https://d1021.hatenadiary.com
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2015年
▽6月
22日 深夜にトルコから徒歩でシリア入り。ホブス工場に入れられる
23日 近くの民家に監禁
26日 深夜、車で移動し、集合住宅の地下牢に入れられる
29日 一戸建ての民家に移動

▽12月
7日 「日本に送るから個人情報を書け」と言われ書かされる

2016年
▽1月
6日 家族からの質問項目の答えを書かされる
16日 別の一戸建て民家に移動
19日 同じ質問項目の答えを再び書かされる

▽3月
15日 動画撮影

▽5月
9日 別の民家に移動
14日 ジャンダルマ?(憲兵隊?)拘束
23日 オレンジTシャツを着て、手書きメッセージを持って写真撮影

▽7月
10日 「ジャバル・ザウイーヤ」の巨大収容施設(地上5階、地下1階?)へ移動

2017年
▽10月
17日 動画撮影(2018年7月22日報道)

2018年
▽3月
31日 ロの字型・平屋のトルキスタン部隊の施設に移動

▽6月
半ば 「ウマル」の動画撮影(7月17日報道)

▽7月
5日 イタリア人の囚人が同じ施設に入れられる
25日 「ウマル。韓国人」の動画撮影(7月31日報道)

▽9月
4日ころ 動画撮影(未公開?)
29日 「ジャバル・ザウイーヤ」の巨大収容施設(地上5階、地下1階?)へ移動

▽10月
22日 一戸建て民家に移動
23日 「今からトルコ」と言われ車で移動したあと、トルコ情報機関の車に乗り換えてアンタキヤの入管施設に運ばれる

 ◆現地に入る方法を探っていたのですが、現地の組織にいくつか当たる中で、日本人の知人に紹介された、シリア難民の小学校を運営している人々と知り合いました。そこのシリア難民の紹介で、シリア人のガイドに知り合いました。

 彼は、イスラム国に殺害された後藤健二さんのガイドをしていた人です。後藤さんがイスラム国に拘束されて、ビデオが公開された時に、世界中で「I AM KENJI」と紙を掲げる運動が広まりましたが、彼もその運動をやっていました。

 トルコのアンタキヤで住んでいた彼が、顔を出してそういう行動をすることは一定のリスクがあるわけですが、彼はそういう行動をしていたということで、私は彼を信用しました。

 その案内をしていた2人組が「じゃあ、シリアに行こうか」と言ってきて。

 最初は、聞いている話と全然違う、と思ったのですが、これは自分でも分からないのですが、うーん、そういうものなんだろ、と思って、そちら側に入ってしまったんですね。これは自分でもおかしい、と思いながら、でも歩き続けてしまった。

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 その後の笹目秀和師には大苦難が待ち受けていました。戦後間もなくソ連兵に連行され、強制収容所に入れられたのです。
 それも普通の収容の仕方ではなく、厳寒の大晦日に最初入れられたのは、どんな人間でも3日で音(ね)を上げるという「水牢」なのです。早く言えば「水攻め」で、くるぶしまで水につかり放しという拷問です。寝台などなしで一日中その状態で立ち通し、夜はそのまま壁にもたれて寝るしかないのです。

 すぐに水につかった部分の感覚がなくなり何日か経つうちに腐りかけてきます。しかしこの拷問を笹目師は1ヶ月間耐え抜いたのです。それを可能にしたのが、シュロ神仙から教わった「太陽の精気を食(は)む法」でした。牢に一ヶ所30センチ四方の窓がありましたが、そこから1日3分間だけ太陽光線を受けて吸い込むだけで食事を全然与えられなくても生きられ、また全身に精気が循環し腐りかけた足も直ったというのです。
 いつまでも参らない笹目師を見て驚いたのがソ連の看守です。気味が悪くなったらしく水牢から開放してくれ、シベリアの強制収容所送りとなったのです。

https://d1021.hatenadiary.jp/entry/20160827/1472294486(モンゴル神仙邂逅記)

官房長官は午後の記者会見で、「政府にとって邦人の安全確保は極めて重要な責務で、国民が危険にあった場合には可能なかぎり支援をしてきている。ただ現在、退避勧告渡航中止勧告が出ている危険な国・地域には、取材活動を含め、どのような目的であっても絶対に渡航を見合わせるようにお願いしている」と述べました。

