ちょうど一ヶ月前の今頃、一週間弱の短い滞在だったが、私はパリにいた。今回の事件が一ヶ月早く起きていたらどうなっていただろう、市内から空港まで厳戒態勢だったに違いない、と想像している。
折しも先月、私がパリで街を歩きながらぼんやりと考えていたのは、「多民族性を受け入れない国・都市は、この先、経済的・文化的発展が頭打ちになるのではないか」という問題だった。同じことはロンドンでも考えた。むろん日本の将来を悲観してのことだが、今パリにいたらまた別様に考えたことだろう。
単純に「国民国家」なるものが今から100年後にどうなっているのかを知りたいのである。
研究者としては、もうこの辺りの問題を考えるのは止めたはずなんだけど、わが業界がグローバリゼーションをめぐる(おかしな)動向に取り囲まれている限り、職業人としては、この問題を考えて続けなくてはならないのだろうな、とも思っている。
もっとも奇妙なのは、現在の日本におけるグローバリゼーション推進論が(企業はどうか分からないが、少なくとも大学を見る限り)「国民国家」という装置の「延命策」にしかなっていないことだ。そこに潜む根本的「捻れ」に気付かぬふりをして、自己否定のそぶりを続けるのは、あまりに危険なゲームだ。
「この事件はイスラム教、そしてイスラム教の開祖が引き起こしたことではないということだ。ある人間が殺人を犯した、それだけのことだ。」/ 我々イスラム教徒は「シャルリー・エブド」を支持する http://huff.to/1HRMmUv