、日本円で160億円余りに相当する軍事支援をすでに打ち出しています。

会談後に発表されたビデオ声明でジョンソン首相はプーチン大統領がブチャやイルピンなどで行ったことは戦争犯罪だと強調したうえで「ロシア軍が撤退しているのは一種の戦術で、ドンバス地域やウクライナ東部への圧力を強めようとしている」と指摘しました。

そしてほかの国々と協力して今後ロシアへの経済制裁をさらに強化するとともに、軍事面での支援も行っていく考えを改めて示しました。

またゼレンスキー大統領もイギリスによる支援に謝意を示したうえで「制裁という形でロシアに圧力をかける必要がある。そして、いまこそロシアのエネルギー資源を完全に禁輸するときだ」と各国に強く呼びかけました。

ジョンソン首相はゼレンスキー大統領とともにキーウ市内を視察し、市民に「ウクライナの人々を全力で支援したい」などと声をかけていました。

ジョンソン首相のキーウへの訪問は、EUヨーロッパ連合のフォンデアライエン委員長とボレル上級代表に続くもので、ロシアによる軍事侵攻後、G7=主要7か国の首脳としては初めてです。

ウクライナ東部のドネツク州、クラマトルスクでは8日、鉄道の駅がミサイル攻撃を受け、これまでに子ども5人を含む52人が死亡しました。

ロシア側は「ウクライナ軍による攻撃だ」と主張していますが、ロシア軍が避難するために多くの市民が駅に集まっていた時間帯をねらったのではないかと批判する声が上がっています。

イギリス国防省は9日、ロシア軍が東部ルハンシク州で人体に有毒な硝酸の貯蔵タンクを攻撃するなど、市民を巻き添えにする危険性が高い、インフラをねらった攻撃を続けていることや、IEDと呼ばれる道路脇に仕掛ける簡易の爆弾を使っていることなど、最新の戦況分析を明らかにしました。

またロシア軍が撤退した首都キーウ近郊でも多くの市民の犠牲が次々に明らかになっています。

このうちキーウから西におよそ50キロ離れたマカリウでは、射殺された132人の住民の遺体が見つかったとウクライナの複数のメディアが伝えています。

また、キーウ北西にあるボロジャンカに7日、食料などを運ぶボランティアとして入った男性はNHKのインタビューで「がれきの撤去は始まったばかりだったが、すでに何人も遺体で見つかっていた。まだ数十人はがれきの下にいると思う」と証言しました。

市民の犠牲が増え続ける中、イギリスのジョンソン首相がロシアによる軍事侵攻後、G7=主要7か国の首脳として初めてキーウを訪問し、ゼレンスキー大統領と会談しました。

会談後、ジョンソン首相はビデオ声明で改めてロシアを非難するとともに「制裁という形でロシアに圧力をかける必要がある。そして、今こそロシアのエネルギー資源を完全に禁輸するときだ」と各国に強く呼びかけました。

ウクライナのゼレンスキー大統領は9日、首都キーウの大統領府でAP通信のインタビューに応じ「国民に拷問を加えた人たちと誰も交渉を望んではいない」と述べる一方「外交で解決する機会があるのなら逃したくはない」と強調し、ロシア軍による攻撃で市民が巻き込まれる中でも交渉を通じた停戦は模索していく姿勢を示しました。

そのうえでゼレンスキー大統領は「要衝マリウポリや東部地域の戦闘で立場が強くなれば交渉のテーブルが近づき、有利な交渉ができる」と述べ、停戦交渉で弱い立場に置かれないようロシアへの反撃を続けるとして、欧米に対しさらなる軍事支援を求めました。

3月9日、石炭と肥料の生産で巨額の富を築いたアンドレイ・メルニチェンコ氏の名が、欧州連合(EU)による制裁対象者のリストに載った。翌日、同氏のスーパーヨット「モーターヨットA」がモルディブ領海で位置情報の発信を停止した。

その4日後、イタリアでは当局がメルニチェンコ氏の別の船舶を差し押さえた。世界最大の帆走ヨットであり、イタリアの金融監督当局は、5億7800万ドル(約716億円)相当と推定している。

