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『純粋理性批判(一) 講談社学術文庫 [Kindle版]』
P3

 私は、明治の末年に哲学を学び始めたころから、哲人カントの人格に親しみを感じ、日常生活においてまでカントをまねて、夜は十時に床に就き、朝は午前五時に起床することを実行してきた。どんなに寒くても、五時に起床して勉強することを固く守ったものである。

天野貞祐 - Wikipedia

神奈川県津久井郡鳥屋村(現在の相模原市)の豪農の出身、父・藤三は自由民権運動に参加して後に村長・衆議院議員を務めた。ちなみに実兄は尾崎行雄の妹婿にあたる。

21歳の時に内村鑑三の『後世への最大遺物』を読んで、自分の人生を見つめなおした天野は獨協の5年生として復学して翌年には首席で卒業した。当時の獨協の校長であった大村仁太郎に憧れて教育者へと志望を転向して第一高等学校に入学、内村から直接教えを受け、また九鬼周造・岩下壮一とは親友になった。その後京都帝国大学文科大学・同大学院に進学して桑木厳翼らの下でカント哲学を専攻した。在学中にカントの『プロレゴーメナ』(『哲学序説』)の日本語訳に取り組み、東亜堂後に岩波書店から刊行された。

西田幾多郎らの推挙を受けて学習院教授、続いて1926年からは桑木厳翼・朝永三十郎の推挙によって母校・京都帝国大学助教授を務める。この間1922年から翌年にかけてドイツのハイデルベルク大学に留学して哲学研究に打ち込み、1930年にはイマヌエル・カントの代表作『純粋理性批判』を初めて日本語訳する事に成功した。

1950年には吉田茂に乞われて2年間文部大臣を務めた。

自らが信条とする「学問を通じての人間形成」の精神

一高校長時代には大学制度改革に際して「東京帝国大学東京大学)を一般の大学と同じにしてしまった場合には、東大を頂点とした大学の格付けが生まれて受験競争が発生してしまう」として学部を置かない大学院大学にする事を提案したものの退けられ、文部大臣時代には戦後の人心の荒廃と受験競争の激化を憂慮して1953年に『国民実践要領』を作成して道徳教育の必要性を唱えたところ、日本社会党などの野党や日教組から「反動的な修身教育の復活だ」と糾弾された。

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