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ロマ書の研究

ロマ書の研究

内村鑑三「ロマ書の研究」目次

ロマ書の研究第1講

 由來、貴重なる書物は、これを讀むのみにとどめずして、筆瀉をもつて理解を助くるを最良の方法とする。我らの祖先に、佛繁に熱心なる信者多かりしは周知の事實なるが、彼らが熱心に經文を筆瀉したる一事は、今人の遠くおよばざることである。法華經を全部筆瀉したる人のごときは、數え得ぬほど多數であると思う。かの宗繁改革において貴く重き責を充たしたるメランクトンは、ロマ書を二囘筆瀉したとのことにて、それが西洋においてめずらしきこととして傳えられてゐる。しかしこれを日本の佛繁史に持ち來れば、すこしもめずらしきことでなく、全く普通のことである。ロマ書のごとき、貴重にしてかつ平易ならざる書は、よろしくこれを筆瀉すべきである。然るときは、ただの通讀に比して、理解の上に十倍もの力が加えらるることであろう。

 今や世界改造の聾は地の果てより果てにいたるまで鳴りとどろいてゐる。改造は、人間生活の各方面に向つて叫ばれつつある。しかしながら、今日の改造説は未だ一度も實地に試みられざるもの、從つてそのどよめきはいかに大なるも、その效能の明らかならぬものであることは否定し得られない。然るにロマ書の提示する改造の原理は、かつて幾度か試みられて、その效果の顯著なるを證據立てられしものである。かつ今日流行の改造説はただ社会の外部的制度に關するものであるが、ロマ書の改造説は自己心靈の改造を主眼とするものである。而して外の改造と内の改造と、いずれが源にしていずれが末なるかは、識者を待たずして明らかである。ゆえにロマ書の提供する改造の原理は、今日流行のそれに比して、はるかに深奥なるものなることは、言わずして明らかである。外か内か、形か心か、肉か靈か、我らは後者の一をもつて前者の一の上に置かねばならぬ。而して古往今來、人の道はおおむね外と形と肉とに重きを置き、神の道はとこしえに内と心と靈とに重きを置く。而してロマ書の改造説は神の道である。ゆえに今日流行の人の道たる幾多の改造説と正反對の極に立つものである。さりながら、問題はいずれが眞正の改造説なるかに存する。然り、まことにそうである。それに相違ないのである。

 余自身またこの書によつて救われし一人である。儒繁國に育ちし我らは、キリスト繁をもつて聖人君子たるの道と考え、完全なる道紱的状態に達せんことを信仰の目的と考えやすい。然るとき、己れの實状が己れの理想と副わざるため、苦悶懊惱の襲うところとなるのである。余のごときは、この罪の悶えに泣きしも、日本國においてこれを解決するの道なく、ためにはるばる米國にまで渡りて、この疑問の氷解を求めたのである。時に親切なる先生あり、余に繁えていわく、「汝みずから義たらんとつとむるなかれ。そはあたかも小兒が植木を鉢に植えて、毎日引き抜きつつ發育如何を調査する類にして、到底でき得べきことにあらず。汝みずから聖くならんとつとめずして、ただ十字架のイエスを仰げ、さらば平安汝に臨まん」と。かく繁えられて大いに悟るところあり、かつロマ書を精讀して、ついに平安に達したのである。仰ぎ見よ、さらば救われんと、これロマ書の提示する平安獲得の道である。みずから義となりて平安に達せんとするは、福音とは正反對の道である。福音はただ一つ、すなわち信仰によりて神に義とせられて平安に入るのである。我らの研究せんとするロマ書は、この道を人に繁うる書である。

ロマ書の研究第7講

 なお注意すべき一事がある。この書をしたためしころは、パウロが信仰に入りてのちすでに二十餘年を經過していた。そして彼はこの期間の大部分を傳道に用いた。從つてこのときまでにおいて、反對者と論争をなせし囘數は無數に達したに相違ない。執拗なるユダヤ人と、理知に強きギリシア人とにかこまれての彼の孤獨の奮闘を思うとき、その論戰の激しさは推し測らるるのである。彼の書翰は多くかくのごとき戰塵の濛々たるあいだにしるされたのである。從つておのずからそこに砲煙の香り、弾雨のひびきをとどむるのである。味方に送る書翰においても、彼は自然と敵を前にして論陣を張るがごとき趣きを示し、いついかなるところから論敵があらわれても攻撃の隙を見出し得ないような論法を採ることが多い。かくのごとき緊張味をもつてしるされし彼の書翰なれば、眞理の無盡藏たるのである。その上、ロマ書のごときは彼の五十歳臺の作として、すでに二十餘年の戰いを經しのちの書なれば、人生の戰いを長くなせし勇士の筆のつねとして、一語、一句、一節の中にも、眞理が豐かに包藏せられてゐるのである。いたずらに冗長なるは、戰いの經驗すくなき未熟者の筆である。老雄の筆は簡頚(かんけい)にして力と生命とに富む。この十六節、十七節のごときは、第一章劈頭の自己紹介とともにその好標本である。

ロマ書の研究第60講

 すべて書物を讀みたる後において忘れ得ざるものは大体の印象である。もちろんその中の重要なる個處もまた忘れがたきものではあるが、最も強く長くわが心に留まるは、その全体の空氣である。あだかも百花咲きにおう春野を逍遙せし後において、個々の花の忘れがたきもあれど、むしろ花の野に身を浸してその香に酔うたという事その事が、最も強き記憶として残るたぐいである。

