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 自民党第3派閥の額賀派額賀福志郎財務相の会長退任を求める「額賀降ろし」が勃発した。同派の歴史を振り返ると、キングメーカーとして君臨した田中角栄元首相率いる田中派を乗っ取る形で竹下登元首相が経世会を旗揚げするなど、党総裁選を引き金にした「血塗られたクーデター」による分裂を繰り返してきた。平成に入っても骨肉の抗争劇はなお健在のようだ。


 昭和47年7月、長期政権を築いた佐藤栄作首相(自民党総裁)の退陣表明に伴う総裁選で、田中氏はライバルの福田赳夫元首相を決選投票の末、退けた。佐藤派領袖の佐藤氏は福田氏を推したが、これに不満を募らせた佐藤派所属の田中氏は総裁選前から派内で多数派工作を画策して田中派を結成、分裂した。


 その田中派は最大派閥に躍進し、「数の力」と「鉄の結束」を武器に政界の実権を握った。だが、田中氏のロッキード事件での逮捕を境に求心力は低下した。田中氏は「闇将軍」として他派閥の有力議員を首相に担ぐ一方、派内からは総裁候補を出そうとしなかった。後継者も決めない状況への不満も渦巻いていた。


 そこで反旗を翻したのが当時次代のリーダーと目されていた竹下氏だ。派内に勉強会「創政会」を立ち上げ、62年の総裁選前に田中派140人のうち110人超を引き連れて飛び出し、総裁の座を手に入れた。


 創政会は「経世会」(竹下派)に衣替えし、「竹下支配」が続いたが、平成4年、またも派内抗争が表面化した。最大派閥の竹下派領袖は事実上、党総裁、首相の座に直結する。羽田孜氏を推す小沢一郎氏らに対し、反小沢勢力は小渕恵三氏を支持した。結局、小渕氏が派閥領袖に就任し、これに反発した小沢、羽田両氏らは竹下派を離脱した。


 小渕派時代の10年も総裁候補として小渕氏を担ぐことに反発した梶山静六氏が、額賀派時代の23年には石破茂氏らが相次いで離脱した。ただ、過去の分裂劇は後継者が総裁を目指して飛び出すケースが多く、「総裁候補不在」という今回の抗争は少し事情が異なっている。

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 官僚を生かすためには政治主導が必要だ。しかし、今の日本の政治に、本当の政治主導があるだろうか。


 昔は自民党の政調がすべてを決めていた。オールマイティーだった。そこを通らないと各省庁は何もできなかった。今は政調も総務会も全然役割を果たしていない。

党を作っているのは政治家だ。その政治家が死んでしまっているから、党が死んでしまい、政治が死んでしまっている。

 それは政治家がサラリーマン化したからだ。国から給料をもらって、大臣にしてもらって喜んでいる。自分たちで本当に政策を作っているのか。

 官僚の作文がそのまま法律として成立して、それに国民が従う。国民の代表は政治家であって、官僚ではない。官僚が作った法律に賛成しているだけでは、国会の意味がない。選挙をして国会議員を選んでも意味がなくなる。民主主義の危機だ。


 当時の検察関係者によると、政界ルートでは、特捜部は「江副と中曽根の関係はかなり濃密」と判断していた。中曽根の秘書ら3人に計2万9千株の未公開株が渡り、およそ6千万円の利益を得ていたことをつかんでいた。検察でいう「射程圏内にあった」とされるが、職務権限と結びつかず立件は見送られたという。

 人事権を握る政治家は官僚に強く、許認可権をもつ官僚は業者に強い。そして金と票をもつ業者は政治家に強い−。この「トライアングル」は補完し合うことで力を増していた。業者は政治家を通して官僚への食い込みを図る。リクルート事件も同じ構図だった。

 リクルート事件は、特捜部が過去に摘発した造船疑獄事件やロッキード事件と肩を並べる政界、官界、財界を巻き込んだ大疑獄事件となったが、その背景には当時が「金権政治」の全盛期だったことがある。

 51年に発覚したロッキード事件など「政治とカネ」の問題が起きるたびに政治資金規正法が改正され、政治家は自力で資金を集めなければならなくなった。


 その一方で、選挙にかけるカネは増え続けた。中選挙区制で、政策に違いがない自民党議員同士が激しい選挙戦を繰り広げるため、資金力や利益誘導などで競うようになったからだ。その結果、金銭感覚はさらにまひした。


 産業界も官僚主導の政策決定や中央官庁の許認可に関与するには自民党の有力な「族議員」を押さえておけばよかったが、幅広く手を打たなければ政策決定などをコントロールできなくなっていった。実際、リクルート社も職務権限がない国会議員にまで未公開株をばらまく“じゅうたん爆撃”を仕掛けていた。

