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「カメラはニコンのDfですね。フィルムカメラの雰囲気、操作性が残されていて、プロカメラマン、アマチュア上級者に愛用者が多いです。レンズもワイドからバストアップまで撮れるズームでいい選択です」(前出のカメラマン)

気になるお値段は、人気カメラ店で調べるとカメラが約23万円、レンズは約16万円。

「近頃、悠仁さまは変声期に差し掛かり、見た目も大人びてきているように感じます。8月6日には、秋篠宮ご夫妻とともに『全国高校総合文化祭』(高知県)の開会式をネットで視聴されるなど、皇族としての務めを果たされています。さらに、夏休み中はおひとりで皇居へ出かけられ、ヤゴの観察をされるなど活発にお過ごしだったそうです。休校となっていたお茶の水女子大学附属中の授業も再開し、所属されている卓球部の活動も楽しんでおられるそうです」(皇室ジャーナリスト)

 誕生日にあわせて公開された写真は、秋篠宮さまとおふたりだけが写るものだった。

「これまでは母の紀子さま、姉の眞子さまや佳子さまとご一緒に写られていました。ですが、悠仁さまももうお年頃。母や姉といつまでも一緒に写ることに、抵抗を感じられたのかもしれません」(前出・皇室ジャーナリスト)

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 GHQによって解放された日本は自由な国へと生まれ変わり、自由恋愛を謳歌する人間が急増した。皇族や華族だった人たちもその例に漏れない。いや、むしろ我々以上にお盛んだったとも言える。とりわけ、半ば強制的に結婚させられていた女性たちは、お上品な亭主に飽き足らず、次々に名家を後にした。イプセンの戯曲『人形の家』を地で行った女性たちの戦後は……。

 戯曲『人形の家』は、発表と同時に轟々たる世評を呼んだ。

 夫のもとを去って家を出るヒロインのノラは、女の風上にも置けない不埒者と非難された一方、新時代の女性の典型とも賛美されたのである。

 旧華族の中にも離婚経験者は少なくないが、その中で戦後の「ノラ1号」の称号を与えるに相応しいのは元公爵近衛文麿の長女、昭子であろう。

 昭子が、「五摂家一」とされる近衛家から、公爵家である島津忠秀のもとへ嫁いだのは19歳の時である。

「嫁ぎ先は、華族の中でも最も格式が高いとされる島津家の本家であり、(昭和天皇香淳皇后の第5皇女子である)清宮貴子内親王が嫁いだ島津久永氏の家は分家」(島津家に近い人物)

 というほど格式の高い、早い話が堅苦しい家であった。そのことについて、昭子はかつて本誌にこう語っている。

「嫁いだ先は大きな大名華族だったのですが、公家の生活と武家の生活っていうのはまた違うのね。公家華族にはない、主従の関係の固さがあるの。お国もとから選りすぐられて、お家のために一生を捧げて惜しまないという人たちが仕えて、その人たちは子供の一人ひとりについて、子供の一生につくの」

 その忠義心は大変なもので、子供が花瓶を割っても、お付が“私が割りました”と申し出てくるほどだった。

 昭子はそんな島津家での生活に疑問を感じ始め、やがて別の男性に心を奪われるようになる。相手は、島津家に出入りしていた指圧師だった。

 指圧を受けながら話をしているうちに、心のツボまで刺激された昭子は、空襲の激しいさなか、子供たちを残したまま島津家を出る。

「離婚が成立したのは戦後になってからですが、日本の敗戦がなければ起こり得なかった最上流階級のスキャンダルでした」(先の人物)

 戦後、晴れて指圧師である野口晴哉と再婚した昭子は幸せであった。

 夫の仕事を手伝いながら四人の男の子を儲け、子育てにも精を出した。花瓶を割ったと名乗り出てくる、お節介な家臣もいなかったから、子供たちも人の道を踏み外すことはなかった。

 昭和51年に、師でもあった夫が他界すると、昭子は整体協会の名誉会長に就任し、もう一度本誌の取材を受けた。

華族の中にいると、華族の良くない面がなかなか分からない。それが野口先生に会って分かったような気がします」

「野口先生と一緒になったことについては、なるようになったとしか言いようがないですね。自分の自然な気持ちに従っただけのことじゃないかしら。全然バックも何もないゼロの中から、たった一人で信じるところをやっていく姿に感動した、生き方に共鳴したというか……」