当局が船舶の位置追跡に使っている機器の電源を切れば、監視の目から逃れやすくなる。

だがモルディブでは、制裁対象であるロシア新興財閥(オリガルヒ)の資産に対して何らかのアクションが起こされる可能性は、いずれにせよ低い。モルディブ政府閣僚や外交官、スーパーヨット関連産業の専門家など、ロシア系資産に対する米国と欧州の制裁への対応をめぐる同国内の議論に詳しい10数人へのインタビューから明らかになった。

2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵攻への対応として西側諸国が一部のオリガルヒに対して制裁を科して以来、インドの南西に位置する島しょ国モルディブには、ロシア系のヨットが6隻来航。メルニチェンコ氏のヨットもそのうちの1隻だ。局が制裁に慎重なアプローチをとっているため、ヨットを所有するロシアのオリガルヒにとってモルディブは魅力的な避難先として浮上している。

船舶追跡サイト「マリントラフィック」によれば、6隻のうち3隻は現在位置をはっきりと示さず、申告されていた行き先を変更するか国際水域に入っている。

モルディブフセイン・シャミーム主任検察官はインタビューに対し、同国の法制はそこまで厳格ではなく、ヨットの差し押さえは「現実離れ」している、と話す。国内法のもとで犯罪が生じていない限り、モルディブに来航する船舶を当局が簡単に差し押さえる訳にはいかない、というのが同氏の説明だ。

メルニチェンコ氏の広報担当者は先月のロイターの取材に対し、同氏は制裁に異議を唱えるだろうと語り、同氏のプーチン政権とのつながりはまったくないとも付け加えた。

建造企業が公開した写真を見ると、全長119メートルの「モーターヨットA」はクリスタル製の家具や3つのプールを備えており、ヨット専門誌によれば評価額は3億ドル。メルニチェンコ氏の妻は、内装デザインには自身も関与したと発言している。

メルニチェンコ氏の広報担当者は2017年、BBCへの声明で、この帆走ヨットが同氏の所有であることを認めている。どちらもフランスの有名なデザイナー、フィリップ・スタルク氏のスタイリングによるものだ。

<安全な避難場所>

モルティブの状況は、複数の国が依然として安全な資産逃避先を提供している現状で、西側諸国が対ロシア制裁の対象となったオリガルヒの資産を締め上げことの難しさを浮き彫りにしている。

米国、英国とEUは、ロシアによるウクライナ侵攻を受けてロシアのプーチン大統領や国会議員、ビジネスマンらを対象とする広範な制裁を導入した。ロシア政府は、今回の侵攻をウクライナの「非武装化」と「非ナチ化」を目指す特別軍事作戦と称している。

欧州諸国では別荘や船舶などの資産の差し押さえが実施され、当局は、制裁対象とされた数十人のオリガルヒが所有する船舶を少なくとも6隻差し押さえている。

欧州委員会のピーター・スタノ広報官は、制裁はEU加盟国以外やモルディブなど非同盟諸国に対する拘束力を持つものではないものの、全ての国に制裁への参加を呼びかけていると話す。

モルディブは国連総会のウクライナ侵攻非難決議に賛成し、ロシアの制裁対象者に対する国際的な取り組みを支持すると表明している。

だがモルディブ当局者は、現実には、ロシア富裕層が島に来なくなることによる経済的な影響が心配だと話している。

白砂のビーチと1200近い島々(多くは無人島)を持つモルディブは、超富裕層お気に入りのリゾート地だ。

マグロとココナツ以外にこれといった天然資源のない離島にすぎなかったモルディブは、観光業によってこの30年で中所得国にまで浮上してきた。コロナ禍以前の国民1人あたりGDPは1万ドルを超えており、南アジアでは最も高い。

56億ドルのGDPのうち、約3分の1は観光業によるものだ。モルディブ観光省のデータによれば、ロシア人観光客の支出は平均より高く、ウクライナ侵攻前の最後の月となった1月の入域者数ではロシア人が断トツの首位だった。

