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 玄洋社はふつうのありきたりの歴史では“超国家主義の源流”などと評されてきた。が、初期の玄洋社自由民権運動の結社であって、母体となった向陽義塾(向陽社)は高知の立志社を凌ぐ勢力だった。頭山は「わが福岡こそは憲政発祥の地であった」としばしば豪語したものだ。
 これは考えてみれば当然のことで、西南戦争はそもそも九州に吹き荒れた嵐だった。不平士族は西南にいた。自由民権の狼煙はこのあとに西郷とともに下野した板垣らによっておこるわけだが、その中心地が板垣の高知と西郷の薩摩だった。それゆえ西郷を死なせた大久保利通を討ちたいという思いはこの九州勢にこそあった。すでに佐賀の乱や熊本神風連などで佐賀や熊本が根こそぎやられていた。
 こうした状況や条件を数えあげてみれば、自由民権の狼煙の中心のひとつが福岡筑前だったことは、だいたい予想のつくことなのだ。実際にも箱田六輔は大久保暗殺を企てていた。
 この地にはまた、他の日本列島の各地とは異なる格別の動向も渦巻いていた。二つ、ある。ひとつは、ここが石炭の積み出しセンターであったことだ。これは筑前筑豊筑後が日本のエネルギー資源の中心であったため、ここに集散する人間の鋭気と勇気と覇気をいやましに形成した。もうひとつは、アジアの風である。玄界灘の向こうは朝鮮半島とアジア大陸だ。これはかつての堺や長崎同様に、筑前を燃え続けさせた。すでに明治10年代に、筑前ではのちの日清戦争を予兆するがごとき対清国義勇軍が準備されたりもして、この風が最後まで玄洋社に吹きまくることになる。

 明治時代とは日本の富国強兵と朝鮮半島の動乱と中国革命とが一緒くたに驀進していた時代でもある。したがって、この三国をまたぐ人士は三国ともに多かった。頭山はこの3つの国をまたぐ者を愛した。擁護し、激励し、資金を渡し、その身を匿い、仕事を与えた。

 日本の近代は黒船このかた条約改正の歴史であった。どう不平等条約を撤廃するか、それが近代国家の最大の課題だった。

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 明治維新の元勲は、言ふまでもなく西郷・木戸・大久保の三人を推すのである。然るに昨年木戸は病を以て没し、西郷は叛して斃(たお)れ、内外の機務は一に大久保の手によつて決せられることとなつたが、其の大久保が今や刺客の刃に発れ、維新の三傑また一人を留めざるに至つた。天下は再び動揺するかに見えた。翁は時を移さず土佐に赴いて板垣退助を高知に訪ふた。

 明治十年以前は、政府反対党の中心は鹿児島を以て目せられ、十年以後は高知を以て目せられた。前者の泰斗(たいと)はいふまでもなく西郷南洲であり、後者のそれは板垣退助である。前者は保守主義を執り、武力を以て反対し、後者は急進主義を執り、言論を以て反対せんとする。等しく政府と対立するも、其の方針は全く相反する。而して保守的武断党の反対は遂に西南戦争に於て敗れたので、今や進取的言論党が其の全力を現すべき機会が来たと言はねばならぬ。

 板垣は翁に向つて、武力を以て政府と抗争するの不可なること、また仮令可なりとするも之を可能とする時代の既に去れることを説き、宜しく言論を以て武器に代へ、自由民権の旗印の下に、全国民の輿論を味方として藩閥政府と戦ふべきことを力説し、遂に翁を説得した。

 さて土佐より帰りて福岡に民権運動の基礎を置いた後、明治十二年の暮、頭山翁は同志四人と共に薩・摩への旅を思ひ立つた。それは予て憧憬せる大西郷の故山を訪ひ、既同志を残存の薩南志士の問に求めるためであつた。一行は懐中無一文で、福岡から鹿児島まで徒歩で往つた。先づ武村に西郷の故宅を訪ふた。時に西郷家には、西郷が沖永良部島流謫(るたく)中に相識の間柄となれる川口雪蓬が、西郷の死後も其家に留まつて遺児の薫育に当つて居た。川口雪蓬は大塩平八郎の養子格之助であるとの説もあるが、未だ真偽を決し難い。

