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【話の肖像画】歌舞伎俳優・坂田藤十郎(81)[2]芸を教える方が叱られて

 子供の頃は、実は歌舞伎にあまり興味がありませんでした。子役の頃から三世中村梅玉(ばいぎょく)さん、二世實川延若(じつかわ・えんじゃく)さんといった名優の方々の舞台に出演していましたが、戦争中でもありましたので、それほど機会は多くなかった。遊びといえば戦争ごっこという時代でした。


 〈祖父は、“頬かむりの中に日本一の顔”とうたわれた上方歌舞伎の大スター、初代中村鴈治郎、父も名優で人間国宝の二代目中村鴈治郎上方歌舞伎の家に生まれた藤十郎さんだが、意外にも歌舞伎への目覚めは遅かった〉


 いま、孫の壱太郎(かずたろう)や虎之介を見ていると、子供の頃から歌舞伎大好きなんですよ。こっちが何も言わないのに、自分で勉強したり、踊りや鳴物(なりもの)のお稽古をしたりしていて、びっくりしているぐらいです。私が、歌舞伎にのめり込むようになったのは18歳のとき。ある方と出会ったことがきっかけでした。武智鉄二先生です。

 人生で一番大事な出会いの一つじゃないでしょうかねえ。もともとは私が若い頃、上手(うま)くなかったことが原因でした。戦後、関西の歌舞伎が低迷し始め、危機を感じた先生が松竹に働きかけて、関西の若手俳優を集め、「関西実験劇場『歌舞伎再検討』」、いわゆる「武智歌舞伎」を始めました。

 ところが、私は子供のころからあまり舞台に出ていなかったので、せりふが満足に言えません。「扇雀(当時の芸名)にせりふを言わしたらあかん」と言われていたほどでした。武智先生は私を鍛えるため、当代の超一流の先生方にマンツーマンで教えていただけるようにしてくださったのです。私の演技や考え方の基盤は、ほとんどすべてこの時に学んだことでした。


 もうひとつ、先生に学んだのは物事に向かう姿勢ですね。あるとき、「摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」の玉手御前を、文楽の八世竹本綱大夫師匠に教えていただくことになりました。ひと通り稽古が終わって、「お疲れ様でした」と綱大夫師匠がおっしゃると、武智先生が隣から、「綱さん、扇雀の玉手御前はいかがでございますかな」と言うんです。綱大夫師匠が「まあまあ、でございますな」と言うと、「あなた、まあまあという教え方は何ですか? ちょっとでもいいというところまで教えなさい」と。


 そのとき、芸というものは、徹底してやらないといけないものだということを学びました。だって普通、教えられる方が叱られて当然なのに、教える方が叱られているんですからねえ。忘れられない光景です。