たくさん書いてもほとんど何も残らない著者もいれば、寡作だが読み継がれる著作を残す人もいる。他方、真に偉大な哲学者に関して驚くべき事は、その大半が、何百年も読みつがれているたくさんの著作を残していることだ。密度の濃さと量の多さは、このレベルにまで来ると、反比例するどころか正比例する
— 山本芳久 (@201yos1) May 7, 2020
はてなブログに投稿しました #はてなブログ
— 大槻義彦 (@otsuki1936) May 7, 2020
新しい本の出版『般若心経と物理科学』(仮題)を予定 - otsuki1936のブログhttps://t.co/ztBNebiAxQ
ところがここにきて急に科学のことがしゃべりたくな
ってきた。そこでまったくのボランティアで
と張り切ってやっている。ところがこれをやってみると、
しゃべるだけではモノ足りなくなってきた。やはり総合的
に、網羅的に、後に残る形で、保存できる本に魅力を感じ
始めた。
そこで本を書きます。おどろかないでください!なんと
仏教と物理の関係なのです。
このように『華厳経』は、まず第一に、私たちの常識に挑戦し、自己と自己を取り巻く世界の全体を心の表れとみなし、この見方に立って仏と私たち衆生とも一体であると論じます。つまりは、『華厳経』に従えば、他のすべての人びと、あらゆる事物・事象も仏たちさえも、私たち一人ひとりが描き出す画像にほかならない、というわけです。
物理学の立場から
以上、お話ししたように、『華厳経』には、私たちがほとんど忘れかけていた重要なものの考え方が全体を貫く基調として流れています。そして近年、先端的な研究を進めている科学や哲学の分野の人たちの中から、こうした考え方に注目し、それを取り込み新しい方向を開こうとする研究者が出てきています。たとえば、いわゆるニュー・サイエンス運動の旗手の一人であり、現在も版を重ねている『タオ自然学』(邦訳、工作舎、一九七九年)の著者であるフリッチョフ・カプラ(Fritjof Capra一九三九−)がいます。かれは、鈴木大拙(だいせつ)博士(一八七〇−一九六六)の『華厳経』理解に強く共鳴し、
『華厳経』の中心テーマは、すべての事物・事象の統一性と相互関連性である。この考え方は、東洋の世界観の本質そのものであるのみならず、現代物理学によって明らかにされつつある世界観の基本的諸要素の一つでもある。
と主張しております。かれがここで述べている現代物理学とは、直接には、同書の後段に細説されるように、G・F・チュー博士が提唱したブーツストラップ(靴ひも)仮説を指すようです。
(一)「形而上学は、純粋理性にもとづく哲学的認識が、体系的連関という形をとったものである」(「純理」・八六九)。
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— lizard.k (@lizard_k_) 2020年5月6日
#勉強法
米MS、新タブレット型PC投入 コロナで需要増 https://t.co/oCdWO2rIY0
— 共同通信公式 (@kyodo_official) 2020年5月6日
#文房具
【ハンコ廃止 日本はサイン文化も見直して】
— BLOGOS (@ld_blogos) 2020年5月6日
“自分の名前をわかりやすく書くものもあれば、他人からはかわからない、いわば日本でいう「花押」に近いものもある。しかし、日本では署名(signature)と書いている場所に、花押のようなサインでは納得してもらえない。”https://t.co/6ZeAb7CF1J
実は、ほとんどの日本人は知らないが、外国人の場合は、日本でのハンコ使用は必ずしも必要ではない。現行法で、「外国人ノ署名捺印及無資力証明ニ関スル法律(明治32年3月10日法律第50号)によると、「法令ノ規定ニ依リ署名、捺印スヘキ場合ニ於テハ外国人ハ署名スルヲ以テ足ル」つまり、外国人は法令の規定によって捺印すべき場合、サイン(署名)のみで足りるとなっている。
私も実際には日本で拵えたハンコをいくつか持っている。ただ、サイン文化で育ち、周りの大人のサインを見よう見真似でつくった(周りのみんなもそうであるように)自分のサインが子ども時代からあったので、日本で長年外国人だった間、経験を積む意味においても書類などに署名(サイン)を試みたことがある。これがすんなりとはいかない。そこで気づく大事なことが一つある。日本では、署名=サイン(シグネチャ: signature)を同義で使っているが、世界の常識と日本の常識との間にズレがあるということ。合わせて日本におけるサインに対する信用のなさである。
まず信用性で言えば、例えば銀行でサインで口座開設したことがあるが、サインの横に四桁の番号の記入を求められる。結局のところ、サインではなく四桁の番号が信用ということのようである。
平安から室町時代の公文書においてはハンコよりも花押がむしろ一般的であった。さらには、現代においても、閣議書などはハンコを使わず花押こそが常識となっている。