https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

 秋篠宮家には「3つの誤算」があったと明かすのは、宮内庁関係者だ。

「まず圭さんが婚約を辞退しなかったこと。2つ目に、お金がないから無理だろうと思っていた圭さんの留学も、支援者が現れてニューヨークの大学に留学することになったこと。そして何よりご夫妻にとってショックだったのは、金銭問題について眞子さまが圭さんの側についてしまわれたことでした」(宮内庁関係者)

d1021.hatenadiary.jp
d1021.hatenadiary.jp
d1021.hatenadiary.jp
d1021.hatenadiary.jp

 信子妃は、吉田茂元首相の孫娘であり、「麻生セメント」の創業者・麻生太賀吉を父に持ち、麻生副総理は実兄にあたる。その華麗なる家系と共に、度々寛仁さまとの不仲が取り沙汰されてきた。

「1980年に“ヒゲの殿下”こと寛仁親王殿下とご成婚されましたが、04年以降、ご病気で長らく静養されていた。広く知られている通り、ストレス性喘息などを理由に、信子妃はずっと殿下と別居をしていました。殿下が何度も信子妃の臣戚降下、つまりは離婚を考えたほど、ご夫妻の関係は悪化していたのです。娘の彬子女王瑶子女王は、殿下を心より尊敬していたので、お二人も信子妃に不信感を抱かれています」(同)

 彬子女王瑶子女王は、幼少の頃、寛仁親王殿下の父母にあたる三笠宮崇仁殿下(16年に薨去)や百合子妃殿下への批判を信子妃より聞かされていた。が、ご成長と共に信子紀の言動に疑いを持たれ、不信感を募らせていったという。

 寛仁さまが12年に薨去されると、葬儀の喪主は信子妃ではなく、寛仁さまの遺言によるご意向で、彬子女王が務められた。寛仁親王家の当主を決める話し合いの場が持たれることもなく、薨去から一年後、信子妃、彬子女王瑶子女王三笠宮家に合流することが発表され、寛仁親王家は廃止となる。

 葬儀だけでなく、一周忌にあたる墓所一年祭の儀にも、信子妃がお姿を見せることはなかった。

「しかし、殿下の薨去から一年後に、信子妃は突如として記者会にお手紙を送って来られ、事実上のご公務復帰を“宣言”されたのです」(同)

 手紙には、“微力ながら復興支援などに尽力させていただきたく存じます”としたためられ、

「手紙の内容通り、その年には被災地を訪問されたり、料理本を出版されたりして、ご活動を再開された。以降、14年には7年ぶりに歌会始にご出席され、現在に至るまでご公務を続けています。しかし、今も女王の住む三笠宮東邸(旧寛仁親王邸)には戻らず、ずっと宮内庁の分庁舎で暮らされている。16年にはお荷物を取るため、お二人が留守の間に三笠宮東邸に信子妃が鍵屋を使って入った“侵入騒動”まで起きています」(同)

 母娘の関係は、修復するどころか溝が広がっているという。

「こうした騒動を起こす信子妃に対して、宮内庁も困惑しているようです。これまでの経緯やそのお振る舞いから、彬子女王瑶子女王は言うに及ばず、職員を通じてでさえ、他の女性皇族とも意思疎通が図れていないままなのです。皇后さまのドレスの色と被らぬよう調整するのもままならない状況だったのでしょう」(同)

d1021.hatenadiary.jp

#天皇家