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#家父長制#家族主義

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 正田美智子は終戦までの3カ月間、戦火を逃れて軽井沢へ疎開し、軽井沢第一国民学校へ転入した。このとき同学年の生徒に当時の美智子のことを尋ねたが、勤労奉仕で桑の木の皮むきをしたエピソードはあっても、子供たちによくある集団での遊びは皆無だった。母・冨美子から「群れて遊ばないように」と厳命されていたという。集団に依存せず、自立して行動することを、母は教えたのだろう。大学時代、軽井沢会のテニスコートに通うようになった時も、「徒党を組まないこと」という母・冨美子の忠告は続けられていた。


 子供たちと群れて遊ぶより、自室にこもって父が東京から運んできた本の世界に夢中だったのかもしれない。IBBY国際児童図書評議会)の基調講演で、疎開中に読んだという、嵐のために倭建御子(やまとたけるのみこ)が乗った船が行手を阻まれ、后の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が入水して海を鎮める話を引きながらこう述べている。


「今思うと、それは愛というものが、時として過酷な形をとるものなのかも知れないという、やはり先に述べた愛と犠牲の不可分性への、怖れであり、畏怖であったように思います」

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天皇陛下が1日午前0時に即位され、時代は平成から令和に変わりました。天皇陛下は同日、即位の儀式に臨み、象徴として歩み始められます。

皇居 宮殿では先月30日、202年ぶりの天皇の退位の儀式となる「退位礼正殿の儀(たいいれい せいでんのぎ)」が行われ、上皇さまが「即位から三十年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します」と国民に向けた最後のおことばを述べられました。

そして、日付が変わると同時に、天皇陛下が即位されて元号は平成から令和に変わりました。

天皇陛下は1日、午前10時半から宮殿で歴代天皇に伝わる三種の神器のうちの剣と曲玉(まがたま)などを受け継ぐ「剣璽等承継の儀(けんじとう しょうけいのぎ)」に臨まれます。

その後、午前11時10分からは皇后となられた雅子さまとともに「即位後朝見の儀(そくいご ちょうけんのぎ)」に臨み、総理大臣をはじめ、国民を代表する人たちを前に天皇として初めてとなるおことばを述べられます。

また、午後には皇后さまとともに、皇居の上皇ご夫妻のお住まいを訪れ、あいさつする予定で、天皇陛下は、新たに迎えた令和の時代を象徴として歩み始められます。

自民党は、「新元号の令和は万葉集に典拠し人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つという意味が込められている。平和な日本を守り継ぐことを国民に誓い、新しい時代がさらに輝き、希望に満ちたものとなるよう、国政運営のかじ取りをしっかりと進めていく」としています。

立憲民主党の枝野代表は、「令和という時代が、国民にとって幸せを実感できる平和で穏やかな時代となることを祈念する。憲法に定められた象徴天皇制が国民の総意に基づき安定的に継続するために、皇位の安定的継承など重要な課題に真摯(しんし)に向き合う」としています。

国民民主党の玉木代表は、「即位は、国民にわが国へのゆるぎない誇りと未来への希望をもたらす。令和の時代が平和と繁栄の時代となることを願いつつ、国民と皇室を結ぶ敬愛と信頼の絆が、一層深まることに努力を惜しまない」としています。

公明党の山口代表は、「元号に込められた願いである平和が続き、国民が明日への希望とともに、それぞれの個性を輝かせていける新たな時代を開き、わが国と世界の人々の幸福と平和のために、さらなる決意でまい進する」としています。

共産党の志位委員長は、「新天皇の即位に祝意を表する。象徴天皇として、新天皇日本国憲法の精神を尊重し擁護することを期待する」としています。

日本維新の会の松井代表は、「新しい御代になり、即位礼正殿の儀(そくいれい せいでんのぎ)、大嘗祭(だいじょうさい)、来年の立皇嗣の礼まで、皇位継承の儀式がつつがなく行われ、国民こぞってことほぐことができることを望む」としています。

希望の党の松沢代表は、「令和の御代が、元号の願い通り人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育ち、さらに国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望する」としています。

社民党の又市党首は、「新天皇は、憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たされることを願う。儀式が憲法の理念にかなったものとなるよう求める」としています。