 ロマ書を讀了して受くる第一の印象は、それが信仰第一の書であるということである。信仰によりて義とせられ、信仰によりてきよめられ、信仰によりて榮化せらる。信仰をもつて始まつて信仰をもつて進み、信仰をもつて終わる。これを説いたのがロマ書である。ロマ書はもちろん愛を説く。また望みを説く。その愛を説きし十二、十三章のごとき、その望みを説きし八章のごとき、いずれも著しき處ではあるが、しかしロマ書全体にみなぎる空氣は、信第一のそれである。パウロは律法に信仰を對立せしめて、後者をもつて前者を打ち破つたのである。かくしてふるき律法時代にいとまを告げて、新しき信仰時代の到米を公宣したのである。これがすなわちロマ書である。この事は實に信仰時代のあけぼのを告げる暁の鐘の音である。

 第二に受くる印象は、この書が恩惠の書であるということである。神の、人に對する道は絶對的恩惠である。神はただ恩惠をもつて人を義とし、人を救いたもう。

 神は、かく、ただ恩惠をもつてのみ、人に對したもう。人の、功なくて救わるるの道はすでに備えられてゐる。ゆえに、人は、ただこのまま神に立ち歸りて信從の生活に入りさえすればよい。實に簡易の極とはこの事である。しかるに多くの人はこの事を知らない。神が手を開いて寶物を與えんとしつつあるを知らない。ゆえに、この恩惠の中におのれを投げ入れようとしないのである。また信者といえども、この福音の中心的生命の處在を充分に知らない。ゆえに信仰生活をもつて努力作善の連続と誤想する。そしてそのために早くもすでに疲憊(ひはい)しつくして、信仰生活の弛緩(しかん)無力を生むのである。これ、一に神の恩惠の眞性質を知らぬことに起因する。まことに今日のキリスト信者はただ恩惠恩惠(めぐみめぐみ)と叫ぶのみであつて、この恩惠の何であるかを知らないのである。パウロは信仰中心の人であつたが、その基に、神の恩惠、神の愛を置いた人であつた。すなわち、神がまず愛をもつて人に對するがゆえに、これに感激して人が信仰を起こすのであると彼は説く。實に恩惠なくして福音はないのである。ロマ書が神の恩惠を何よりも先に立つる書であることを忘れてはならない。

 ロマ書は以上のごとき事を傳うる書である。したがつて、信仰をもつてこの恩惠を受くる態度を人に要求する書である。しかしながら、かかる態度に入るにあたつてまず必要なるは、いかにして神の前に義たらんかとの問題を心に強くいだくことである。自己の積罪汚濁に堪えかねて、聖き神の前におのれを置くに堪えず、神の刑罰に當然値することを認めて、苦惱重く心を壓し、いかにして神の前に義たらんかとの問題に惱む人、かかる人にとりてはロマ書は絶好の伴侶(はんりょ)である。ロマ書は、要するにこの人生の最難問題に對して、明確にして最後的の解答を與え、もつて心の重き苦悶を取り去りて、晴天白日の境に人を引き出だすものである。すなわち、人の提供する義にあらずして、神の提供する義、人にあるところの義にあらずして、キリストにあるところの義、この義をすべて信ずる者に賜うことをロマ書は繁えて、人々をして、動かざる歡喜の世界に入らしむるのである。

 なお、注意すべき一事がある。「イエス・キリストのしもべパウロ」をもつて始まりしこの書は、最後に「独一叡知の神」を贊美して終わつた。彼はまずキリストのしもべとして、自己を全く彼の下に隠して紹介し、そして最後には神を贊美するのみにて、少しも自己をあらわさない。もとより強き特徴を持つていた彼のことであるから、いたる處に彼の精神はあざやかにあらわれ、ことに七章後半のごとき痛烈なる自己一身の告白などありて、この書を讀みしのちにおいて、著者たるパウロ彼自身がかなり強く讀者の心に残るは自然である。しかしこれ求めてなせしところではない。彼はひとえに自己をあらわさじと努めたのである。彼は「わが名によりてバプテスマを施すと、人にいわれんことをおそれ」(コリント前書一・十五)て、つとめてバプテスマ施行を避けた人であつた。また「ことばと知惠のすぐれたるをもて……神の證を傳え」なかつた。これ自己の力をもつて人を福音に引くをおそれたからであつた。「そは、なんじらの信仰をして、人の知惠によらず、神の力によらしめんと思えばなり」(コリント前書二・一 〜 五)と彼はいうてゐる。彼は、かく常に注意しておのれを隠して、神とキリストとをあらわさんとした人であつた。ゆえに、ロマ書を讀みて、彼の姿がかなり強く見ゆるとはいうものの、それにも増して −−しかり、幾十倍も増して −− 強く見ゆるものは、神とキリストの姿である。實にこの事において神の愛とキリストの救いとは、パウロのすべての特徴を押しのけて立つてゐる。しかり、神とキリストは滿天の輝きを受けしごときあざやかさをもつて立つてゐるのである。ゆえに、この書を讀んでさらに知りたく思うは、パウロではなくして、神とキリストである。パウロが極力自己を隠してあらわさんとしたこの神、このキリストは何であるか、その愛、その救いについてなお深き知識はいかにして得べきかと、人々はこの研究に對する熱心を燃やすのである。この意味において、ロマ書は大なる傳道書であるというべきである。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150501#1430477149
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150429#1430304097
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150427#1430131722
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150120#1421750070
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150120#1421750071