 特捜部がリクルート事件に続いて手がけたのが、東京佐川急便事件だった。平成4年8月、東京佐川急便の元社長から自民党副総裁、金丸信への5億円献金問題が表面化した。元幹事長の小沢一郎は首相、宮沢喜一に「恣意(しい)的な権力の執行はよろしくない」と訴えたが、約1カ月後、金丸は政治資金規正法違反の罪で略式起訴される。


 金丸が率いる自民党最大派閥の竹下派経世会)は当時、全国に張り巡らした支持組織や地方議員のネットワークを武器に、政・官・業のトライアングルの中心に君臨していた。その「本丸」に特捜部は切り込んだ。


 小沢は、これまで国会議員が政治団体のことで直接刑事責任を問われることはなかったのに今回はなぜ刑事責任を問うのか、と釈然としないでいた。


 リクルート事件で大物政治家たちは軒並み立件をまぬがれ、国民の「政治不信」は高まっていた。それだけに、特捜部は東京佐川急便事件では、捜査を牽制(けんせい)する永田町からの「雑音」を避けるため、国民世論を味方につけようと動いていた。


 小沢は徹底抗戦の戦略を描いたが、国対委員長梶山静六ら反小沢系の竹下派有力議員はさっさとけりをつけた方がよいと考え、特捜部の動きを黙認した。派内の主導権争い、権力闘争に検察捜査を利用したという構図だった。


 小沢は後年、「権力闘争的な面もあった」と周囲に語っている。行き着いた先は竹下派分裂だった。それは自民党下野、55年体制崩壊の引き金となり、今も続く政界流動化につながっていく。


 平成4年8月27日、東京・永田町の自民党本部。記者会見した党副総裁、金丸信は、東京佐川急便の元社長からの5億円の献金受領をあっさり認めた。「私の不徳の点が多々あった。責任をとるべきだと思う」。そう語ると、副総裁と竹下派経世会)会長の辞任を表明した。


 当時の経世会は「鉄の結束」を誇る自民党最大派閥。党内だけでなく、政・官・業に圧倒的な影響力を持ち「経世会支配」と言われていた。トップに立つ金丸は「政界のドン」と呼ばれ、時の首相、宮沢喜一も金丸の“ツルの一声”で誕生したとされるほどだった。


 その金丸が多額献金を認めた。「同志への陣中見舞いと認識した」。何か意図があるのか、権力者の慢心か−。さまざまな観測が広がったが、この会見こそが、今も続く政界再編の動きが始まった瞬間だった。

 その4日後、神奈川県箱根町で行われた経世会の議員研修会。自民党総務局長、野中広務が挙手し、発言を求めた。派閥事務局長の船田元が許可すると、野中はおもむろにこう訴えた。


 「わが派のなかで不穏な動きがある。経世会として一致団結してきた流れから見て由々しき問題だ」


 会場は騒然とし、出席議員の表情はこわばった。金丸の寵愛(ちょうあい)を受けた会長代行、小沢一郎を公然と批判したと受け止めたからだ。小沢系と反小沢系の対立は決定的となった。

 いったんは「金丸−小沢」態勢を維持することでまとまったものの、金丸が10月14日、議員辞職願を衆院議長に提出。経世会オーナーの元首相、竹下登リクルート事件の影響で表舞台から身を引いていたため、小沢系と反小沢系による「跡目争い」が本格化する。

 迎えた10月21日。この日は竹下派の後継会長選びの決着期限だった。


 これに先立つ20日の最高幹部会。反小沢系の橋本龍太郎は「小渕恵三を推薦したい」と発言した。船田は小沢を推したが、小沢は「時期尚早だ」として拒み、「羽田孜を推薦したい」と語った。


 事前の打ち合わせで「小沢推薦」のシナリオができていたため、船田は目を丸くし、小沢系の佐藤守良と顔を見合わせた。だが、小沢の発言は「絶対」。羽田VS小渕の構図が固まった。


 小沢系は多数派工作を進めており、経世会衆院議員67人のうち36人の署名を集めていた。


 小沢「羽田を推薦する」


 橋本「羽田は閣僚(蔵相)だ。国事優先だ」


 21日の午前10時に始まった最高幹部会は双方がつばぜり合いを演じ、決着にはほど遠いまま。日付が変わった頃、幹部会座長の派閥顧問、原田憲が突如、幹部会を中座し、記者団に「会長は小渕君が適任と考える」と見解を表明した。


 小沢は「座長としての職務放棄だ」と反発。幹部会を飛び出すと午前2時45分過ぎ、小沢系議員らと記者会見を開き、座長見解の白紙撤回を要求した。だが、中立を装っていた参院議員42人が「座長見解」支持で結束。22日の最高幹部会は小沢らが欠席する中で「小渕会長」が決まる。


 船田はその時のことを、こう振り返る。「わが派は昔から参院が強い。『参院の岩盤』という力を竹下さんが利用しないはずはない」。文字通り、小沢も認める権力争いだった。