ついに来ますね。592ページ。 『有用な敵対者 1450年から1750年までの西洋政治思想におけるイスラムとオスマン帝国』Noel Malcolm, Useful Enemies: Islam and the Ottoman Empire in Western Political Thought, 1450-1750. https://t.co/iRyhV7iQtI
— Kuni Sakamoto (@kunisakamoto) 2019年3月1日
届いた本を読むと、antiquarianism という言葉がよく見られる。
— Ru Kato (@strkt1017) 2019年3月1日
これ、ここ数年来のキーワードのひとつです。うまい訳語があるのかな? https://t.co/aSopKlAY9Z
— ✨ ヒロ・ヒライ (@microcosmos001) 2019年3月1日
犬塚元先生の思想論文「「啓蒙の物語叙述」の政治思想」(2009)に「歴史とは区別される古事学 antiquarianism/ erudition」との記述があって、なるほどなと読んだ記憶があります。https://t.co/RfMsuMIrfb
— Hemmi Tatsuo (@camomille0206) 2019年3月1日
ありがたいことに、犬塚先生から直接コメントをいただきました。木庭顕先生が論文でお使いになった訳語に倣われたとの由。確かに、例えば『政治の成立』(1997)『デモクラシーの古典的基礎』(2003)でこの語が用いられ、索引にも見つかります。犬塚先生、ありがとうございます。https://t.co/65bpJJkmlY pic.twitter.com/ArU1WkIYsu
— Hemmi Tatsuo (@camomille0206) 2019年3月1日
骨董(こつとう)癖,古物収集癖,好古趣味 《★時に歴史家の研究を軽蔑する時に用いられる》.
法制史学の重要性を世間に向けてアピールし関心と理解を喚起することは、もとより必要なことでしょう。学問研究は、本来は研究それ自体を目的になされるのかもしれませんが、単に暇つぶしの好古趣味であるかのように思われては、生存領域がどんどん狭められ絶滅の道を歩むことになりかねません。かといって、即時の実用性や新奇性を求められるままにその場しのぎの対応を繰り返してばかりいては、地味な基礎研究が痩せ細り、長期的により大きな危険を冒すことになります。
今何よりも大切なのは、基礎的な営為を枉げることなく保つことでしょう。世界が大きな変革期にさしかかっている今だからこそ、従前自明とされていたことがらを基礎に遡って問い直し捉え直す研究は、いっそう重要な意味を持つはずです。法学と歴史学に基礎を置く法制史学のディシプリンの根幹を強く意識し、しかし狭い専門領域に引き籠り孤立するのではなく、関連諸分野との緊張関係を意識的に保つことによって、学問分野としての存立を鋭く磨き上げることが、今我々にできること、なすべきことに他なりません。
「歴史上の様々な社会において、人々の振舞いがいかに条件づけられていたか」に関心を寄せる法制史学は、他の多様な分野と密接な関わりを持ちます。比較法学や法社会学など「法」の諸相を対象とする分野だけでなく、例えば経済史学のように「法」とは別の観点から社会構造を分析しようとする分野の研究者からも、法制史学に対する強い関心が寄せられることがあります。そこには、法を(例えば)「経済」の外部条件として自明視してしまうことへの強い警戒と反省が見られるわけですが、そのことは同時に、経済を「法」の外部条件として平板に捉えてしまいがちな法制史学者に対する警鐘でもあります。
顧みれば、日本の法制史学はそもそものはじめから、異なる地域、異なる時代の比較に強い関心を寄せてきました。或る時代・地域の構造を他の時代・地域と比較し、差異を分かつ条件を析出し検証し、条件変化のメカニズムを動態的に捉えることこそが、日本の法制史学の本領であるはずです。状況が厳しさを増す中で法制史学の存立を維持しようとするならば、そうした原点に立ち還り、自らの拠って立つ基礎を不断に問い返す営みによって、新たな学問的ダイナミズムが生み出される可能性に、延いてはそのことが状況の改善に結びつく可能性に、私たちは賭けるしかないのです。
そうした比較のための資源を、「比較法制史」の伝統を継承している我々は、豊富に持っているはずです。日本・東洋・西洋と異なる地域、古代から近代にわたる異なる時代を研究対象とする専門研究者を幅広く擁する法制史学会は、これほどの多様性を抱えていながら、総会において対象地域別・時代別の「部会」を設定することなく、全て一つの会場で進行することを例としており、参加者は多様な分野にわたる全ての報告を聞き討論に参加することができます。
近代法学と結びついた西洋法制史・比較法制史学の手法と、近世に遡る古事学・考証学の伝統とが、有機的に結びついて議論の共通の基盤を提供しているといえるのかどうか。関連する他分野の動向に(「法制史学」の内部に局限してさえ)反応する敏感さを備えているのだろうか。あらためてそのように問えば、我々はまだ、我々の有利な立場を充分に活かしていない、まだまだ考えるべきことは多い、のかもしれません。
19世紀以後に制度化して定着しなかった、もうひとつの知の歴史伝統がまさにヒライさんらが光をあてておられる領域なので、近代学問の訳語にしづらいところがありますね。私も同じ悩みを持っています。でもまさにそこがアツイわけです。お互いにがんばりましょう(笑)
— Hemmi Tatsuo (@camomille0206) 2019年3月1日
#インテレクチュアル・ヒストリー
この書は王朝時代には司馬光の名と相まって、高い評価が与えられてきた。また後述のように実際の政治を行う上での参考に供すべき書として作られたこともあり、『貞観政要』などと並んで代表的な帝王学の書とされてきた。また近代以後も、司馬光当時の史料で既に散逸したものが少なくないため、有力な史料と目されている。
本書の作製方法としては、可能な限りの資料を収集し、それを年月日に整理し直して一つの一大資料集(長編とも呼ばれた)を造り上げるという第一段階。次いでその大資料集を下に、司馬光が治世に役立つもののみを択び取り、『資治通鑑』として完成させるという第二段階があった。
このうち、第一段階は司馬光自身が全て行ったのではなく、漢代はその専門家劉攽(当時の著名な学者であった劉敞の弟)が、唐代は司馬光の弟子范祖禹が担当し、最も難関とされた南北朝時代は当時の史学研究の第一人者劉恕が担当した。そのため、当時としては最も優れた歴史編纂の一つとなった。なお劉恕の史料収集は余りに完璧であったため、司馬光はただ出来上がったものを手にするだけで、自分では何もしなくてもよかったと言わしめたほどである。
司馬光はこの書を編纂するに当たって、編年体を取ったことからも、春秋の書法を相当程度意識している。これらは彼の文集に残る諸書の記述や、当時の著名な春秋学者であった劉敞(劉攽の兄)への書簡のやり取りなどからも確認することができる。また、考証が必要な資料に関しては、別に『通鑑考異』30巻としてまとめられている。同様に、年表として、『通鑑年表』30巻も用意されている。
本書が以後の中国史学界に与えた影響は非常に大きく、同じく編年体の歴史書や、編年体の欠点を補うものとしての紀事本末体の歴史書が相次いで編纂された。