天皇陛下の即位を受けて、アメリカのトランプ大統領は30日(日本時間5月1日)、ホワイトハウスを通じて声明を出しました。

この中で、トランプ大統領は「新たに即位された天皇皇后両陛下にアメリカ国民を代表して最大の祝福を送りたい。日本人が新たな『令和』の時代に歩みを進めるのに合わせ、日米両国の友好のきずなを新たにしたい」と述べました。

中国国営の新華社通信は、習近平国家主席が、1日即位された天皇陛下に祝電を送ったと伝えました。

この中で習主席は、「中日両国は、一衣帯水の関係で友好往来の歴史は長い。手を携えて努力し、ともに平和発展を進め、両国関係のすばらしい未来をつくるべきだ」と述べたとしています。

また、習主席は、退位された上皇さまにもメッセージを送ったということです。

韓国外務省は、ムン・ジェイン文在寅)大統領が1日、即位された天皇陛下に祝電を送ったと発表しました。

この中でムン大統領は、天皇陛下上皇さまと同様に、戦争の痛みを記憶しながら、平和のためのしっかりとした歩みを続けられることへの期待を示したということです。

また、ムン大統領は、天皇陛下が日韓関係の友好的な発展のため、大きな関心と愛情を持たれることを願っているとしています。

ロシアのプーチン大統領は1日、即位された天皇陛下に祝電を送りました。

この中でプーチン大統領は、「このたびの即位に心よりお祝い申し上げます。近年、両国の関係は著しく発展し、建設的な政治対話を行いながら喫緊の国際的な課題の解決に向けて協力しています。ロシアと日本の協力関係が今後もさまざまな分野で強まることは、両国民の本質的な利益にかない、世界の安定と安全を強化するものと確信しています」と祝意を示しました。

 平成8年から19年まで侍従長を務めた渡邉允氏(外務省出身)。そして、平成17年から24年まで宮内庁長官を務めた羽毛田信吾氏(厚労省出身)。

羽毛田 皇太子殿下(天皇陛下)ご自身も会見で陛下の基本的な道は自分も尊重したいとおっしゃっています。それでは具体的にどういうことをなさるかは、新しい時代の要請もありますし、陛下が二月の御在位三十年記念式典でおっしゃったように、次世代の天皇がご自身で「象徴のあるべき姿」を求めていかれるしかないのでしょうね。

渡邉 たぶん(上皇)陛下にうかがったら、次の世代は次の世代で考えてほしいとおっしゃると思う。要するに、社会というものは変わっていく。世界も変わっていくし、人も変わっていく。だから天皇も変わっていくということなのだろうと思います。

「松の間」は宮殿の中央に位置する「正殿(せいでん)」の中で、3つある部屋の真ん中にあり、最も格式が高い部屋です。

また、「松の間」の両脇には、儀式の様子を見ることができる小部屋が目立たないように設けられていて、行事の撮影や取材はこの小部屋の窓越しに行われます。

新たに即位した天皇陛下は皇居 宮殿の「菊の間」で、このあと予定されている「剣璽等承継の儀」などを憲法で定める国事行為として行うことを閣議決定した政府からの文書を確認し、押印して裁可されました。これが天皇として初めての国事行為となりました。

天皇陛下は午前10時半から宮殿の「松の間」で行われる三種の神器のうちの剣(つるぎ)と曲玉(まがたま)などを受け継ぐ「剣璽等承継の儀(けんじとう しょうけいのぎ)」に臨まれます。

大島衆議院議長は「新たなみ代(御代)の始まりをことほぎ、謹んでおよろこび申し上げます。新しい天皇陛下を仰ぎ、私たちは、我が国の長い歴史に思いを致しつつ、世界の全ての人々と相携えながら、自らの手で平和で幸せな新時代をつくり上げるべく決意を新たにするものであります」としています。

そのうえで、「令和のみ代(御代)が、新元号の由来となった故事の情景のごとく、物心両面とも豊かで、和らぎがあり、活気に満ちあふれたものとして幾久しく続きますよう衷心よりお祈りいたします」としています。

また、伊達参議院議長は「国民ひとしくよろこびに堪えないところであります。この度の御即位と『令和』の幕開けに際し、長きにわたり築き上げられた我が国の歴史に改めて思いを致しつつ、戦争のない平和な時代が続き、国民の暮らしが豊かで幸福なものとなるよう決意を新たにするものであります。天皇皇后両陛下のますますのご健勝と皇室のいやさかをお祈り申し上げます」としています。

