【歴史学者亡国論■呉座勇一への公開状( 6) 百田尚樹『 日本国紀』を巡る八幡和郎や 井沢元彦等と呉座勇一の論争を検証していくと、最近、顕著になりつつある、ある現象に気付く。下世話な話だが、それは、「 東大大学院博士号取得者」たちの就職難という現象だ。 https://t.co/8G191gCZev
— 山崎行太郎の毒蛇山荘日記 (@yamazakikoutaro) 2019年4月6日
しかし、この問題は、実は、くだらない問題ではない。現代曰本の社会や文化に巣食う病巣であり、しかも、それは、現代日本が直面する根本的な 、深刻な病魔であるからだ。日本の社会全体が、「学歴主義化=組織の空洞化」しつつある。私が、文学関係の文章を書き始めた頃も同じような現象が起こりつつあった。「文壇の高学歴化 」である。「 文学の高学歴化 」イクオール「文学の空洞化 」であった。その結果、どうなったか。現代日本の文学の衰退、文壇の地盤沈下は、そこに原因があると、私は考えている。たとえば、文芸誌から、有能な文芸評論家たちが消え、その代わりに、無能な「博士号取得者 」たちが氾濫するようになった。無味乾燥な駄文が文芸誌を占領し、文学のエネルギーは消えた。一方では、「博士号も持っていないくせに、大学教授になりやがって・・・ 」というような声が聞こえて来るようになった。文学の世界も、「 文学研究者 =博士号取得者」が横行するようになって、文学や文壇は、ただひたすら「衰退の道」を爆走中と言うべきだろう。呉座勇一の「 歴史学者擁護論」も、「 歴史学の自殺 論」だというべきかもしれない。
文学と歴史を知らないイデオロギー偏執狂の独裁者
大胆な理論や仮説を議論することを避けて、瑣末な枝葉の議論に終始するポストモダン的な瑣末主義である。
単純なことができない。これは「理性的」というのとは違って単純な事が通らない訳です。単純とは感覚や日常的な理の筋からいっても自明ということで、それを大事にできる社会を作る、逆にいえば単純なことが何故できず変なことになるかを考えるのが社会科学で、歴史学もそれを支えたいものです。 https://t.co/M0654N9WVZ
— 保立道久 (@zxd01342) 2019年4月6日
Q「単純なことが何故できず変なことになるか」
A「理性的」でないから。
これは社会科学や歴史学の定義としては「単純な」ことで、学問をしている間に忘れがちなことです。しかし、ここでも単純が正しいのだと思います。
— 保立道久 (@zxd01342) 2019年4月6日