 とにかく罪ありて沖永良部島に流され、西郷に後れて赦された学者で、白髭を蓄へ、眼光燗々、犯し難い風手の老人であつた.翁の一行が来意を告げると、老人は慰勲に応対し乍ら言った。 『鹿児島は今や禿山となつた。先年までは天下有用の材が茂つて居たが悉く伐り倒された。今から苗を植付けても容易に大木とはならない。わけても西郷ほどの大木は百年に一本、干年に一本出るか出ないかだ』 と。

翁は晩年に当時のことを回想して、其頃の鹿児島は誠に川口老人の話の通り、何とも言へぬ寂しさであつたと述懐して居る。

 翁は川口老人から西郷の話を聞き、また其の遣品を見て、西郷に対する尊敬の念を深くした。此時老人は、西郷が愛読せる大塩平八郎の 『洗心洞箚記』 を翁に示した。西郷は幾度びか繰返して此書を読んだものと見え、摺り切れた箇所には自ら筆を執りて書入れたり、また紙の破れた箇処もあつた。また西郷愛蔵の大塩平八郎の書幅もあつたが、その表装が極めて立派なのを見て、翁は西郷が深く大塩に傾倒して居たことを知つた。

 翁は洗心洞箚記を借りて旅宿に帰り、熱心に之を読んだ。而して薩摩を出立する時に借りたまま福岡に持ち帰つた。川口老人は翁が秘蔵の本を無断で持ち去つたので大に怒り、其後福岡の有志が鹿児島に赴く毎に、翁の処置を非難した。翁は之を聞いて一書を川口老人に送り、折角拝借した以上は存分に味読したい、此書の精神を体得した上で返上すると告げ、其後程なく返送した。

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「明治の政変から敗戦をへてようやく実現した国民主権の戦後体制が、長州出身の首相ら明治国家を懐かしむ勢力によってむしばまれようとしている。戦後体制に問題があったとしても、明治には戻るべきではない」と西原春夫早大名誉教授

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西郷南洲にしろ、モーゼにしろ、目的論や結果論では、理解出来ないところがある。言い換えると、結果的に成功したとか失敗したとかいう通俗的な勝敗史観では理解出来ないものがある。しかし、理解出来ないところがあるにもかかわらず、西郷南洲とモーゼの影響力は絶大である。福沢諭吉から内村鑑三三島由紀夫江藤淳まで、一流の文化人や思想家で、西郷南洲を、絶賛しないものはいない。何故か。しかし、多くの歴史学者や歴史作家は、それを、理解出来ない。彼等は、歴史を、目的や結果でしか考えない。その典型的な見本が、戦後、岩波新書から出た圭室諦成(たまむろたいじょう)という歴史学者の書いた『 西郷隆盛』(1960 )だった。この本は、西郷を、「 保守反動」とか「 頑迷固陋」とか、これ以上ないと思われる言葉で罵倒し、批判している。

巻末に「 1982年東京大学文学部国史学科卒業 」とある。この本は、岩波書店から出たということもあって、それなりの影響力を持ったはずである。司馬遼太郎の「 西郷は学がなかった 」「ウドのタイボクだった 」という西郷論にも影響を与えているのではないかと思っている。しかし、この本は、現在(2019/1 )、絶版になっている。岩波書店は、何故、この古典的名著(笑)を、あわてて絶版にしたのだろうか。岩波書店は、圭室諦成(たまむろたいじょう)の『 西郷隆盛』を絶版にするのとほぼ前後して、別の著者( 都筑隆明 )による『西郷隆盛 』( 1992 )を出している。不思議である。何があったのだろうか。何故、変える必要があったのだろうか。何か、決定的な間違いでもあったのだろうか。

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維新の最大の功労者,西郷はなぜ反乱をおこしたのか.またなぜ,復権されるのか.根強い民衆的人気の秘密は何か.その実像をさぐるには,西郷が打倒しようとした明治政府権力の性格こそ検討されなければならない.気鋭の近代史家が,幕末動乱から征韓論争,西南戦争にいたる,西郷の栄光と悲劇の意味を読み解いていく.

