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近代科学と聖俗革命〈新版〉

近代科学の父たちと私たちの距離は、もしかすると中世のスコラ哲学者とガリ レオやニュートンらとの距離よりも大きいかもしれません。中世と近代との境 界を画した「科学革命」を強調するあまり、私たちは、近代を二分する大きな 断層――真理の聖俗革命――の意味をまだあまり知りません。啓蒙期科学思想 を母とする科学的人間観・生命観に現代科学の危機の根源を透視した本書は、 科学史を現代の視点から目的論的に視るのではなく「逆遠近法」的に視ること を提唱してきた著者の思想的出発点となる著作。

聖俗革命の超克: lifestream community

村上氏によると、近代科学は当初、神が創造した自然の秩序を発見するという目的を持っていたが、その後、その知識体系から創造主なる神を追い出し、神抜きですべてを説明しようとする立場に変化したとのこと。この変化を、同氏は「聖俗革命」と呼んでいます。

啓蒙主義と聖俗革命は、その後、倫理観が崩壊し、人間の尊厳が否定され、人生の意味を喪失した現代社会を形成するに至ります。

#2069 廣松渉の「科学の危機と認識論」を読む | ニューロンとワイヤの狭間から

人間の認識では必ず一定のパースペクティヴが構図を画するし、精密測定といっても誤差を免れない。現実にはそうなんだが、こういう現実体から“主観的”な混入物や偏差を除去していけるという了解の上に立って、そこに抽離される純粋な対象的事実、これが客観的実在性だということになるのだろうね。


比喩的にいえば、それは神様の目に映ずるがままの世界とでもいった了解の構えになってはいないだろうか? つまり、客観的実在の世界とは、いうなれば“神様の目に映ずるがままの世界”というわけだ。

神的な視座ともいうべき、近代科学が暗黙の視座として立てているところのものは、じっさいには私念された共同主観的な視座にほかならないというわけだな?

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20111117#1321527594


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