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【第21回】

 川口は入社すると猛烈な勢いで働きはじめた。


 夜行列車の乗り継ぎもものともせず、北海道の販路開拓に乗り出した。青函連絡船では一番安い船底の3等船室に寝る。当時は衛生状態が悪いためシラミを移され、寒い北海道なのに慌てて下着を捨てるといった災難にも遭ったがめげなかった。


 北海道の市場は処女地に近い。


「京都から来ました」


 というと、同情もあって10軒に1軒は買ってくれた。

 川口から少し遅れて入った中村も負けていない。


 粂次郎から帳面づけを引き継ぐと、これまで塚本家の家計と会社の経理が一緒になっていることに気づき、まずはこれを分離した。その上で和江商事の資産を整理し直し、近代的な経理を導入したのだ。

 彼らの能力の高さは、社員が1万人ほどになり、グローバル企業となったワコールの副社長としても、まったく問題なく通用したことで証明されている。2人が、10人に満たない会社の番頭格として入社してくれたことこそ、ワコールの奇跡の快進撃の始まりであった。


 この3人の出会いは、『三国志』の中で劉備玄徳が、関羽張飛と桃園の誓いを交わす場面のような、ドラマチックで運命的なものを感じる。


 ところが実際には、三国志の3人とは少し違う、微妙な人間関係がそこにはあった。


 参謀役の中村に対して現場で汗をかく川口。時として冷たいとも言われた中村に対して人情家で知られた川口。何かと比較されることとなったこの2人の間には、性格の違いもあってしばしば見えない火花が散った。同級生であるだけでなく、同じ八幡商業柔道部の出身であったにもかかわらず、中村と川口が仲良くなることは一切なかったのだ。

 ワコールの快進撃は、近江商人のハーバード・ビジネススクールともいうべき八幡商業出身の男たちだけでは到底なしえなかった。和江商事をワコールにしたのは、女性たちの力だったのである。


 幸一は女性ならではの気づきをビジネスに取り入れ、彼女たちにやる気を起こさせ、先輩女性社員の活躍に後輩たちもまた奮起した。何も女性を特別扱いしたわけではない。イコールパートナーとして処遇したのだ。


 その歴史は昭和24年(1949年)にはじまった。ワコールの歴史を語る上で欠かせない第1号女性社員、それこそが内田美代であった。


 陸軍の軍人の家に育ち、戦前は裕福で女中が3、4人いたが、陸軍大佐だった父はニューギニアで戦死し、戦時公債は紙くずとなり、敗戦で一気に貧乏になってしまった。


 3人姉妹の真ん中だったが、上の姉は嫁に行き、内田が家を支えねばならない。


 桃山高等女学校(現在の府立桃山高校)を卒業すると、義兄の紹介で日本輸送機(現在のニチユ三菱フォークリフト)に入社し、設計課で働きはじめる。


伏見稲荷に近い京都市伏見区深草開土町に住んでいたが、町内会長がある日、内田家を訪ねてきた。


「友達が和江商事いう会社はじめよって、2人ほど女子事務員を探しとるらしいんや。おたくの美代ちゃんどうやろ」


 彼は幸一の八幡商業の同級生だったのである。


 日本輸送機は日本で初めてバッテリー式フォークリフトを開発した会社だったが、戦後は厳しい経営状態が続き、いつレイオフになるとも限らない状態だ。


 本人は乗り気ではなかったが、町内会長の押しの強さもあって、母親は面接だけでも言ってみろという。内田は周囲の説得に負けて、翌日、面接に行くこととなった。


 (二条通東洞院東入……)


 示された住所を訪ねていくと、確かに和江商事はあった。だが果たしてこれが会社と言えるのか……。


 外から見たらただの民家である。


 小さな部屋には、模造真珠のネックレスなどが所狭しと並べられていた。土間から一段高くなった畳の部屋で、一生懸命荷造りしている人がいる。


「すみません」


 内田が声をかけると、梱包のクッションとして入れていたわらくずをいっぱいつけたままの男が振り返った。幸一だった。


昭和3年(1928年)生まれの内田はこの時、21歳。幸一より8歳年下である。


 英語もそろばんも何も出来ない一人の女性が、世界企業ワコールの歴史を刻むべく、文字通りその玄関口に立っていたのである。

 もう一人、長谷川照子という女性も試験を受けた。長谷川は早くに退職したので詳しい記録が残されていないが、彼女も内田同様、女性社員第1号である。


 長谷川はソロバンができたが内田はからっきし出来ない。しかし、ともかく人がほしかった幸一は2人とも合格にした。

 ソロバンのできる長谷川は経理を担当することとなり、経理以外は内田が担当することとなった。内田の仕事は、ひと昔前のお茶くみである。接客と電話番、そして便所掃除。

 当時の社員は幸一を入れて10人。中村と川口のほか、高卒で採用した服部清治、中村が連れてきた福永兵一郎のほか、粂次郎の関係で入店してくれていた柾木平吾、三田村秀造、池澤喜和がいた。


 土間をあがった6畳ほどの畳の部屋に幸一と中村、そして内田と長谷川の4つの机が向かい合わせに置かれた。営業の川口たちに机などない。奥に台所と幸一たちの居住空間があり、2階には服部と福永が住み込みをしていた。

 やがて内田は在庫管理を任されることになった。

 この当時、女性の社会進出などという動きはつゆほどもなかった時代である。周囲の理解はなかなか得られなかったが、彼女は自分が任された仕事に対する責任感は人一倍あった。


 こんな彼女の努力をしっかり見ている人物がいた。ほかならぬ幸一であった。


 (さすが軍人の娘や。並の女性やない……)


 やがて内田の能力は、和江商事が女性ならではの商品を扱うようになって一気に開花していくのである。

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