新たに即位した天皇陛下は午前10時半から皇居 宮殿で歴代天皇に伝わる三種の神器のうちの剣(つるぎ)と曲玉(まがたま)などを受け継ぐ「剣璽等承継の儀(けんじとう しょうけい)」に臨まれました。

剣璽等承継の儀」は即位に伴って国事行為として行われ、天皇陛下が午前10時半に宮内庁の幹部の先導で皇居 宮殿の「松の間」に入られ、始まりました。

前回の代替わりでは昭和天皇崩御を受けて上皇さまはモーニングに喪章をつけられましたが、今回、天皇陛下はえんび服に最高位の勲章の「大勲位菊花章頸飾(だいくんい・きっかしょうけいしょく)」をつけて臨まれました。

皇族の出席者は平成の代替わりの時と同様、成年の男性皇族に限られ、皇位継承順位1位の「皇嗣」となった秋篠宮さまと、常陸宮さまが出席されました。

一方、安倍総理大臣など三権の長や閣僚などの参列者には、男女の区別がなく、初めて女性として片山地方創生担当大臣が参列しました。

儀式では、天皇陛下の側近の侍従たちが三種の神器のうちの剣と曲玉、それに、国事行為の際に印(いん)として使う国璽(こくじ)と御璽(ぎょじ)を携えて入り、「案」(あん)と呼ばれる台の上に置きました。

そして侍従たちが再び剣と曲玉を台から持ち上げると、天皇陛下は剣と曲玉を携えた侍従とともに「松の間」を退出され、5分ほどで儀式が終わりました。皇族方も続いて退出され、国璽と御璽を持った侍従も退出しました。

天皇陛下はこのあと午前11時10分から、皇后になられた雅子さまとともに即位後初めて国民を代表する人々と会う「即位後朝見の儀(そくいごちょうけんのぎ)」に臨まれます。

日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。

この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。

顧みれば、上皇陛下には御即位より、三十年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御心を御自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。

ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します。

謹んで申し上げます。天皇陛下におかれましては、本日、皇位を継承されました。国民を挙げて心からお慶び申し上げます。

ここに、英邁なる天皇陛下から、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、日本国憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たされるとともに、国民の幸せと国の一層の発展、世界の平和を切に希望するとのおことばを賜りました。

私たちは、天皇陛下を国及び国民統合の象徴と仰ぎ、激動する国際情勢の中で、平和で、希望に満ちあふれ、誇りある日本の輝かしい未来、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ時代を、創り上げていく決意であります。

ここに、令和の御代(みよ)の平安と、皇室の弥栄(いやさか)をお祈り申し上げます。

「即位後朝見の儀」は皇居 宮殿の「松の間」で即位に伴う国事行為として行われました。

天皇陛下は「剣璽等承継(けんじとう しょうけい)の儀」のおよそ30分後の午前11時12分ごろ皇后さまとともに「松の間」に入られ、儀式が始まりました。皇后さまは皇后として臨まれる初めての儀式です。

皇位継承順位1位の「皇嗣」となった秋篠宮さまと、紀子さまなどの皇族方が続いて入られました。

天皇陛下や男性皇族はえんび服で、皇后さまなど女性皇族はローブデコルテという格式の高いロングドレス姿で、ティアラをつけられていました。全員が勲章をつけて儀式に臨まれました。

天皇陛下三権の長や閣僚、地方自治体の代表など参列した290人余りを前に、天皇として初めてとなるおことばを述べられました。

この中で天皇陛下は「皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望いたします」と話されました。

続いて安倍総理大臣が天皇陛下の前に進み出て、国民を代表して「天皇陛下を国及び国民統合の象徴と仰ぎ、激動する国際情勢の中で、平和で希望に満ちあふれ、誇りある日本の輝かしい未来、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ時代を創り上げていく決意です」とあいさつしました。

