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京都企業経営者の「八つの気質」とは? 1996年9月19日、盛和塾中部地区塾長例会講話抜粋|稲盛和夫経営講演選集(公開版) 「経営の父」が40年前に語っていたこと|ダイヤモンド・オンライン

 ワコールの創業者である塚本幸一さんは、第二次世界大戦中、ビルマ(現ミャンマー)でのインパール作戦に従軍され、師団の中で生き残って帰ってきた三名のうちの一人です。日本に帰ってこられた塚本さんは、帰ってきたその日からアクセサリーの行商を始めます。


 そのときに、今のブラジャーの原型を売っている人と出会うわけです。針金を巻いて胸の形にし、表と裏に布を縫いつけただけのものだったそうですが、それを見た塚本さんは興味をもち、その行商人に聞きます。


「なんでこんなのが売れるのか」


「今後は女性の洋風化が始まる。今、アメリカの兵隊がいっぱい来ているが、日本の女性は着物から洋装になっていくだろう。その場合、どうしても胸のふくらみが要る。日本には胸の小さい人が多いので、大きくふくらませる下着が要るんだ」


「よし、オレにも売らせてくれ」


 そうして売り始めたのが最初です。

 また、ロームという会社が今、たいへん立派な仕事をしています。創業者である佐藤研一郎社長は私より一つ年齢が上で、立命館大学理工学部を卒業されています。もともと佐藤さんはピアニストになりたかったそうで、大学一年生のときにピアノコンクールに出て準優勝しますが、優勝できなかったことで音楽家の道をあきらめます。その後、彼は在学中に炭素皮膜抵抗器を簡単に安くつくれる方法を考え出して特許を取ります。


 炭素皮膜というのは、簡単に言えば鍋の底にくっつく煤です。その煤を陶磁器の棒につけてつくる簡単な抵抗器が、炭素皮膜抵抗器です。当時、すでに一般化されていて、大手メーカーもみんなつくっていた抵抗器でしたから、炭素皮膜抵抗器を簡単に、安価につくることができる方法を考え出して特許を取ったといっても、そう大したものではありません。


 それでも彼は、立命館大学を出るとどこにも就職をせず、自分の家で内職みたいにして炭素皮膜抵抗器をつくり始めます。経験も何もない、ピアニストの道を歩こうとしていた彼もまた、最初はまったくの素人でした。

任天堂山内溥(ひろし)さんは、ゲームソフト関係ではたいへんな権威者のように見えますが、ほんの二〇年前までは花札とトランプだけをつくっておられた人です。花札、トランプは、印刷をした紙を何枚も張り合わせてつくっています。任天堂は、そのすべてを自前でつくっていたわけではなく、印刷は外部業者に出していました。つまり、祖父の代から、自社では紙の張り合わせと裁断だけをしていたのです。


 山内さんがだいぶ齢を取られてから、タイトーという会社が、スペースインベーダーで大ヒットを飛ばしました。一世を風靡したゲームですが、ああいうものをやりたいと山内さんは始められた。山内さんもまた、ゲームソフトにはまったく関係のない素人です。

 京セラと同じ電子部品をつくっている村田製作所というユニークな会社があります。京セラとはある種の競争関係にあるわけですが、たいへん立派な仕事をしておられる高収益会社です。この会社の村田昭(あきら)名誉会長は、旧制の商業学校を出られた後、京都の郊外にある山科(やましな)で、親から引き継いだ清水焼の焼き物屋をやっておられました。細々とお茶碗などをつくっておられたわけですが、戦時中、京都大学の電気の先生がそこを訪ねてきます。


 当時、米軍を中心にエレクトロニクスがどんどん発達をしてきました。日本が第二次世界大戦で負けたのはレーダーがなかったからだと言われていますが、特にミッドウェイ海戦では、アメリカの艦隊は日本の艦隊が来るのをレーダーで全部とらえていたそうです。空母何隻、戦艦何隻、その艦隊が今どの辺に来ているのか、全部わかっていた。


一方、日本はレーダーをもっていませんから、偵察機を飛ばして周辺を回って敵の艦隊を調べる。それよりも遥か前にアメリカは日本の艦隊の全容を捕捉しており、日本艦隊は全滅させられるわけです。


 当時はレーダーのことを電波探信儀と言っていましたが、B29などを撃ち落とした残骸から、それらしき機器が見つかりました。調べると、焼き物でできた部品が入っている。さらに調べてみると、それがすばらしいコンデンサだと気がつく。陸軍が各大学の先生にその研究を依頼したのですが、その一人であった京都大学の先生が、「同じものをつくってくれないか」と、わずか数人でやっておられた焼き物屋を訪ねてきたわけです。


 村田名誉会長はたいへん好奇心の強い人で、ひと言「やりましょう」とやり始める。これが村田製作所の始まりになるわけです。しかし、そのコンデンサが完成をしないうちに終戦を迎えます。しかしその後、いわゆるラジオのブームが起こってきたとき、そのコンデンサをつくることによって今日の村田製作所をつくり上げてきました。彼も旧制の商業学校しか出ていない、エレクトロニクス、化学とはまったく無関係の、素人であったわけです。

 一番目に、冒険心の強い人でした。


 二番目に、何にでも挑戦していく、挑戦的な人でした。


 三番目には、勝ち気で負けん気の強い人でした。


 四番目に創造的な人でした。創造的とはクリエイティブという意味だけではなく、常識的なことに満足をしない人という意味もあります。


 五番目に、正義感にあふれた人でした。


 六番目には、陽気で、明るく、積極的な人でした。


 七番目に、反骨精神にあふれた人でした。


 そして最後に、みんな、たいへんな努力家でした。


 事業というものは、特殊な技術やいい仕事である必要はありません。事業を成功させるには、どこにでもありそうな、決してもうかりそうにもないようなものを先ほどの八つの性格をもった素人がどのくらい一生懸命に仕事をするのか。そのことにかかっていると思えるわけです。

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