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猪飼 隆明(いかい たかあき、 1944年2月13日- )は、日本の歴史学者大阪大学名誉教授。専門は日本近代史。

福井県越前市(旧武生市)出身。京都大学文学部国史学科卒業、同大学院文学研究科博士課程満期退学。熊本大学教養部助教授、教授、大阪大学文学研究科教授。2007年定年退官、名誉教授。

結果論による西郷論は、西郷論として失格である。

西郷南洲大久保利通を描いた『翔ぶが如く 』という歴史小説は、勝利者である「 明治新政府 」側から描かれているのである。勝利者川路利良( 警察官僚 )のフランス留学と、敗者の桐野利秋の生まれ故郷「 吉野村」の描写から始まる。徹頭徹尾、勝者が賞賛され、敗者は批判=罵倒されている。だから、司馬遼太郎は、日露戦争までは歴史小説に書いたが 、ノモンハン事件や太平洋戦争は、司馬遼太郎歴史小説のテーマになることはなかった。そういう司馬遼太郎通俗的な大衆娯楽小説の歴史解釈に抗議したのが、三島由紀夫江藤淳だった。特に江藤淳は、「失敗への情熱 」というテーマを主題に、西郷南洲西南戦争を、『 南洲残影』に描いた。

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私は決して保守論壇の人間として歩みを始めたつもりはないんです。「私の『戦後』観」では確かに反進歩主義史観、反敗北主義的平和観を論じましたが、それが中心テーマではなく、西洋と日本の文明を論じる者として、そして専門のニーチェをはじめ小林秀雄福田恆存らの思想を論じる文芸評論家として「論壇」にいたつもりです。

――わかりました。西尾さんの文芸評論家としての姿勢をお伺いしたいのですが、80年代に浅田彰中沢新一らが牽引した「ニューアカ」ブームがありましたよね。

西尾 ああ、ありましたね。

――これはフーコードゥルーズデリダといったフランス現代思想の最先端を日本の若手研究者らがキャッチアップして展開した「知のトレンド」とも言うべきものでした。その起源には大きくニーチェの思想もあるかと思いますが、西尾さんは「ニューアカ」をどのようにご覧になっていましたか。

西尾 嫌悪感でしか見ていませんでしたね。あれは偽物です、完璧な。

 私はああいう偽物が一番嫌いなんですよ。

 ニーチェを理解していないとか、そういう話以前の問題です。つまりあのブームはただ進歩的なことを言うだけのものでした。こうした知的な流行は保守の側にも起こることがあるけれど、概して言えることはそこに「根っこ」がないことですね。根っこがないから流行って廃れる。

 時流に乗ってもてはやされていた言論人が消えるとはそういうことです。

私は「つくる会」に対して“日本人に誇りを”や“自虐史観に打ち勝つ”だけが目的の組織ではないという思い、もっと大きな課題、「日本から見た世界史の中におかれた日本史」の記述を目指し、明治以来の日本史の革新を目ざす思想家としての思いがある。だから、ずるく立ち回って妥協することができなかった。そこが私の愚かなところ。

 メンバーの藤岡信勝の名誉を毀損する怪文書事件なるものが起き、藤岡は名誉毀損裁判で敗訴するものの、八木グループがそのデタラメな文書をばらまいたこと自体は裁判で証明され……。昨日まで仲間として、有志としてやってきた者たちがなんでこんな卑劣なことまでしたのかと。でも、私が一番許せなかったのは、そしてこの紛争の中心人物は安倍晋三ですよ。それは、この騒動のそもそもが旧生長の家、現在の日本会議に端を発していることからもお分かりでしょう?