天皇陛下は皇后さまとともに退出され、儀式は7分ほどで終わりました。

新たに即位した天皇陛下は、1日午後0時7分ごろから、ご一家を補佐する側近トップの侍従長などの認証式に臨まれました。

認証式は宮殿の「松の間」で行われ、新たに就任した小田野展丈侍従長天皇陛下の前に進み出て、菅官房長官から任命書を受け取りました。

そして、天皇陛下が「重任(じゅうにん)ご苦労に思います」とことばをかけられました。

小田野侍従長は4月30日まで、天皇陛下のご一家を支える「東宮職」トップの東宮大夫(とうぐうだいぶ)を務めていました。

続いて、1日に発足した「上皇職」トップの上皇侍従長に就任した河相周夫氏も任命書を受け取り、天皇陛下から同じことばをかけられました。

河相上皇侍従長は30日まで、上皇ご夫妻を支える侍従長を務めていました。

宮内庁では、1日から皇位継承順位1位の「皇嗣(こうし)」となられた秋篠宮さまのご一家を支える「皇嗣職」も発足し、トップの皇嗣職大夫には30日までご一家をはじめ、「宮家」を補佐する宮務主管を務めていた加地隆治氏が就任しました。

皇位継承を円滑に行うため、天皇ご一家と上皇ご夫妻、それに秋篠宮ご一家の側近トップが、引き続き支える形となりました。

天皇陛下は、ご一家を補佐する「侍従職」トップの侍従長などの認証式に臨んだあと、車で皇居を出てお住まいの「赤坂御所」がある東京 港区の赤坂御用地に到着されました。

天皇陛下皇位のあかしとして受け継がれた三種の神器のうちの剣(つるぎ)と曲玉(まがたま)は、同じ車に載せて運ばれました。天皇陛下は笑顔で手を振られていました。

即位した天皇陛下は、皇后となられた雅子さまとともに、「吹上仙洞御所(ふきあげ せんとうごしょ)」と呼ばれることになった、皇居にある上皇ご夫妻のお住まいを訪れて、あいさつをされました。

結婚された時、天皇陛下は32歳、皇后さまは29歳でした。皇居で行われた「結婚の儀」に続いて、お住まいのある赤坂御用地までオープンカーでパレードされ、沿道には20万人近くが詰めかけました。

1か月後の宮中晩さん会で、皇后さまは皇族として国際舞台にデビューし、元外交官のキャリアを生かして、外国の首脳と懇談されました。

翌年、両陛下は、初めてお二人での外国公式訪問に臨み、中東4か国を回って国際親善に努められました。天皇陛下が、これまでに公式訪問した国は39か国に上り、このうち12か国は皇后さまと訪問されました。

天皇陛下は、「国民と心をともにする」という上皇さまのお気持ちを受け継ぎ、皇后さまとともにさまざまな公務に臨まれてきました。

大きな災害が起きると、両陛下は現地を訪れ、被災した人たちを見舞われました。平成7年に阪神・淡路大震災が発生した際には、外国訪問の日程を繰り上げて帰国し、2か月連続で被災地を見舞われました。

また、戦後生まれの両陛下は、戦争を経験した人や遺族たちのことばに耳を傾けることも大切にし、沖縄や広島、長崎を訪れた際に懇談の機会を持たれてきました。

また、「全国障害者スポーツ大会」の開会式に出席する公務を担うなど、社会で弱い立場にある人たちにも寄り添われてきました。平成10年の長野パラリンピックでは、お二人で開会式に臨まれ、大会の名誉総裁を務めた天皇陛下が、開会を宣言されました。

各地を訪問した際には、子どもや若い世代の人たちとふれあう機会を積極的に持ち、日本の将来を担う人たちとの交流も重ねられてきました。

天皇陛下は、皇太子時代に、毎年の恒例行事などにあわせて、すべての都道府県を公務で訪問されました。

結婚から8年がたった平成13年12月、長女の愛子さまが誕生されました。しかし、その2年後、皇后さまは体調を崩し、療養生活に入られました。慣れない環境と大きなプレッシャーの中で、公務と子育てによる心身の疲れをためられていたのです。

宮内庁は「適応障害」という診断結果を公表。天皇陛下は、記者会見で皇后さまを支え続ける決意を述べられました。

天皇陛下お一人での公務が日常化する中、平成17年に愛知県で開かれた「愛・地球博」では、皇后さまも会場を視察し、1年8か月ぶりに地方での公務に臨まれました。

一方で、皇后さまは、母親として愛子さまの成長を支え続けられました。愛子さま学習院初等科で、通学に不安感を抱かれていた時期には、連日、学校に付き添い、対応に尽くされました。

