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史上最強といわれるチンギス・ハンはビジネスで考えると何が圧倒的に強かったのか|戦略は歴史から学べ|ダイヤモンド・オンライン

 1167年頃に生まれた男児は、モンゴル帝国を創始し、歴史の流れを変える巨大な足跡を残します。テムジンと呼ばれた彼の幼少期は、覇業とは逆に苦難の連続でした。


 小部族の族長だった父を対立するタタール族に毒殺され、父の死で部族はテムジン一家を見捨てます。母と六人の子らで狩りをして生き残り、獲物を巡ってテムジンが異母兄弟を殺したり、他部族に誘拐され、間一髪で脱出したこともありました。


 部族同士の確執も大きく、テムジンは幼い頃の親友で別部族の長ジャムカと闘争を続け、亡き父の盟友で叔父とも呼ぶ信頼した人物にさえ裏切られます。家族、部族、親友さえ決して安易に信頼すべきではないと学んだテムジンは、血族を超える忠誠心を持つ強力な戦士の集団を目指し、偉大な統率者の才能を発揮します。


 西方に逃れたジャムカはナイマン族と結び、1204年に決戦を挑みますが、数で劣るテムジンは夜のかがり火を必要な数の100倍たかせて、兵数を偽装します。ナイマン連合軍は偽計に騙されて浮き足立ち、ジャムカが恐怖に駆られ逃亡したことで全軍が戦意を喪失、モンゴル軍に散々に打ち破られてナイマン王は戦死します。この勝利でテムジンは全部族の支配者、チンギス・ハンと称しました。

「チンギス・ハンの遠征は世界史上、類をみないほど遠大なものだった。これほど広大な領土が一人の男によって征服されたことは、かつてなかった。チンギス・ハンが死んだとき、その版図はアレクサンドロス大王の帝国の四倍、ローマ帝国の二倍になっていた」(ロバート・マーシャル『図説モンゴル帝国の戦い』より)

 チンギス・ハンは1211年に中国の金王朝を侵略。当初、守りの固い城塞都市に苦戦しますが、この経験が攻城戦の技術を高め、中央アジアと東欧でモンゴル軍の勝利を生み出します。

 1241年には有名なワールシュタットの戦いが行われ、ポーランド・ドイツを中心とした欧州騎士団の連合軍をモンゴル軍が殲滅、欧州は恐怖のあまり大混乱となります。この勝利でモンゴルは中央ヨーロッパに進出する機会を窺いますが、同年12月にオゴタイ・ハンが急死したことで遠征軍は帰国。欧州は蹂躙の悲劇を奇跡的に免れました。

 ワールシュタットでは城に立てこもる欧州軍の前で、モンゴル側は弱い軍を戦わせ、負けたと見せて退却します。騙された欧州軍は、騎士団を追撃戦に投入しますが、モンゴル射手が待ち構える地点におびき出されて、雨のような矢を浴びせられます。煙幕がたかれ、後続と分断された騎士団は混乱のなか矢の雨で重傷を負い、そのあとにやって来るモンゴル重装歩兵の徹底殺戮を受けることになりました。


 ヤクの角と竹を合わせたモンゴル弓は恐ろしく強力で、兵士一人で60本もの矢を持っており、狩猟民族のモンゴル兵は騎馬で連射ができる弓矢の達人ぞろいでした。

キーエンスの製品は工場で使うセンサー類なので、生産現場の困りごとを営業部隊は直接聞き取り、一定の拡販が見込める課題を発見すると、最速で試作機を作成。顧客の生産現場に置いて使ってもらうことで販売を成功させているのです。


「デモ機を置いてきたら、90パーセント以上受注が決まる。しかも、無競争です」(名和高司『100社の成功法則』より)


 試作機をつくるには、その課題解決が複数他社に売り込める需要を確認することが条件です。キーエンスはクレポという製造子会社で試作機を素早くつくる体制を整え、生産コストを最小化する方法もクレポで探索して、下請け企業に製造依頼しています。結果、粗利80%という驚異的な数字を誇り、社員の生涯給与は日本国内でも常にトップクラスに位置しています。


本当の必要性を理解している生産現場に矢を射込み続けることで、キーエンスは他社が太刀打ちできない優位性を、売り込みの前段階で確立しています。この差は営業マンの個人スキルでは対抗できず、集団の戦い方から生まれる優位性であり、中国王朝や西欧の騎士団に圧勝したモンゴル軍の戦闘スタイルと重なります。

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