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西郷隆盛 遺訓

廟堂に立ちて大政を爲すは天道を行ふものなれば、些とも私を挾みては濟まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を蹈み、廣く賢人を選擧し、能く其職に任ふる人を擧げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れゆゑ眞に賢人と認る以上は、直に我が職を讓る程ならでは叶はぬものぞ。故に何程國家に勳勞有る共、其職に任へぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一也。

昨日出でし命令の、今日忽ち引き易ふると云樣なるも、皆統轄する所一ならずして、施政の方針一定せざるの致す所也。

正道を踏み國を以て斃るゝの精神無くば、外國交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮し、圓滑を主として、曲げて彼の意に順從する時は、輕侮を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受るに至らん。

談國事に及びし時、慨然として申されけるは、國の凌辱せらるゝに當りては、縱令國を以て斃るゝ共、正道を踐み、義を盡すは政府の本務也。然るに平日金穀理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれ共、血の出る事に臨めば、頭を一處に集め、唯目前の苟安を謀るのみ、戰の一字を恐れ、政府の本務を墜しなば、商法支配所と申すものにて更に政府には非ざる也。

何程制度方法を論ずる共、其人に非ざれば行はれ難し。人有て後方法の行はるゝものなれば、人は第一の寶にして、己れ其人に成るの心懸け肝要なり。

道を行ふ者は、固より困厄に逢ふものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生抔に、少しも關係せぬもの也。事には上手下手有り、物には出來る人出來ざる人有るより、自然心を動す人も有れ共、人は道を行ふものゆゑ、道を蹈むには上手下手も無く、出來ざる人も無し。故に只管ら道を行ひ道を樂み、若し艱難に逢うて之を凌んとならば、彌々道を行ひ道を樂む可し。予壯年より艱難と云ふ艱難に罹りしゆゑ、今はどんな事に出會ふ共、動搖は致すまじ、夫れだけは仕合せなり。

道を行ふ者は、天下擧て毀るも足らざるとせず、天下擧て譽るも足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故也。

平日道を蹈まざる人は、事に臨て狼狽し、處分の出來ぬもの也。譬へば近隣に出火有らんに、平生處分有る者は動搖せずして、取仕末も能く出來るなり。平日處分無き者は、唯狼狽して、中々取仕末どころには之無きぞ。夫れも同じにて、平生道を蹈み居る者に非れば、事に臨みて策は出來ぬもの也。予先年出陣の日、兵士に向ひ、我が備への整不整を、唯味方の目を以て見ず、敵の心に成りて一つ衝て見よ、夫れは第一の備ぞと申せしとぞ。

人を籠絡して陰に事を謀る者は、好し其事を成し得る共、慧眼より之を見れば、醜状著るしきぞ。人に推すに公平至誠を以てせよ。公平ならざれば英雄の心は決して攬)られぬもの也。

朱子も白刃を見て逃る者はどうもならぬと云はれたり。誠意を以て聖賢の書を讀み、其の處分せられたる心を身に體し心に驗する修行致さず、唯个樣の言个樣の事と云ふのみを知りたるとも、何の詮無きもの也。予今日人の論を聞くに、何程尤もに論する共、處分に心行き渡らず、唯口舌の上のみならば、少しも感ずる心之れ無し。眞に其の處分有る人を見れば、實に感じ入る也。聖賢の書を空く讀むのみならば、譬へば人の劒術を傍觀するも同じにて、少しも自分に得心出來ず。自分に得心出來ずば、萬一立ち合へと申されし時逃るより外有る間敷也。

今の人、才識有れば事業は心次第に成さるゝものと思へ共、才に任せて爲す事は、危くして見て居られぬものぞ。