また菅官房長官は、安田さんが記者会見で「拘束していた集団が日本側が金を払う用意があると言ってきた」と述べたことについて、「日本政府は、『国際テロ情報収集ユニット』を中心に関係国に協力を依頼し、さまざまな情報網を駆使して全力で対応に努めてきた。事案の性質上、詳細は差し控えたいが、いずれの場合にも身代金を払うことはない」と述べました。

 安田さんは、「退避勧告」が出ていたシリアに入った理由について、反政府勢力の支配地域であるイドリブ県を取材するためだったと説明。知人から、後藤健二さん(2015年に殺害)のガイドを務めたシリア人を紹介され、現地案内を依頼したという。

 15年6月22日深夜、トルコとシリアの国境の山岳地帯に入った。「車で迎えが来る」と言われていたが、ガイドがシリア側の様子を見に行っている間に、付近を通りかかった2人組に「シリアに行こうか」と声をかけられ、ついて行ってしまったという。約1時間歩くと、「ここが国境だ」と言われ、2人組の仲間に両腕をつかまれて車に乗せられ、拘束された。

 シリアに入った直後に拘束されたため、取材はできなかった。入国前の準備不足との指摘もあるが、安田さんは「彼(ガイド)を信用していた。ある程度、任せざるを得ない部分がある」と話し、今後の取材活動は「全くの白紙」と述べた。

日本国内で安田さんの行動について、「自己責任」という言葉とともに批判が出ていることに、安田さんは、「皆様に批判いただき、検証いただくのは当然のこと」、「紛争地のような場所に行く以上、当然、自己責任だと考えている」と話した。

安田純平さんは2時間半余りにわたった記者会見のあと、NHKのインタビューに応じました。

この中で安田さんは「皆様に時間をいただき、本当に概要だけだったがいくらか現地であったことについて説明することの責任の一端が果たせたのならうれしいと思う」と会見を振り返りました。

そのうえで、2日の会見で自分が拘束されていた場所の手がかりを少しでも伝えたいと、先月25日に帰国して以降、現地のシリア人などと連絡を取り合っていたことを明らかにしました。

安田さんは「生きて日本に帰ることを1度も諦めたことはなかったか」という質問に対し、「それはなかった」とはっきりとした口調で語りました。

そして、解放の直後、取材に対し「望まない解放のされ方だった」などと述べたことについては、「身柄の引き渡しという解放の形は何かしらの対価があったように見え、身代金が支払われたとしたら私はそれは望んでいなかった」と発言の真意を説明していました。

また、2日の会見の中で日本政府に感謝の気持ちを表したことについて、「武装勢力のメンバーから日本政府が連絡を絶ったということを聞いた時には、場合によって、その決定で私が殺されるかもしれないわけで、私のミスで政府の担当者が心に負担のある決定をしなければならなかったことを申し訳ないと思うし、そうしたことも含めて対応していただいたことに感謝している」と話していました。

一方、「自己責任」をめぐってさまざまな意見が出ていることについては、「当事者なので私自身が何かを言うことは妥当であるのか悩んでいる」としながらも、ジャーナリストが紛争地帯などの現状を伝える意義については、「日本から離れた場所でも、そこにいる人たちがどんな状態にいるのか想像すること、共感することは必要なことだと私は思っている。関係ないと思っていても実は関係があり、当たり前の生活ができていない人もいることに共感することを私はしたいと思っているし、それができるような情報を提供したいと思い、この仕事をしている」と話していました。

そして、「今回の私の行動について検証、批判をしていただくのは当然だと思うし、同時にそういう現場があることにも関心を進めてもらえるとありがたいと思う。そのために私が持っているかぎりのものは提供していきたいと思っている」と話していました。

私自身の行動によって、日本政府ならびに多くの皆様に、ご迷惑おかけした事もあるので、私自身に対して批判があるのは当然のことであると考えています。何があったのかという事も含めて、みなさまに批判や検証いただくのは当然だと思っておりますので、特に私の側から疑問はないです。

ただ、(批判が)事実に基づかないものというのもあるように思いますので、あくまでも事実に基づいたものでやっていただきたい、というお願いはあります。

自己責任については、当事者の私が述べるのは、非常に言いづらいものがあるのですが、紛争地という場所に行く以上は、当然、自己責任と考えています。紛争地において、日本政府が何かしらの救出するのは非常に厳しい環境にある。だからこそ、政府は退避勧告を出している。