「先生と過ごした35年間を振り返って思うことは、これ以外なかったということだけです。それが間違っていようといまいと、これ以外になかった、としか言えません。しかし、これ以外にないというものを見つけられたのは幸せでした。自分は幸せだったと思います」

 雅の世界から抜け出したノラはまだまだいる。久邇宮朝融王(故良子皇太后の兄)の長女である正子は、久邇宮多嘉王の3男徳彦と結婚。

 41年、男子のいなかった梨本家へ夫婦で養子に入ったものの、家裁での調停を経て、55年に離婚している。

 離婚の理由は、前夫によれば「妻が宗教に凝ったため」

 そして、元伯爵家令嬢、山本満喜子の異名は「炎の女」。昭和8年明治生命の創業者一族の息子と結婚したものの、7年後に離婚し、1歳半の息子を連れて家を出る。

学習院一の不良娘」だった彼女は、キューバの英雄に会うために5日間も張り込みを続けてカストロと懇意になり、日本キューバ文化交流研究所を設立。

 平成5年、80歳でメキシコにて客死するが、天衣無縫の自由人で、自ら「私はノラよ」と公言していた。

 閑院宮載仁親王の第5王女である華子が、伏見宮第3王子、華頂博信と結婚したのは大正15年12月のことである。

 二人は助け合って激動の時代を生き抜き、その後も末永く幸せに暮らしました――と言いたいところだが、昭和26年夏、華子は家を出る。「ノラ2号」である。

 2男1女を儲けた旧皇族夫妻の間に何があったのか。

〈華頂博信氏(元伏見宮)が離婚 銀婚式前に社交好みの夫人と性格合わず〉

 昭和26年8月9日、毎日新聞は社会面でそう報じた。

〈突然の離婚の原因について華頂氏は、「性格が正反対の二人がこれ以上一緒に暮らすのはお互いの不幸だと悟ったのです。形式的な皇族結婚のカラを破って出てはじめて人間らしい自由を得たような気がします」と語るのだった〉

 この時点では真相はまだ藪の中であるが、2週間後、事態は風雲急を告げる。

〈華頂氏夫妻/離婚の真相“斜陽階級の悲劇 華子は世間知らずだった”〉(毎日新聞26年8月21日)

 何と、華子の実兄である閑院純仁(元閑院宮春仁王)が、小田原の自邸で取材に応じ、「離婚は幸か不幸か」という一文まで公表したのである。

〈実は七月廿日、突然華頂氏から華子を引きとってくれとの話を聞かされ、この問題には戸田豊太郎(華子が副会長を務める日本衛生婦人会のスポンサー的存在)という人物が介在していることが判った〉

〈そこで私は考えた。いわば私的出来事ではあるが、こういう結果となったのも、一つには戦後の頽廃した世相が生んだ社会問題だと思ったので外聞や体裁をつくろう心持をすてて世に訴える気になったのだ。華子は年齢は四十を超えているが、戦後はじめて世の中にじかにふれたいわばアプレである〉

〈私が華頂氏から話を聞かされる二日前の十八日、戸田氏と華子の間にはよそ目にもはばかるような事件が起こった。華頂氏は激怒した。そしてこの結果になったのだった〉

 戸田豊太郎と華頂華子の間に何があったのか。読者の期待はいやがうえにも高まる。

 と、翌22日、再び華頂博信が毎日新聞に登場。

〈私は離婚せざるを得ない 華頂氏が“夫の苦悩”を告白〉

 社会面のほぼ全てを埋め尽くす記事には、手記を執筆中の博信と、間男された父親を慈愛の眼差しで見つめる令娘の写真まで掲版されている。

〈閑院氏が明らかにした離婚の真相『七月十八日夜の事件』――。それは博信氏にとって余りにも痛ましい血のふくような追憶であった〉

 華頂博信は、取材に訪れた記者を客間に附属するクローク・ルームに案内する。

〈『このイスも床もまだあの日のままです――』やっとの思いで博信氏はそれだけいうと、じっと眼をつむってしまった〉

 この部屋で、アプレに成り下がった妻の不貞を目撃してしまったというのである。

〈それは七月十八日も深夜であった。その日、夕方から来邸して華子と用談中の戸田氏がなかなか辞去する気配がない。もう大分遅いようだからとそれとなく帰宅を促そうと客間に行って見た二人の姿は見えなかった〉