アブドゥラ・マウスーム観光相によれば、その後、ロシアからの入域者は70%減少した。同観光相は、回復を願っているという。

「我が国の入国政策は非常に開放的だ。モルディブはオープンな国だ」とマウスーム観光相は言う。

<「誰にも手は出せない」>

アブドゥル・ハナン氏は、ロシア人顧客を含む船舶オーナーに燃料や食料を供給する「シール・スーパーヨット・モルディブ」の経営者だ。

ハナン氏によれば、ヨットの維持費は週に何十万ドルもかかるのが普通で、顧客の約半分はロシア人だという。他のスーパーヨットのオーナーと同様、ロシア人顧客も冬をインド洋で、夏を欧州で過ごすことが多い、と同氏は言う。

ハナン氏は、制裁が発表されて以降、スーパーヨットで航海中のロシア人オーナー数人に会ったと言う。彼らは困難な時期を味わっている「控えめで普通の人々」だとしつつ、このオーナーたちが制裁対象者かどうかについては触れなかった。

ロシア人オーナーたちは、当面ヨットを国際水域に留めておこうとしており、数カ月単位でそうした水域に留まることは可能だとハナン氏は話す。

「そうすれば、誰も彼らのヨットに手を出せない」

モルディブ領海内の船舶の航行を監視しているモルディブ税関の広報担当者に現在領海内にいるロシア人オーナーのヨットの数について問い合わせたが、回答は得られなかった。

<中国との綱引きも>

モルディブの国際金融取引に詳しい当局者は、米国財務省から「ロシア関連資産の差し押さえを怠れば米国の金融市場へのアクセスに影響が出る」という警告があれば、モルディブ側としては無視することは難しいとしつつ、今のところそうしたメッセージは送られていないと語る。

米国でオリガルヒの資産凍結を担当するタスクフォースを率いるアンドリュー・アダムズ氏に、モルディブなどの資産逃避先について尋ねたところ、たとえオリガルヒが秘密を保持できそうな国にヨットや自家用機、その他の資産を隠そうと試みるとしても、米国政府は「過去に類を見ないほどの」協力を得ている、との回答があった。

だが、西側諸国の外交官2人は「政治的に不安定で財政面でも制約のあるモルディブに対し、制裁に関して難しい選択を迫れば、中国への接近という結果につながる可能性もある」と指摘する。モルディブの前政権は中国政府との関係を強化したが、このところは西側諸国及びインドとの関係が改善しつつある。

外交官のうち1人は、モルディブが対ロ制裁に関して妥協しなかった場合、「(同国にとって)経済的なリスクが伴うことを我々は認識している」と述べた。

#NATOexpansion

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#反ロシア#対中露戦

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来週から始まる新朝ドラ『ちむどんどん』のガイド本(NHK出版)を買う。

レバニラ炒め定食

タルトシトロン(レモンパイ)とコーヒー

夕食はかます、ホワイトアスパラのベーコン巻、糸こんにゃくと人参と明太子和え、白菜の漬物、味噌汁、ごはん。

「まやんち」で買ったヴィクトリアサンドウィッチケーキと牛乳。

#サード・プレイス

#食事#おやつ

プロ野球・ロッテの佐々木朗希投手が10日、千葉市で行われたオリックス戦で28年ぶり16人目となる完全試合を達成しました。
また、この試合で佐々木投手は13者連続で三振を奪い、プロ野球記録を64年ぶりに更新しました。

佐々木投手は10日、千葉市ZOZOマリンスタジアムで行われたオリックス戦に先発しました。

10日は、自己最速に並ぶ164キロをマークするなど160キロ台のストレートと落差のあるフォークボールがさえ、1回2アウトとしたあと、3番・吉田正尚選手から空振り三振を奪うと、5回の3アウトまで13者連続で三振を奪いました。
終盤も160キロ台をマークするなど球威が衰えなかった佐々木投手は9回2アウトまでランナーを1人も許さず、最後は代打の杉本裕太郎選手からこの試合、19個目となる三振を奪って完全試合を達成しました。

1人のランナーも出さない完全試合は、平成6年に巨人の槙原寛己投手が達成して以来、28年ぶり16人目です。

また、この試合で佐々木投手は13者連続の奪三振で64年ぶりにプロ野球記録を更新したほか、1試合19個の奪三振では27年ぶりにプロ野球記録に並び、記録ずくめの完全試合となりました。

