無意識の色眼鏡「バイアス」にご用心 (おおたとしまさ) https://t.co/u7XvbzuRFj
— BLOGOS編集部 (@ld_blogos) October 24, 2019
[ライフ] #グレタ・トゥーンベリ #blogos
ひとは誰でも、まったく悪気なく、まったくの無意識で、偏ったものの見方してしまっていることがある。これを「バイアス」と呼ぶ。ピンクの色眼鏡でピンクの壁を見ると、その壁がピンクであることに気付けないのと同じように、社会全体に当たり前のように偏見が存在していると、客観的な評価自体がその偏見を前提にしてしまっていることがあるのだ。
たとえばいつも怒りっぽいひとが少々荒っぽい言葉遣いをしても誰も気にしない。しかしいつもは穏やかな口調のひとが同様に少々荒っぽい言葉遣いをすると、まわりをびっくりさせてしまう。「前提」が違うからである。これと同じ理屈で、部下へのフィードバックとして同じ言葉を同じように言っても、男性上司に言われるよりも女性上司に言われるほうが「きつい言い方」と受け取られることが多いという研究結果がある。これも意図しない悪気もない無意識の差別といえる。
記憶に新しいところでは、16歳のグレタ・トゥーンベリさんという少女が国連で温暖化防止を訴えたスピーチへの批判がある。彼女の主張内容そのものへの批判や彼女の活動に対する批判があるのは一向にかまわないと思うし、私自身、彼女が望むような地球に優しい大人ではないと自覚している。でも、気になったのは、内容ではなく、彼女のしゃべり方への批判が多かったことだ。感情的すぎる、攻撃的な言葉は分断を生む、など。
「世界を変えたいのならもっと伝わる話し方を考えなければ」という説教もあったが、そもそも彼女は自らの力で世界を変えようとしているわけではない。「呼ばれたから来たけど、世界を変えるのは私ではなくあなたたちです。だからもっとしっかりしてよ」と世界のリーダーたちに直接自分の思いを訴えかけたにすぎない。彼女はジャンヌ・ダルクではないのだ。なのに一部のひとが、彼女を勝手に現代のジャンヌ・ダルクに仕立て上げ、そして批判した。
これももしかしたらバイアスのせいかもしれない。まったく同じことを同じように話したとしても、あれがたとえばオバマ前大統領だったら熱弁として前向きに受け入れられただろう。ラグビーでもやっていそうな16歳の男の子だったら「頼もしい」と賞賛されたかもしれない。ミヒャエル・エンデの物語に出てきそうな三つ編みの少女が強い言葉を使ったから、多くのひとが勝手にびっくりしただけなのだとしたら、それはバイアスのせいである。
日本アニメの今後を考えるためにはもう一度日本の近現代史を徹底的に洗い出す必要があるのかも知れない。
さきに、日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。
ここに「即位礼正殿の儀」を行い、即位を内外に宣明いたします。
上皇陛下が三十年以上にわたる御在位の間、常に国民の幸せと世界の平和を願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その御心を御自身のお姿でお示しになってきたことに、改めて深く思いを致し、ここに、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。
国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。
「京都アニメーションに火をつけた容疑者を生み出したのは、ネットメディアがアクセスアップのために生み出した、「正義」と「悪」という二元論を良しとする考え方ではないかと疑っている。」
タリバンもテロなどの暴力に訴えるのではなく、選挙などを通じて政治的な主張をすべきだ
ことしのノーベル平和賞では、紛争が絶えないアフリカで、アフリカの政治家がみずから、対話によって平和を構築した功績が高く評価されました。
彼女と、彼女を持ち上げる大人たちへの違和感はどうにも拭えないのだ。
“アスペルガーである私にとって、ほとんどすべてのことは白か黒か”と語る彼女は、温暖化問題も白か黒かの問題だという。
d1021.hatenadiary.jp
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彼らは常に自分以外のすべてに文句を垂れるばかりで、あらゆる責任を逃れながら、あらゆる権利を手にしようとする動きのみに長けています。
【国連で怒りの主張した16歳に疑問】
"科学者の声を聞き、科学に基づいて団結し行動してほしい」というが、科学は絶対ではないのだ。まず、そこを勘違いしている。科学は多数決でもない。多数派の主張が正しいとは限らない。"
「悪」という、本当はそんなものはない方がいいように思われるものの存在によって、むしろ「神」の存在がよりはっきりと浮かび上がってくるというところに、キリスト教の興味深いところがある。悪の問題は、キリスト教の教えの全体を理解するための最大の手がかりの一つなのだ。
ドイツ人「日本人に聞きたいことがあります。韓国要らない→ヘイト 日本〇ね→流行語大賞 どういう理屈なの?」~ネットの反応「いやいや、逆に教えてくれw」「日本国民みんなの疑問」「その辺仕切ってるのはマスコミだから… あとはわかるね?」