皇后さまは体調に波があり、公務を重ねるのが難しい状況が続きますが、平成23年東日本大震災が発生すると、天皇陛下と大きな被害を受けた東北3県を相次いで訪れ、避難生活を続ける被災者を見舞われました。

そして、平成25年、皇后さまにとって、11年ぶりの外国公式訪問となったオランダへの訪問が実現し、皇后さまは、回復に向けた大きな一歩を踏み出されました。

皇后さまはその後も少しずつ活動の幅を広げていて、この1年で4回、地方での公務に臨んだほか、去年の秋の園遊会では、15年ぶりに最後まで行事に臨まれました。

この1年、天皇陛下は皇太子として、これまでと変わらず精力的に公務に臨まれ、療養中の皇后さまも、少しずつ活動の幅を広げられました。

去年5月、天皇皇后両陛下は、滋賀県で開かれた「全国『みどりの愛護』のつどい」に出席し、お二人でびわ湖に面した緑地に植樹をされました。

天皇陛下は、この1年毎年の恒例行事などで合わせて8回公務で地方を訪ね、このうち4回は皇后さまも一緒に訪問されました。

5月に開かれた全国赤十字大会には皇后さまが15年ぶりに出席され、式典の最後に、上皇后さまから壇上で紹介されると、会場から大きな拍手が送られました。

6月、両陛下は結婚から25年の「銀婚」を迎えられました。上皇ご夫妻や長女の愛子さま、それに皇族方を交えたお祝いの食事会が催されたほか、記者団からの質問に文書で回答を寄せられました。


この中で天皇陛下は「雅子はこの25年間、大変なこともある中で、色々な努力を続け、また、私(わたくし)と愛子をしっかりと支えてくれており、ありがたく思うとともに、心から感謝しています」と述べられました。

また、皇后さまは、天皇陛下への感謝の気持ちをあらわし、上皇ご夫妻の過去の記者会見を振り返って、「天皇皇后両陛下のご成婚25周年の折に、陛下に皇后様が差し上げられた『感謝状』という言葉以上に私の気持ちに相応しい答えが見つかりません」などとつづられました。

9月に、天皇陛下は日本との友好160周年を迎えたフランスを公式訪問し、国際親善に努められました。現地では、マクロン大統領夫妻主催の晩さん会や日本文化を紹介する行事に臨み、エッフェル塔を日本風にライトアップする点灯式にも出席されました。

両陛下は災害の被災地にも心を寄せ続けられました。9月下旬には、九州北部豪雨で大きな被害を受けた福岡県朝倉市をお二人で訪問し、仮設住宅の団地で避難生活を送る人たちを見舞われました。

11月の秋の園遊会では、療養に入って以降、途中での退席が続いていた皇后さまが、15年ぶりに最後まで行事に臨まれました。同じ11月、両陛下は、東京で開かれた「全国育樹祭」に出席し、かつて上皇ご夫妻が植えられ、大きく育ったイチョウの木を、お二人で手入れされました。

ことし1月、天皇陛下学習院女子大学で学生たちに講義を行われました。天皇陛下は、平成15年からほぼ毎年、講義を行ってきましたが即位を前に最後となり、長年の研究活動の中で大切にしてきた、歴史資料を丁寧に読み解くことの重要性について伝えられました。

天皇陛下は、ことし2月の誕生日を前に、皇太子として最後の記者会見に臨み、「両陛下がなさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、あるいは共に悲しみながら、象徴としての務めを果たしてまいりたいと思います」と述べられました。

昭和60年(1985)の記者会見で、当時25歳の天皇陛下は、将来の皇室のあり方について尋ねられ、「これから先は 国民の中に入っていく皇室ということが必要であると思いますし、それには、いろいろな場を通していろいろな方々と接するということが非常に大切になってくるのだと思います」と述べられました。