これまでの連続奪三振プロ野球記録は、昭和32年7月に当時阪急の梶本隆夫投手、また、昭和33年5月に当時東映土橋正幸投手がマークした9連続奪三振でした。

佐々木朗希投手は、試合後のインタビューで記録ずくめのピッチングになったことについて「最高です」と満足そうな顔で話しました。

また、完全試合を意識していたかについて問われ「正直あまり意識していなく、打たれてもいいかなと思いながらキャッチャーの松川を信じて投げた」と話しました。

また、13者連続で三振を奪いプロ野球記録を更新したことについて「キャッチャーの松川がいいリードしてくれてその要求に応えて投げられた。ストライク先攻で早いカウントで勝負できたことがよかった」と振り返っていました。

そして「次回もいいピッチングができるように引き続き頑張ります」と笑顔で話しました。

佐々木朗希投手は岩手県出身の20歳。

大船渡高校時代に163キロをマークし「令和の怪物」と呼ばれて注目を集め、おととしドラフト1位でロッテに入団しました。

1年目は実戦には登板させずにじっくりと育成し、去年は11試合に登板して3勝をマーク。

ことしはオープン戦から163キロをマークするなど順調に調整を続けて初の開幕ローテーション入りを果たしました。

今シーズン初先発となった先月27日の楽天戦は自己最速の164キロをマークし10個の三振を奪いましたが勝ち負けはつかず、今月3日に本拠地で行われた西武戦で13個の三振を奪って今シーズン初勝利を挙げました。

去年より体重が5キロ増えたという佐々木投手は今シーズン、1試合で何度も球速が160キロ台をマーク。

そのストレートと落差の大きいフォークボールで三振を奪うケースが多く見られます。

ロッテの井口資仁監督は、完全試合を達成した佐々木朗希投手について「きょうの試合は朗希に尽きる。いずれ完全試合をやるだろうなと思っていたが、こんな早い段階でこういう試合をするとは思わなかった」と笑顔で話していました。

また、ピッチング内容について「きょうはファウルを取らせながらカウントを稼いで決め球でしとめる、佐々木らしいピッチングが1回から9回まで徹底できていた。キャッチャーの松川もいいリードをしてくれてた」と振り返っていました。

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この戦いに大勝した源義仲は京へ向けて進撃を開始し、同年7月に遂に念願の上洛を果たす。大軍を失った平家はもはや防戦のしようがなく、安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びた。

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高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。

文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げた(承久の乱)が朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。

寿永2年(1183年)7月25日、木曾義仲の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れた。これに従わなかった後白河法皇と公卿の間では平家追討を行うべきか、それとも平和的な交渉によって天皇と神鏡剣璽を帰還させるかで意見が分かれた。この過程で義仲や源頼朝への恩賞問題や政務の停滞を解消するために安徳天皇に代わる「新主践祚」問題が浮上していた。8月に入ると、後白河法皇は神器無き新帝践祚安徳天皇に期待を賭けるかを卜占に託した。結果は後者であったが、既に平氏討伐のために新主践祚の意思を固めていた法皇は再度占わせて「吉凶半分」の結果をようやく得たという。法皇九条兼実にこの答えをもって勅問した。兼実はこうした決断の下せない法皇の姿勢に不満を示したが、天子の位は一日たりとも欠くことができないとする立場から「新主践祚」に賛同し、継体天皇は即位以前に既に天皇と称し、その後剣璽を受けたとする先例がある(「継体天皇先例説」、ただし『日本書紀』にはこうした記述はなく、兼実の誤認と考えられている)と勅答している(『玉葉』寿永2年8月6日条)。10日には法皇が改めて左右内大臣らに意見を求め、更に博士たちに勘文を求めた。そのうちの藤原俊経が出した勘文が『伊呂波字類抄』「璽」の項に用例として残されており、「神若為レ神其宝蓋帰(神器は神なので(正当な持主のもとに)必ず帰る)」と述べて、神器なき新帝践祚を肯定する内容となっている。新帝の候補者として義仲は北陸宮を推挙したが、後白河法皇安徳天皇の異母弟である4歳の尊成親王を即位させることに決めた。この即位については丹後局の進言があったという。8月20日後鳥羽天皇太上天皇後白河法皇)の院宣を受ける形で践祚し、その儀式は剣璽関係を除けば譲位の例に倣って実施された。即位式も元暦元年(1184年)7月28日に、同様に神器のないままに実施された。