【A】韓国の政治的水準が非常に高いように話す人もいますが、韓国はまだ民主主義の経験が乏しい。本来、政治とは、利害関係の違う他の勢力と意見を調整して統合させるものです。今の韓国には、その能力がないため、ひたすら相手が“悪魔”であるかのように追い込んでいくことしか出来ません。それは、外交において日本を悪魔のように扱ってきたのと同じロジックです。ですから政権が代わる度に、前の政権に報復せざるを得ず、元大統領は悲惨な最期を迎えることになるのだと思います。
韓国の政治家は、対話と妥協が苦手で、互いを誹謗することが政治の中心になっている。さらに、固い支持基盤もないので、相手をどれだけ攻撃するかで支持率が乱高下する。民主主義が韓国において成長しないのは、そのあたりに限界があるからです。
【A】私は、以前まで韓国社会を覆う「反日」主義を「反日民族主義」と呼んでいました。しかし、今では近代的な性格を持つ「民族主義」ではなく、前近代的な「種族主義」だと位置づけました。
前近代的というのには、3つの理由があります。
1つ目は「観念的な性格」です。いまの韓国社会は、客観的な現実に基づかず、思い込みのレベルで「日本は絶対悪」という一つの総体を作っています。つまり、日本政府や個人、または日本社会が倫理的もしくは政治的に悪い点があるという具体的な話ではなく、観念的に「ただ一つの絶対悪」として日本が存在している。一方で韓国は「絶対善」です。絶対善の韓国は、絶対悪の日本に何をしても良くて、いつまでもその問題を提起して良いと思っているのです。
2つ目の理由は「非科学的な性格」。いまの韓国社会が客観的な事実でないことを主張し、受け入れていることです。例えば、韓国の慰安婦問題の支援者らが言うような、20万人の少女を連行して慰安婦としたというような一連の主張です。合理的、理性的な思考ができず、極めて感情的になっています。
3つ目は「歪んで偏った現実認識」です。韓国社会は、日本については“下”と考える一方、中国や米国に対しては迎合する。その極めて事大主義的な態度によって、国としてバランス感覚を喪失している点です。
これら前近代的な考え方のもとに、実体のない「悪魔としての日本」がイメージとして膨れ上がっている。そのイメージが、反日政策を進める原動力になっています。
世界には「悪」が充ち満ちているのだから「神」など存在するはずはない、と考える人が多い。だが実は逆に「悪」が存在しなければキリスト教は成り立たないと言えるほどまでに、悪の問題とキリスト教の成立は、切っても切れない深い関係がある。トマス的に言えば、「悪が存在するのなら、神は存在する」
「賢いやつは悪者を利用して自分が正義になる」
これ新海さんのこと言ってるの?
その「犯人は100%悪!それを糾弾している俺100%善!」という、あまりに独善的な考え方は、まるで犯人の心性と表裏一体だと思うよ。
ネトウヨ批判を存在証明とする「知識人」たち (篠田 英朗)
争いのある事柄について、個別具体的に論証することなく、善悪二元論に立って、一般論を振りかざし、白を黒く塗りつぶして、「平和の少女像」を「象徴に」することによって、丸太で主張を押し通そうとするから。
玉川氏は日本政府の措置に賛成する者は「ネトウヨ」だとレッテル貼りをしていたが、そんな感情的な批判が許されるなら、わしは玉川を「極左」と言うしかない。
言っておくが「話し合い」の結果として「条約」を結ぶのである。
キリストが汝己のごとく汝の隣人を愛せよといってからすでに一九〇〇年余になる。いったい今後なおどれだけ多くの歳月を経たならば、人々はこの言葉こそ確かな助言だったと考え始めるであろうか。
つまらない人間も「世界のため、人類のため」などと言います。あれは寝言と変わらない。寝言よりももっと悪い。なにも内容がない。自分自身のためにも、親兄弟のためにも、ろくなことができない人間が、どうして世界のために、人類のために、なんて大口きけるか。
おのおのがそれぞれ一燈となって、一隅を照らすこと。この「一隅を照らす」は、伝教大師がその著『山家学生式(さんげがくしょうしき)』のなかに、提唱しておることです。
なんで片隅を照らすなどと、心細いことを言われたのかーーとよく考える人がある。大光明を放つとでも言ってもらいたいところです。しかし聞くだけなら愉快だが、人間みずから大光明を放つことなど、どうしてなかなか出来るものではない。
つまらない人間も「世界のため、人類のため」などと言います。あれは寝言と変わらない。寝言よりももっと悪い。なにも内容がない。自分自身のためにも、親兄弟のためにも、ろくなことができない人間が、どうして世界のために、人類のために、なんて大口きけるか。
それよりも、自分か居るその場を照らす。これは絶対に必要なことで、また出来ることだ。真実なことだ。片隅を照らす! この一燈が萬燈になると「萬燈遍照」になる。こういう同志が十万、百万となれば、優に日本の環境も変わりましょう。
≪本日発売!≫日経サイエンス2019年12月号
— 日経サイエンス (@NikkeiScience) October 25, 2019
【大特集:真実と嘘と不確実性】
・第1部:真実を問い直す
「物理学におけるリアリティー」
「数学は発明か発見か」
「脳が「現実」を作り出す」https://t.co/4Ebp7rS4yM pic.twitter.com/clFYqap0dG
科学は真偽を決める客観的な物差しだと考えられている。だが実のところ,客観的な「真実」とは何かを決めるのは,科学にとっても難しい。物理学では実在とは何かを問う議論が決着せず,数学の扱う対象が人間と無関係に存在するのかどうかも判然としない。我々が知覚する世界は物理世界とは違うし,我々が感じる危機感は実際の確率とは乖離している。不確実性に満ちた世界の中で我々は「真実」をどう捉えているのか,科学を通して考える。