英オックスフォード大 寮の自室で 昭和60年(1985)9月

毎年各地で行われる7つの恒例行事などで全国に足を運び、幅広い世代の人たちと近い距離でふれあい、皇太子として、すべての都道府県を公務で訪問されました。

平成22年(2010)、天皇陛下は、誕生日にあたっての記者会見で報道陣から「象徴天皇」のあり方について問われ、「天皇は日本国、そして国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いを致して、国民と苦楽を共にしながら、国民の幸せを願い、象徴とはどうあるべきか、その望ましい在り方を求め続けるということが大切なのだと思います」と述べられました。こうした考えは毎年行われる誕生日の記者会見などで一貫して述べられてきました。


50歳の誕生日を前にした記者会見 平成22年(2010)2月

一方で天皇陛下は、新たな公務についてもたびたび言及されています。平成13年(2001)の記者会見では、今後の皇室像について「時代の要請を的確に感じとり、物事の本質を見極め、精神的なよりどころとしての役割を果たしていくことが大切だと思います」としたうえで、「時代に即した公務の内容というものも考えていく必要があるのではないかと思います」と話されました。


41歳の誕生日を前にした記者会見 平成13年(2001)2月

平成17年(2005)には、みずからの関心のある分野として「水の問題を含む環境問題」、「子どもと高齢者に関する事柄」、「国際的な交流や友好親善」、「産業・技術面での新しい動き」の4つを挙げたうえで、「新たな要請がある場合には、積極的に考えていきたい」と述べられました。


45歳の誕生日を前にした記者会見 平成17年(2005)2月

天皇陛下は、平成31年(2019)2月の皇太子として最後となる誕生日にあたっての記者会見で即位に向けた決意などを問われ、「過去の天皇のなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両陛下がなさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、あるいは共に悲しみながら、象徴としての務めを果たしてまいりたいと思います」と述べられました。

この中で菅官房長官は皇族数の減少や女性宮家の創設などへの対応について、「国家の基本に関わる極めて重要な問題だ。男系継承が古来、例外なく維持されてきた重みなどを踏まえ、慎重かつ丁寧に検討を行う必要がある」と述べました。

そのうえで「政府としては、まずは天皇陛下のご即位に伴い、一連の式典が国民の祝福の中で、つつがなく行われるよう全力を尽くし、そのうえで衆参両院の委員会で可決された付帯決議の趣旨を尊重して対応してまいりたい」と述べました。

今回の皇位継承を実現するために制定された特例法を審議した衆参両院の委員会では安定的な皇位継承を確保するための課題や、女性宮家の創設などについて、政府に対し、速やかに検討することを求める付帯決議が可決されています。

 このところ「愛子天皇」待望論が高まっているという。当然、予想できたことだ。

 5月1日に皇太子殿下は即位されて126代の天皇になられた。新天皇にはご健康でご聡明(そうめい)なお子さまがいらっしゃる。ならば、そのお子さまに次の天皇になっていただきたいと願うのは、皇室を敬愛する国民の心情としてごく自然だろう。

 そのお子さまが男子か女子かは、差し当たり二の次と考えられるはずだ。なぜなら、男女の区別よりも天皇との近さ、皇位との距離感こそが、優先されるからだ。

 今の皇室典範も明治の皇室典範も、皇位継承の順序において、天皇の子(皇子)や孫(皇孫)を優先する「直系」主義を採用している。その理由は何か。1つには過去の伝統を尊重したため。もう1つは国民のそうした素直な感情に立脚したためである。

 だから、「愛子天皇」待望論が浮かび上がってくるのは、決して不思議ではない。

 それに加えて、秋篠宮殿下のご即位の先行きが不透明という事情がある。

 皇太子殿下が即位されると、同じ瞬間に秋篠宮殿下は「皇嗣(こうし)」になられる。しかし、皇嗣というのは、ある時点でたまたま皇位継承順位が第1位である事実を示すにすぎない。次の天皇であるべきことが確定している「皇太子(または皇太孫)」とは立場が異なる。

 天皇の弟で皇嗣の場合は歴史上、「皇太弟」という立場があった。このたびの皇室典範特例法でも、秋篠宮殿下の皇位継承上の地位を固めるためには、そうした称号を新しく設けるべきだった。だが、秋篠宮殿下ご本人が辞退されたと伝えられる。「皇太子になるための教育は受けてこなかったから」と。