安徳天皇が退位しないまま後鳥羽天皇が即位したため寿永2年(1183年)から平家滅亡の文治元年(1185年)まで在位期間が2年間重複している。壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した際、神器のうち宝剣だけは海中に沈んだままついに回収されることがなかった。文治3年(1187年)9月27日、佐伯景弘の宝剣探索失敗の報告を受けて捜索は事実上断念された。以後も建久元年(1190年)1月3日に行われた天皇元服の儀なども神器が揃わないまま行われた。承元4年(1210年)の順徳天皇践祚に際して、すでに上皇になっていた後鳥羽天皇は奇しくも三種の神器が京都から持ち出される前月に伊勢神宮から後白河法皇に献上された剣を宝剣とみなすこととした。だが、後鳥羽天皇はその2年後の建暦2年(1212年)になって検非違使であった藤原秀能を西国に派遣して宝剣探索にあたらせている。

伝統が重視される宮廷社会において、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、このことは一種の「コンプレックス」であり続けた。また、後鳥羽天皇の治世を批判する際に神器が揃っていないことと天皇の不徳が結び付けられる場合があった。後鳥羽天皇は、一連の「コンプレックス」を克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある。

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平氏後白河法皇も伴うつもりであったが、危機を察した法皇比叡山に登って身を隠し、都落ちをやりすごした。

30日に開かれた公卿議定において、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、それぞれに位階と任国が与えられることになった。

後白河法皇天皇・神器の返還を平氏に求めたが、交渉は不調に終わった。やむを得ず、都に残っている高倉上皇の二人の皇子、三之宮(惟明親王)か四之宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)のいずれかを擁立することに決める。ところがこの際に義仲は今度の大功は自らが推戴してきた北陸宮の力であり、また平氏の悪政がなければ以仁王が即位していたはずなので以仁王の系統こそが正統な皇統として、北陸宮を即位させるよう比叡山の俊堯を介して朝廷に申し立てた。

しかし天皇の皇子が二人もいるのに、それを無視して王の子にすぎない北陸宮を即位させるという皇統を無視した提案を朝廷側が受け入れるはずもなかった。摂政・九条兼実が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」と言うように、武士などの「皇族・貴族にあらざる人」が皇位継承問題に介入してくること自体が、皇族・貴族にとって不快であった。朝廷では義仲を制するための御占が数度行なわれた末、8月20日に四之宮が践祚した。兄であるはずの三之宮が退けられたのは、法皇の寵妃・丹後局の夢想が大きく作用したという。

いずれにしても北陸宮推挙の一件は、伝統や格式を重んじる法皇や公卿達から、宮中の政治・文化・歴史への知識や教養がない「粗野な人物」として疎まれる契機となるに十分だった。山村に育った義仲は、半ば貴族化した平氏一門や幼少期を京都で過ごした頼朝とは違い、そうした世界に触れる機会が存在しなかったのである。

また義仲は京都の治安回復にも期日を要した。養和の飢饉で食糧事情が極端に悪化していた京都に、遠征で疲れ切った武士達の大軍が居座ったために、遠征軍による都や周辺での略奪行為が横行する。

京中守護軍は義仲の部下ではなく、行家や安田義定近江源氏美濃源氏摂津源氏などの混成軍であり、義仲が全体の統制が出来る状態になかった。

後白河法皇は19日に義仲を呼び出し、「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」と責めた。立場の悪化を自覚した義仲はすぐに平氏追討に向かうことを奏上し、法皇は自ら剣を与え出陣させた。義仲は、失った信用の回復や兵糧の確保のために、戦果を挙げなければならなかった。義仲は腹心の樋口兼光を京都に残して播磨国へ下向した。

義仲の出陣と入れ替わるように、朝廷に頼朝の申状が届く。内容は「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」と言うもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」と朝廷を大いに喜ばせるものであった。10月9日、法皇は頼朝を本位に復して赦免、14日には寿永二年十月宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える。

義仲は、西国で苦戦を続けていた。閏10月1日の水島の戦いでは平氏軍に惨敗し、有力武将の矢田義清海野幸広を失う。戦線が膠着状態となる中で義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという情報だった。驚いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、15日に少数の軍勢で帰京する。20日、義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河院に激烈な抗議をした。義仲は、頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給、志田義広平氏追討使への起用を要求する。

