今度こそは→難解な哲学書を読めるようにする16の新書 読書猿Classic: between / beyond readers
文章から情報を組み上げる(文章→アタマ)処理と、頭の中の情報を本の情報と結びつける(アタマ→文章)処理だ。
すぐにわかるように、自分の中に、その本の内容と結びつけるものが少ないと、文章から情報を組み上げる(文章→アタマ)処理が優勢となる。
実は、文章から情報を組み上げる(文章→アタマ)処理だけの読書はつまずきやすい。
頼りになるのが文章から来る情報だけになるから、単語や語句に、文や段落のつながりに、文章のテーマや取り上げられるトピックに、そのどこかに分からないところがあると、途端に理解に支障が出るからだ。
逆に、自分のアタマから文章へ向かう情報が豊富だと、文章から来る情報に不明な点があっても、何とか進むことができる。
専門的な哲学研究者でも、トマスとデカルトの間とか普通知らないですよ。
一応、常識的なこと(?)を言うと、人文系の学問はそれぞれ「キャノン」となる著作群があって、それを一通り読んで&批判的に考察するというのが修士くらいまですることでしょうから、トマス(というよりアウグスティヌス?)とデカルトの間に、哲学史的に必修のテクストがどれだけあるか?という観点
を前提にしなくてはいけないのは、しようがないことではあります。
僕も、博論を始める時は「グチャグチャした感じが面白い」だったのだけれど、でもそれを正当化しなくてはいけないわけですね。だから、「グチャグチャした感じが面白い」段階から、その「ぐちゃぐちゃした感じ」を問題とする歴史的な重要性みたいなことを考えないといけなくなるわけです。
だから、というか、先日の「放談」では、その「グチャグチャした感じが面白い」にひたすら入り込む過程を「泥沼」と表現したわけです。
イブン・シーナーやイブン・ルシュドを大仏レベルで崇めると大変なことになると、身を削りながら学びました・・・。