〈私は附属のクローク・ルームを何気なく開けてみた。――そして私は、そこに見てはならない戸田氏と華子との姿を発見したのだ〉

〈夫である私は半狂乱になったことを記憶している。翌朝我に返った時、客間のフロアーには血糊が飛散し、私は病院で骨折の手当を受けた〉

 怒りを抑え、翌日、博信は妻の華子と話し合う。

〈私の問 『昨夜の出来事について華子はいま大変悪いことをしたと思っているか。私に対して大変済まないことをしたと思っているか』

〈妻の答 『法律上は泥棒や人殺し程悪いことをしたとは思っておりません。虫のよい話ですが、私は今後長男の部屋に寝てもよろしうございますから引き続きこの家に住まい、衛生婦人会の仕事をやってゆきたいと思います』〉

 博信は妻の答えに愕然とする。その仕事を続ける限り、戸田との接触は続くのだ。

終戦後、貴方は貴方、私は私、夫婦とは単なる男女の同居という家庭が一部の階級には相当あるらしい。そんな家庭生活を喜ぶ夫婦ならばそれで済むことであるかも知れぬ。しかし私には向かない。(中略)何か自由ということのはき違えではないだろうか。自由ということを掘り下げてゆくと、真の自由は自律的には随分不自由なものではなかろうか。それが私が離婚を決意した理由のうちの一つである〉

 彼は最後に記者にこう語る。

「あの時から数日は、眠られぬベッドの中で幾度か自殺の衝動にもかられました。しかし離婚の決意は冷静な判断の上に立って決めたものであります。(宮内庁の)田島長官にも“仮に天皇さまが皇族全体の名誉のために離婚を思い止まれといわれても、私はお断り申します。そして日本国を離脱して謹慎します”と申しておきました」

「尼になりたい」という娘の談話まで掲載された記事の反響は凄まじかった。

 華頂華子の心を奪った戸田豊太郎とは、どんな男なのか。

 毎日新聞は、旧華族出身の女性、徳川喜和子に取材することによって、この疑問に答えている。

 前年まで戸田の妻であった徳川喜和子は、離婚を報じる新聞を見た時、すぐに前夫が一役買っているに違いないと直感したという。

〈私と華頂さまはイトコ同士。そんな関係で華頂家の事情もよく知っていたからです。戸田は最近方々のダンス・パーティーなどに華子夫人を連れ歩いていたようでした。(中略)華子夫人が兄閑院さまのご忠告を聞きいれて賢明に振舞われるのが最善の途かと存じます。私の手痛い経験からみましても……〉

 あの男は女たらし。15代将軍慶喜の孫娘は、そう言わんばかりである。

 2年後、華子は戸田と再婚し、不倫を成就させる。一方の華頂博信も再婚して第二の人生に船出するのだが、戸田に慰謝料の支払いを求めて提訴。31年、東京地裁は「原告に50万円の慰謝料を支払うべし」との判決を下す。

「博信氏は敬虔なクリスチャンで大変に無口な人でした。華子さんにとっては面白みがなかったのも無理はありません。皇太子妃候補になってもおかしくない、綺麗なお嬢さん(治子)がいたのですが、この一件で、そのような話は全く出ませんでした」(皇室ジャーナリストの河原敏明)

 アプレの妹に手を焼きながらも、閑院純仁は手記などを発表して華子を弁護していたが、華子が戸田と再婚すると怒り心頭に発し、一時は兄妹の縁を切った。

 妹の離婚にすっかり気分を害した純仁であるが、その5年後、まさか自分の妻が「ノラ3号」になるとは思いもしなかった。

 閑院直子は五摂家の一つ、一条家から、大正15年、陸軍騎兵少尉として近衛騎兵聯隊に勤務していた純仁(当時は春仁王)のもとへ嫁いだ。純仁24歳、直子19歳の夏である。

