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第2回 翻訳だけで分かるようには訳されていない

 いきなり身も蓋もない話をしよう。じつのところ、八百屋に行けば魚が買えると思ってはいけないように、古典の翻訳を読めば意味が分かると思ってはいけない。最近は違ってきたが、以前にはそういう場合が多かった。古典を学びたいのであれば、原書を読みなさいというのが常識だったのだ。では、翻訳書は何のためにあるのか。原書を読むのは簡単ではないので、参考にするためだ。かたわらに翻訳書を置いて原書を読む。これでも意味を理解するのは容易ではないので、もうひとつ、解説書もかたわらに置いておく。原書と翻訳書と解説書の3点セットで学ぶのが正しい方法だったのである。

原文のnationをさまざまに訳し分けていては、原文のこの部分にnationがあることが分からなくなる。だから、文脈がどうであれ、原文のひとつの語はひとつの訳語で訳していく。そう考えられているのである。

第3回 無理を承知の訳し方

 一番後から前に前にと訳していく。これが学校英語で教えられる「正しい」訳し方である。こう訳せば、満点がとれる。

 誰がなぜ、こんな訳し方を考えたのだと思う。世界中のどの言語でも、文章を読むとき、話を聞くとき、頭から順番に理解していくに決まっている。誰でも、頭から順番に理解されるように書いたり話したりするに決まっている。そのように書かれた文章を後から前に理解しようとするのは、逆立ちして100メートルを歩けというようなものだ。それができる人もいるだろうが、たいていの人にはできない。後から前に訳された文章を読んでも意味が理解できないのは、当たり前のことなのである。まったく無茶な訳し方ではないだろうか。

英語では修飾する部分が長い場合には後置修飾が原則だが、日本語では前置修飾を使うのである。

 後置修飾がたくさん使われる外国語の文章を、日本語でどう訳せばいいのか。そう考えて作られたのが、後から前に訳す方法なのだ。明治の人たちは無理を承知のうえで、こう訳す方法を考えた。漢文読み下しという独創的な方法で中国語を学んできた知恵を活かした解決策である。感嘆するしかない。

 だがそのために、読んでも意味の分からない翻訳が生まれている。