『南洲伝』覚書(12)ー西郷南洲と重野安繹。
— 山崎行太郎の毒蛇山荘日記 (@yamazakikoutaro) 2019年5月15日
■ - 哲学者=山崎行太郎の『毒蛇山荘日記』 https://t.co/hPfUePHa5Y
不思議なことに、西郷は、行く先々で、優秀な学者や文人にめぐり逢うのだ。島津斉彬に随伴した江戸では、水戸学派の重鎮・藤田東湖や橋本左内。奄美大島や沖永良部島では重野安繹や川口雪蓬。つまり西郷は、島流し時代の6年間、重野安繹や川口雪蓬というような優秀な指導者の元で、「学問 」に励むことが出来たのである。さて、福沢諭吉は、西郷擁護論である『丁丑公論 』という論考の中で、西郷を擁護しつつ も、西郷の失敗は、「不学 」だったことにあると言っている。私は、この福沢諭吉の言い方に疑問を持っている。福沢諭吉のいう「学問 」とは、どういう学問なのか、 と。
福沢諭吉の言う「 学問 」とは、机上の空論のことなのか。実践や行動の伴わない空理空論のことなのか。私は、西郷にこそ「学問 」があったと考える。福沢諭吉の言う「学問」は、実践や行動の伴わない、あるいは実践や行動を回避した書生論であり、空理空論である。私も、元々は、福沢諭吉の私塾であった慶應義塾大学に学んだ「 塾生 」の一人だが、学生時代から、福沢諭吉には、あまり興味がなかった。私が、福沢諭吉に興味を持ったのは、西郷擁護論である『丁丑公論 』を読んでからである。私は 『丁丑公論 』の内容には賛成し、感動したが、最後の「 不学」という言葉で、立ち止まった。それでは、「 西郷には学問がなかったが、福沢諭吉の慶應義塾で学んだ『塾生 』たちには学問が合ったのか? 」と。
「知を致すは物を格(正)すに在り」
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