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羽生善治「若手に負けぬための秘密の習慣」:PRESIDENT Online - プレジデント

 勉強といっても、私たち棋士にとっては、実戦の中から得るものがやはり大きいですね。新しいアイデアや発想のヒントを実戦から得て、それを日常の練習の中で掘り下げ、全体的な理解を深めていきます。


 着手を考える際も、40代半ばの今は、20代、30代の頃とは変わってきました。最初に局面全体の方向性を大ざっぱに、感覚的にとらえて、そこから細かいところをロジックで詰めていくというプロセスじたいは以前とあまり変わりませんが、局面全体をとらえるところに力を傾ける比率が、以前に比べて上がっています。


 最初から細かいところにこだわって理詰めで追っていくと、効率が悪い。指し手を読んでいって、この筋はだめだとわかったら、おおもとに立ち返るわけですが、それを繰り返していたのでは、時間と体力の消耗が大きいし、的外れなところにとらわれて考え込むこともあります。


 それよりも、最初の段階である程度「こういう方向性でいこう」とか「とりあえずはこの手で」というのを決め、ポイントを絞ってそこに集中する。つまり「見切りをつける」ということですが、これまでの経験の積み重ねがあって、それができるようになったのだと自分では思っています。


 よく「経験知を活かす」といわれますが、それは経験してきたことが「そのまま活かせる」ということではないと思います。世の中も、自分を取り巻く情勢も変わりますから。


 「経験知を活かす」とは、経験から得たさまざまな選択肢の中から、目の前にある問題やテーマに対して、何が一番いいアプローチの方法なのかを選んでいくことだと思います。


 勝負の世界では、ベストだと思う手法が通じるかどうかは、常に皆目わからないものなんです。ただ、この場面でこのやり方は通じないとか、この手はあまりよくないだろう、という当たりはつきます。


 経験知が活きるのは、そういう場面での対処ではないでしょうか。つまり「こうすればうまくいく」というより「これをやったらうまくいかない」ということを、いかにたくさん知っているかが大切であるような気がします。


 いろいろある選択肢の中から、何を捨てていくか。取捨選択の捨てるほうを見極める目が、経験知で磨かれるのだと思うのです。


 たとえていえば、経験によって羅針盤の精度がだんだん上がっていくイメージですね。自分の中に、正確な羅針盤はないのかもしれない。けれど、無駄なことやだめだったこと、遠回りをした経験の積み重ねがあって、方向性を見誤ることが少なくなってくる。こっちへいくより、あっちのほうがより確実ということが、経験知が上がるにつれて比例して上がっていくのだと感じています。

 しかし、今は棋譜のデータベースがあるし、携帯やネットで中継も見られますから、昔はプロ棋士の間でだけ知られているような定跡は実戦の中でしか学べませんでしたが、今の若い棋士たちはプロになる以前にそれを身につけています。「知って学ぶ」環境については、今のほうが圧倒的に恵まれているし、全体のレベルも格段に高くなっています。


 一方で、大量の情報に触れる機会が多いということは、自分の頭で考え、課題を解決していく時間が少なくなっていくことでもあるので、そこが少し気になります。未知の局面に出合ったときの対応力は、今の若い棋士たちは先輩たちより少し下がっているような気がするのです。

 ITにも似たところがあって、ものごとを素早く処理できますが、途中のプロセスが省かれて見えなくなります。将棋が強くなっていくプロセスは、いかに考えずに指せる手を増やしていくかだといえますが、半面、考えずに省略してきた部分の中に新たな可能性があるということは当然といえば当然。建築物が基礎から築かれていくように、どういうプロセスを経て結果が組み上がってきたのかを知るのはとても大切です。


 私たちはアナログで育った世代ですから、基礎や土台のつくり方を見ていますし、大変な労力と時間を使って自身でつくってきているわけです。それはある意味で、私たちの世代の強みかもしれません。


 とすれば、今の自分がどういうプロセスでここにいるのかとか、過去の何が今の自分の成果につながっているのか、といったことを再検証してみるのも、今後の自分を考えるうえで有効な勉強の一つになるのではないでしょうか。

 コンピュータ将棋は過去の膨大な棋譜をベースとしていて、1秒間に何百万回という計算力は人間には絶対真似できませんが、人間ならばまずこうは指さないという手をしばしば提示します。それはいい換えれば、人間の思考の死角、盲点を突いているわけです。そこを掘り下げることで新しいものが出てくることもあるでしょう。実際、棋界ではすでにそれが起こっています。


 そもそも人間同士の対局が、コンピュータ将棋のような指し回しにならないのは、多分に心理的な要素が働いているからです。コンピュータ将棋のように、その瞬間瞬間に対応しているのではなく、互いにこう指したいという大局的な意図が先にあるから、そこに駆け引きの妙味も生まれてくるわけです。


 しかし、通常の人間の心理から少し外れた将棋ソフトならこの局面をどう判断し、どんな手を繰り出すのか。そうした突拍子もない一手を、人間的な思考プロセスで再現するにはどうしたらいいか――コンピュータ将棋はそういった“貴重な意見”を提示する存在として、今後の将棋界に影響を及ぼしていくでしょう。

 40代は、自分がこれまで蓄積してきたことを、具現化していくのにとてもいい時期だと思います。


 よくいわれるのですが、私たちの世代が生きてきたこの20年から30年、社会はそれ以前の100年よりもはるかに大きな変化を遂げてきています。そこにはある種の必然性があるのだと思いますが、今の延長上に何があるのか、何をしたいかを、自分の中でどう思い描いていくか。それを問われるのがこの40代の時期だと思うのです。


 迷いもするし、きっぱりと割り切れないことも多い。私の場合、いろんな仕事の依頼がきますが、どれに重きを置けばいいのかなと思い悩むときがあります。本をたくさん書いたほうがいいのかな、とか、将棋をもうちょっと一生懸命やらなきゃいけないのかな(笑)とか。でも、先行きを心配しても仕方がないという諦観もあります。ただ、折々に判断を下すときに、私は人間が本来持っている「野性の勘」を大切にしたいと思っています。


 将棋では、過去に習い覚えたことがまったく役に立たない場面がしばしばあります。羅針盤が利かない状態が起こるのです。そうなると勘に頼るしかないのですが、世の中が便利になり、生活が快適になるほど、その勘は鈍っていくように思われます。ですから、勘を磨く習慣やトレーニングが必要だと思います。何をするかというと、「羅針盤の利かない」状況にわざと身を置くことです。


 それほど大げさなことではありません。たとえば私は、初めて訪れる待ち合わせ場所などには、しばしば地図を持たずに行きます。住所だけを頼りに、頑張って考えたり、人に聞いたりしてこっちかな、あの道だなと勘を働かせながら歩くのです。昔はそうするのが必然でしたが、今はそういう機会は意識的につくらないとなかなかありませんね。


 過去の経験や土地勘のないところでも目指すポイントを見つけ出せる、新たな違うことを生み出せるこうした能力がこの先重要視されるのかもしれません。ここは将棋がこの先どう変わっていくかについての一番のポイントだと思っていますが、将棋に限ったことではないかもしれませんね。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141207#1417949013
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