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捜査によって、Xは仁左衛門宅に座付見習作家として住み込みで働いていたが、戦後間もない当時の食料事情の悪さなどから配給米を不当に搾取され、1日2食(合計米1合3勺程度)しか与えられていなかったことと、とし子との諍いや、事件直前に仁左衛門がXを「座付き作家としてセンスがない」などと罵倒したことが犯行の動機になったと伝えられている。

また、Xは薪を使った炊き出しをさせられていたのに対し、夫妻は電気コンロを使って蓄えた米をたくさん食べていた。さらに事件前日にはこれまで渡していた配給米をメリケン粉に変えるととし子から告げられたうえ、夫妻と口論になって仁左衛門から「今夜原稿を書いたら出て行け!」と怒鳴られた。そしてせっかく出した原稿も「これでも作家か!」と罵倒され、憤激を抱えたままXは床に就いた。その翌日の早朝便所に行った後、薪割り用の斧につまずいた後で5人を殺害したという。そしてXは台所にあった米飯とザラメを食べ、国民服に着替えたうえ家にあった現金を盗んで現場から逃走した。

Xはそれまでに精神障害の既往はなかったが、取り調べで事件当時から逃走に至るまでの記憶が欠落していることが明らかとなったため東京大学医学部精神科教授の内村祐之による精神鑑定が行われた。鑑定結果は、激しい情動のため一時的な意識障害をおこしていたことを示唆するものであった。一方内村とは別に精神鑑定を行った菊池甚一は、少なくとも2人目以降の殺人については一時的に精神病状態であったと結論づけた。

1947年10月22日、Xは無期懲役の判決を受けた。求刑は死刑であり、5人を残虐な手段で殺害しており、責任能力が認められれば死刑相当の事件であった。この刑について、一般には精神鑑定により心神耗弱状態だったと認定されたためとの説が流布されているが、実際の判決では全ての行為について責任能力を肯定すべきであるとしており、内村、菊池いずれの鑑定も採用されていないし、刑法39条の適用もしていない。それにも係わらず死刑判決にならなかったのは、低栄養や片岡家における葛藤、犯行前夜からの紛争、不眠等の理由で、Xの感情が著しく興奮して安定を失っていたことを考慮したものとのことである。

Xのその後については明らかにされていない。

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「当時、幅広いジャンルの本を読めたことが、自分の中で大きな糧になっていると思います」

そんな中、偶然目に入ったのが、『わが歩みし精神医学の道』という本だった。内村鑑三の息子である内村祐之(ゆうし)が、精神科医として歩んだ人生論をつづった一冊だ。

「それが医学の道との初めての出合いでした。こんなにも人間味があふれ、人に喜んでもらえる仕事があるのかと。悩める心にビビッときたんです」

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1914年(大正3年)、山口中学校を卒業する。間もなく上京して高等学校受験準備のため予備校に通ったが、勉強より遊び癖の方がつきやすく、受験勉強そっちのけでしばしば活動写真や芝居を見に行ったりした。第一高等学校の入学試験の成績は最下位から2、3番目だったが、高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄、三輪寿壮とは常に成績を争った。

1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部に入学。法学部の入学試験はドイツ語の筆記試験だけで、難なく合格した。大学時代は精力を法律の勉強に集中し、ノートと参考書のほか一般の読書は雑誌や小説を読む程度で、一高時代のように旺盛な多読濫読主義ではなく、遊びまわることもほとんどなかった。我妻栄と2人で法律学の勉強に精を出し、昼食後や休講時などに、大学の運動場の片すみや大学御殿下の池の木などで、最近聞いた講義の内容や、2人が読んだ参考書などについて議論を戦わせた。

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