 常識的に考えて、秋篠宮殿下を単に「皇嗣」として、特段の称号を用意しないという法律の作り方は、かなり非礼な扱い方と言える。当事者のご意向を前提としなければ、こうしたやり方は一般的に想定しづらい。だから、そこに秋篠宮殿下のお考えが反映されている、と推測するのが自然だろう。

 それが事実だとすれば、重大事だ。言うまでもなく、「天皇」という地位は皇太子(皇太弟)などより遥かに重い。ならば、皇太弟すら辞退された方が、そのまま天皇に即位されるというシナリオは、いささか考えにくいのではあるまいか。

 その上、皇太子殿下と秋篠宮殿下はご兄弟で、ご年齢が近い。皇太子殿下が今上陛下と同じ85歳まで在位された場合、秋篠宮殿下は79歳または80歳でのご即位となる。さすがにそれは現実的には想定しにくいだろう。

 そうかといって、皇太子殿下がまだまだご活躍いただける年齢で、早めに皇位を譲られるというのも、今回のご譲位の趣旨から外れてしまう。

 皇室典範には、「皇嗣」に「重大な事故」がある場合は「皇室会議の議により」「皇位継承の順序を変えることができる」という規定がある(第3条)。したがって、今の制度のままでも、秋篠宮殿下がご即位を辞退されるという場面は、十分にあり得る。と言うより、先の年齢的な条件を考慮すれば、その可能性はかなり高いだろう(朝日新聞4月21日付1面に、こうした見方を補強するような秋篠宮殿下のご発言が紹介された)。そのようであれば、愛子内親王殿下への注目はより高まるはずだ。

 ただし、くれぐれも誤解してはならないのは、皇太子殿下の「次の」天皇については、具体的な誰それがよりふさわしい、といった「属人」主義的な発想に陥ってはならないということだ。

 そうした発想では、尊厳であるべき皇位の継承に、軽薄なポピュリズムが混入しかねない。そうではなくて、皇位の安定的な継承を目指す上で、どのような継承ルールがより望ましいか、という普遍的な問いに立ち返って考えなければならない。

 そもそも、皇位継承資格を「男系の男子」に限定したのは明治の皇室典範が初めてだった。しかも、明治典範の制定過程を見ると、2つの選択肢があった。

 ①側室制度を前提とせず、非嫡出の皇位継承を認めないで、「男系の男子」という制約は設けない。
 ②側室制度を前提とし、非嫡出にも皇位継承資格を認めて、「男系の男子」という制約を設ける。

 これらのうち、①は明治天皇にいまだ男子がお生まれになっていない時点でのプランだった。しかし、その後、側室から嘉仁親王(のちの大正天皇)の誕生を見たため、①が採用される余地はなくなった。

 ところが、今の皇室典範はどうか。

 ②の「男系の男子」という制約は明治典範から引き継いだ。一方、それを可能にする前提条件だった側室制度プラス非嫡出の皇位継承は認めていない。つまり、①の前段と②の後段が結合した、ねじれた形になってしまっている。

 ③側室制度を前提とせず、非嫡出の皇位継承を認めないで、しかも「男系の男子」という制約を設ける。

 率直に言って、このようなルールでは皇位の安定的な継承はとても確保できない。

 過去の歴代天皇の約半数は側室の出(非嫡出)であり、平均して天皇の正妻にあたる女性の4代に1人は男子を生んでいなかった。傍系の宮家も同様に側室によって支えられていた。

 したがって、③をこのまま維持すると、皇室が行き詰まるのは避けられない。もし皇室の存続を望むならば、明治典範制定時の①と②からどちらを選ぶか、改めて問い直さなければならない。

 しかし、いまさら②が前提とした側室制度を復活し、非嫡出による皇位継承を認めることができないのは、もちろんだ。何より皇室ご自身がお認めにならず、国民の圧倒的多数も受け入れないだろう。側室になろうとする女性が将来にわたって継続的に現れ続けるとは想像できないし、逆に側室制度を復活した皇室には嫁ごうとする女性がほとんどいなくなるだろう。

 そのように考えると、答えは自(おの)ずと明らかではあるまいか。

 「愛子天皇」待望論についても、目先の週刊誌ネタなどによって短絡的に判断するのではなく、持続可能な皇位継承のルールはいかにあるべきかという、広い視点から慎重に評価されるべきだろう。

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