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『随処に主となる』
P7

お釈迦さまはガンジス川の一支流にある菩提樹の木の下でお悟りを開くんですが、そのときにかつての五人の仲間がいたんですね。彼らは鹿野苑といって、二百五十キロ離れたところにいたんですが、説法の対象として、その五人の仲間の所へ歩いて行くんです。その時に仲間は快く迎えないんですね。・・・しかし、実際、来るとね、そのお釈迦さまの品格に打たれて、結局、正しい作法で迎えるんです。・・・しかし、そうして迎えてもお釈迦さまの話を聞く気にはならない。その時にね、お釈迦さまが、「それならば、君たちは君たちと一緒にいたときの自分の顔が、こんなに輝いていたことを見たことはあるか」と、こう聞くんですよ。この輝きを見ろ、と。それで初めて五人のかつての修行仲間が納得して、お釈迦さまの話を聞き始めたという逸話が残っているんですね。それを初転法輪というんです。・・・過去の命はない、明日は来てみないとわからない。「ここ」が充実しない限り、一生、充実しないんですよ。「ここ」を中途半端に生きると一生が中途半端なんです。「ここ」でグチや泣き言をいってると、一生、グチや泣き言の連続。「いま」「ここ」「自分」が輝いていれば、一生、輝いている。