 が、軍事教育を受けた夫と開放的な気質の妻は折合いが悪く、子宝にも恵まれなかった。純仁の述懐によれば、「結婚して約8年の間、夫婦の間は冷ややかであった」という。

 では、9年目から仲睦まじくなったのかというと、そうでもない。

 終戦後の23年、純仁は日記にこう記している。

〈直子は予の意を汲み得ないところも少なくなく、予として不満もあるが、しかし彼女はかわいい。夫婦円満だ。昔のことを考えると、夢のようである〉

 元宮様の常として、閑院純仁も様々な商売に手を出すが、殿様商法ゆえ、どれもパッとしない。

 そこへ小田原女子学院(現在の小田原女子短大)の設立話が持ち込まれた。当初は渋っていた純仁だが、結局、土地の提供と妻の名誉学長就任を認める。

 開校は31年4月であるが、ここで登場してくるのが、教務課長の高橋尚民である。47歳の直子に対し、高橋は11歳も年下の36歳であった。

 閑院家には、戦時中、純仁の部下だった西口加平という忠義な使用人がいた。

「小田原で巷に直子夫人と高橋教務課長に関する困った噂が流れております」

 31年夏、不穏な噂を耳にした西口は純仁にそう報告する。

〈昭和三十一年九月二十九日、その日は土曜日であった。(中略)妻直子が最近知りあった高橋という人と、たいへん懇意にしていることをかねて知っていたし、これまでたびたび注意したことはあったが、この日もまた、私はきわめて穏やかな態度で、しかし端的なことばで、妻に注意を促したのである〉

〈ところが彼女は暫くほとんど無表情で聞いていたが、やがて突然「私はここを出て行ってしまう」というのが、その口から出たことばであった。そこで、その意味を確かめたところ、離婚の意であることを知って私は実に愕然とした。青天の霹靂以上の驚きであった〉(『私の自叙伝」閑院純仁著』

 妹もそうなら、妻もまたアプレだったのである。

〈彼女はいった。「自分は高橋によって、心の扉がひらかれた。自分は今まで盲目であった。これからは真の人生を歩きたい」と。また「地位や名誉は所詮意味のないものだ。自分はいっさいを投げすてて、ひたすら人生の幸福を求める。どうか一生に一度のわがままを許してくれ」と〉

〈私は答えた。「今お前は心の病気をしているのだ。(中略)私は離婚は絶対しない。お前は私の心の妻であれば、それでよいのだ」と〉

 閑院邸を飛び出し、千葉市弁天町の高橋家で同居生活を始めた直子は、頑として離婚に応じようとしない純仁に対し、34年、家裁に離婚の調停を申し立てる。

 さて、ここに『女性自身』の古い記事がある。

〈男性しか愛さなかった夫をすてて……元閑院宮直子さん〉(44年11月29日号)

 直子は、この高邁な雑誌に閨房の秘密をブチまけている。

〈宮さまが生理的に異常だとハッキリ気づいたのは、満州へ渡ってからでした。(中略)私たちの寝室にはシングルベッドがふたつありました。酔ったときは、宮さまは兵隊といっしょに寝室へ入って来るのです。宮さまは、その兵隊を自分のベッドに入れてふたり並んで寝るわけです〉

〈私は別のもう一つのベッドの中です……何をしているのかよくわかりませんが、互いに抱きあっていたようでした……そうして、ベッドルームに入って来た兵隊は4、5人だったでしょうか?〉

〈これがもし、女のひとなら私もヤキモチを焼いたことでしょうけど……もちろん、宮さまはお風呂もほとんど兵隊といっしょでした……あんなに兵隊をかわいがるなら、なぜ、妻の私を、と考えたことが何度もありました。……でも口に出してはいえませんでしたの〉

 さらに、戦後の新生活に軍隊のゲイ仲間が入り込んできて、純仁と一緒に風呂に入ったりしていたというのである。

 生涯の伴侶となった高橋尚民も、「宮様は女性を必要としない体で、西口とは特別な関係にあるということは当時、周知の事実でした」と主張。

 これに対し、直子が他界した平成3年、西口は本誌に、

「確かに殿下と直子さんの間に、接触はあまりなかったようです。しかし、その理由は殿下が病気だったからです。病気というのはいわゆる性病のことで、軍隊にいる時にうつされたようです。直子さんを愛すればこそ殿下が接触しないのだと、直子さんからお聞きしたこともあります」

 と苦しい弁明。さらに、その4年後には、

「宮様にはご落胤がいる。私が知っている限りで4人います」とも主張。

「仮にご落胤がいたとしても、名乗り出る者もないまま、昭和63年の純仁の死とともに、名門閑院家は7代で途絶えることになった。(敬称略)

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