義仲の敵はすでに平氏ではなく頼朝に変わっていた。19日の源氏一族の会合では法皇を奉じて関東に出陣するという案を出し、26日には興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下された。しかし、前者は行家、土岐光長の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しなかった。義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も公然のものだった。

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寿永2年(1183年)、挙兵した父・義仲は以仁王の遺児・北陸宮を奉じて信濃国を中心に勢力を広げ、同じ源氏の源頼朝とは独立した勢いを見せた。また頼朝と対立していた叔父の志田義広と新宮行家を庇護したことにより、3月には頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。義仲が11歳の嫡子義高を人質として鎌倉へ差し出すことで、両者の和議が成立した。

義高は信濃の名族の子弟である海野幸氏や望月重隆らを伴い、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った(なお、義高と大姫は又従兄妹にあたる)。同年7月、義仲は平氏を破って入京する。しかし義仲は京を治めることに失敗し、後白河法皇とも対立する。頼朝は都に源範頼源義経を代官とした義仲追討軍を派遣し、寿永3年(1184年)1月、義仲は宇治川の戦いで追討軍に敗れ、粟津の戦いで討たれた。

父・義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化する。4月21日(6月1日)、頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がそうとする。義高と同年の側近で、いつも双六の相手をしていた幸氏が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだし、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出する。しかし夜になって事が露見し、激怒した頼朝は幸氏を捕らえ、堀親家ら軍兵を派遣して義高を討ち取るよう命じた。義高は4月26日(6月6日)に武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で親家の郎党・藤内光澄に討たれた。享年12。5月1日(6月10日)に義高の残党が甲斐と信濃に隠れ、謀反を企てているとして信濃国に大規模な軍兵の派遣が行われた。

義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまう。母の政子は義高を討ったために大姫が病になってしまったと怒り、義高を討った郎従の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、6月27日(8月5日)、光澄は晒し首にされた。

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寿永2年(1183年)7月、木曾義仲平氏都落ちに追い込み入京する。後白河法皇平氏追討の功績について、第一を頼朝、第二を義仲とするなど義仲を低く評価し、頼朝の上洛に期待をかけていた。8月14日、義仲は後継天皇に自らが擁立した北陸宮を据えることを主張して、後白河院の怒りを買う。そして後白河院が義仲の頭越しに寿永二年十月宣旨を頼朝に下したことで、両者の対立は決定的となった。頼朝は閏10月5日に鎌倉を出立するが、平頼盛から京都の深刻な食糧不足を聞くと自身の上洛を中止して、義経中原親能を代官として都へ送った。

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義経と親能は11月に近江国に達したが、その軍勢は500 - 600騎に過ぎず入京は困難だった。そのような中で法住寺合戦が勃発し、義仲は後白河院を幽閉する。京都の情勢は後白河院の下、北面武士大江公朝らによって、伊勢国に移動していた義経・親能に伝えられた。義経は飛脚を出して頼朝に事態の急変を報告し、自らは伊勢国人や和泉守・平信兼と連携して兵力の増強を図った。義経の郎党である伊勢義盛も、出自は伊勢の在地武士でこの時に義経に従ったと推測される。翌寿永3年(1184年)、範頼が東国から援軍を率いて義経と合流し、正月20日範頼軍は近江瀬田から、義経軍は山城田原から総攻撃を開始する。義経宇治川の戦い志田義広の軍勢を破って入京し、敗走した義仲は粟津の戦いで討ち取られた。

この間に平氏は西国で勢力を回復し、福原(兵庫県神戸市)まで迫っていた。義経は、範頼とともに平氏追討を命ぜられ、2月4日、義経は搦手軍を率いて播磨国へ迂回し、三草山の戦いで夜襲によって平資盛らを撃破し、範頼は大手軍を率いて出征した。2月7日、一ノ谷の戦い義経は精兵70騎を率いて、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平氏本陣を奇襲する。平氏軍は大混乱に陥り、鎌倉軍の大勝となった。上洛の際、名前も知られていなかった義経は、義仲追討・一ノ谷の戦いの活躍によって歴史上の表舞台に登場することとなる。

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