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なぜ、古典を読んでも、人間力が身につかないのか?|7つの知性を磨く田坂塾|ダイヤモンド・オンライン

第7回のテーマは、


なぜ、「私心」や「我欲」を捨てようとしてはならないのか?


 このテーマで話をしよう。

これでは結局霊界をさまようばかりで登ることはできない。
修行は「捨てる」ことに尽きる。
そして、意識と感情と肉体をコントロールするのだ。
回峰行を見てもわかる。
「なぜ、古典を読んでも、人間力が身につかないのか?」
志が低いからだ。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150902#1441190483(日常坐臥、生命を捨て、身を粉骨砕身せんとする大気力がなくては、大悟徹底することが出来ぬばかりか、かえって俗人以下の偽善者になりかねない)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141123#1416739002
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20090107#1231314392

わかとのばら【若殿原】の意味 - goo国語辞書

新納忠元 - Wikipedia

『遠羅天釜』

P145

 真の無我に契当しようと思うならば、何と言っても、まず懸崖に手を撤(さっ)して絶後に再び蘇らねばならぬ。そこで初めて、常・楽・我・浄の四徳をそなえた真我を発見するであろう。懸崖に手を撤するとはどういうことか。誰も踏み入らぬ山中で道に迷い、底のないような高い断崖に出た。絶壁にはすべりやすい苔が生え、足の踏み場もない。進むことも退くこともできぬ。ただ頼むところはわずかに生えている蔦葛(くずかずら)。これにすがって、ようやくしばらく命を助かった。しかし、手を離せば、たちまち真っ逆さまである。
 修行もこのようにして進めて行かねばならぬ。一則の公案に取り組んでいけば、やがて思う心も失われ、からりとして何もなくなり、さながら万仞の断崖に立たされたようになる。絶体絶命というところまで推し究めていって、そこで忽然として、公案も我ももろともに打失する。これを懸崖に手を撤する時節と言う。その死にきったところから、今度は豁然として息を吹き返すならば、その当人でなければ分からぬ大歓喜を味わうであろう。自ら水を飲んでみて、初めて冷たいかぬるいかが分かるのだ。この体験を、あるいは往生と名づけ、また見性とも言うのである。

『日本精神通義』

P114

 宇宙人生一切の根源であり、また、宇宙人生そのものである法性の実相妙用を明らかにし、物我の迷執を去ってここに悟入体達してゆく迹門始覚より、白雲おのずから去来するも、青山もと動かぬように、無始以来不覚の迷執はあっても、その法性、本来つねに覚体である本門本覚を説いて、人は法、始覚実は本覚であることを教える法華経を彼ははじめて文字よりそのままに仏にまで徹悟し、信仰し、法華経そのものを一身に体現するに勇猛精進いたしました。

プラトン『国家』第七巻メモ(3) | Narimasu_0717 Blog

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