そこにあえて入ってく以上、相応の準備をし、何か起きた場合は自分で引き受ける態勢と、心の準備をして入るものだと思います。そういった中で自分の身に起こることに対しては、はっきり言って自業自得であると考えています。

これは一般論になりますが、そういったことと、行政がどう対応するかは別のもので、その本人がどういう人物であるか、どういう準備をしたかと、行政がどう対応するかは全く別として存在していて、本人がどういう人かよって行政の対応が変わるとなると、民主主義国家として重大な問題であると思います。

今回の外務省の対応について、国として、行政としてやるべきことをやっていただいたと解釈しています。

紛争地で人質になった邦人の救出や情報収集は難しい中で、可能な限りの努力を3年4カ月続けていただいたと解釈しています。

解放のきっかけや経緯は分かりませんがら、日本政府の原則として邦人救護は必ずやる、身代金は絶対に払わない、この2つの大原則なのですが、その範囲でできることを探っていただいたという風に解釈しています。

外務省の職員の方とも話して情報収集した内容を伺っているが、報道されている私の近況や外務省から聞かされた私の近況は、事実と異なっている。トルキスタンの施設に独房にいる間、2部屋を使っているとか、壁が高くなっているので本人が神経質になっているとか、これは事実に基づかない。

外務省に入ってきたのは事実に基づかない情報があって、情報収集が困難だったと伺える。この機会に、あたかも、拘束者とつながっているかのふりをして、話を持ちかけてくる人がいるので、本当に私の動きを知っている人物を選ぶのは難しい。

本当に拘束している組織に接触するのは、外務省であっても困難だったと思われます。そう理解しているので、外務省の対応に不満はありませんし、やることをやっていただいた、家族のケアもしていただいと思っています。

(外務省の方に)身元確認をされた時に、その言葉を伝えました。

https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/11/01/200010(玉川は安田の業績について答えられず、個人が第一義的に責任を負うとする橋下に軍配が上がり、救済以前の自己責任を認めざるを得なかった。)

www.youtube.com

Great ending, but you cut this edit too short...

スパイ・ゲーム - Wikipedia

1991年春。伝説のCIA工作官、ネイサン・ミュアーは、あと1日で引退を迎えようとしていた。引退の日を平穏無事に迎えるかに見えたが、ミュアーの友人でCIA香港支局長のハリー・ダンカンからの電話により、手塩にかけて育て上げた工作官のトム・ビショップが中国でスパイ容疑で逮捕されたことを知る。本来ビショップはダンカンが指揮をとっていた米中通商会談の盗聴作戦に従事するはずであったが、許可なく中国人協力者を指揮して蘇州刑務所に侵入していた。米中関係の親密化を優先するホワイトハウスの意向で、CIAはビショップを見殺しにしようとする。CIA本部ではミュアーの同期であるフォルジャー工作担当次官が座長を務め、ビショップが無許可で作戦を遂行した理由を調査していた。

ミュアーは何とか時間を稼ぎ、ビショップの解放を外交交渉に委ねるように事態を仕向けたが、CIAはホワイトハウスの意向を優先し、ビショップが処刑されるのも時間の問題となった。ミュアーはビショップを救出するため、CIA長官名義の命令書を偽造して蘇州刑務所に近いアメリカ軍基地に送付し、救出作戦を指令する。並行してダンカンを介し中国の地方政府関係者を買収し、刑務所を停電させる。CIA本部での会議が終わりミュアーが退席してしばらくした後、フォルジャーの元に非正規作戦の報告が入る。ビショップとエリザベスは救出され、ヘリに乗り込み刑務所を脱出する。ビショップは隊員から作戦名が「ディナー・アウト作戦」だと聞かされ、ミュアーが自分のために行動してくれたことを悟り泣き崩れる。

ベイルート時代、ビショップは、モサドKGBでも知りえなかったミュアーの誕生日を調べ上げ、酒類の入手が困難な中東で「スキッドボトル」をミュアーの誕生日の祝いとして贈るという「ディナー・アウト作戦」を遂行しミュアーを驚かせたことがある。