文学作品を読むことは、作品の理解と解釈が一体化したものだ。それを声に出すことは表現である。つまり、読み手の意識を声というかたちにして表に現すことである。読み手の意識は声というものの流れとして表現される。そこで声の表現は音楽に近づいてくる。だが、ことばとしての意味を失うことはない。 https://t.co/3GVK2UEuM3
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2017年4月22日
言葉の表面しか理解できない人には文学は分からないだろう。文学というものは文字通りの情報の伝達ではない。言葉にウラオモテがあるのは当然だ。メディアはウラの意味を外してオモテだけを伝達するのだから、受け手はウラの意味を補う必要がある。文学作品を読む力とはウラオモテを総合する力なのだ。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2017年4月22日
ほんとうに確かな発声法を身につけた人は、歌や演技のときばかりではなく、全生活における語りぶりまでが自然でむだのないものになっている。発声を探究していくと最終的にはその人そのものを人間として磨きあげることになる。それは「発声道」とでも呼びたいような人生の「道」の探究につながるのだ。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2017年4月22日
発声の訓練として、寝転がったり壁を押したりするやり方がある。だがそれは特殊なもので「……のために」する訓練だ。演技では身体行動が手助けする。理想的な訓練法はそれがそのまま発声の実現となるような訓練だ。朗読ならば文学作品を読むこと自体が声の訓練になるような命がけの読みの実行である。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2017年4月22日