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防衛省によりますと、2日午後0時23分ごろ、北海道の知床岬周辺の上空で、ロシアのMi-8ヘリコプターが日本の領空を侵犯しました。

航空自衛隊の戦闘機がスクランブル=緊急発進して無線で警告を行い、数分後に領空を出たということです。

ロシア機やロシア機とみられる航空機が日本の領空を侵犯したとして、防衛省が公表したのは、去年7月に島根県竹島付近でロシア軍の早期警戒管制機が領空侵犯して以来です。

ヘリコプターの機体の側面には医療航空機であることを示す赤色の十字のマークがあり、防衛省は所属や飛行の目的を分析しています。

この文書は、ロシアの首都モスクワにある国立公文書館で見つかり、終戦直後にシベリアに抑留された日本人のうち、およそ6万人分に上るとみられます。

抑留者が日本への帰還を前に一時的に集められた極東ナホトカの収容所で1946年から1950年にかけて書いたとみられ、「感想文」などとして抑留生活を総括する内容がそれぞれ1枚の紙につづられています。

多くは「ソビエト社会には民族差別はなかった」とか「一生を通じて忘れえない貴重な体験だった」などとソビエト社会主義などを礼賛する内容となっています。

当時、ソビエトは、抑留した日本人に対して社会主義体制の意義や反米的な思想の教育を徹底していたとされ、今回の文書もその一環で書かせたとみられます。

ソビエト側のねらいについて、シベリア抑留に詳しい富田武成蹊大学名誉教授は「当時は冷戦で、ソビエトも日本を味方につけたかった。日本に帰ったら共産党を応援し日本の中に反米的、または親ソビエト的な人を増やすのが最大の目的だった」と述べ、ソビエト側には、アメリカとの冷戦も見据えて日本に反米的な勢力を少しでも拡大させたいねらいがあったと指摘しています。

今回見つかった大量の文書の中には、東京に住む石渡芳穂さん(99)のものもありました。

石渡さんは、昭和17年に旧日本軍の兵士として満州に渡り、第2次世界大戦の終結直後にはソビエト軍の捕虜となりロシア極東へ連行されました。

厳しい寒さの中で、飢えに耐えながら木の伐採やまき割りなどの過酷な労働を強いられる日々を4年間、過ごしました。

しかし、帰還する前に抑留生活を総括するものとして書かれたとされる「感想文」には、吹雪の日にガリヤンという名前の収容所のロシア人薬剤師に頼まれてまきと石炭を届けた際、暖かい部屋に招かれてパンやお菓子などをふるまってもらったというエピソードが書かれていました。

そのうえで「資本主義やファシズム国家ではありえない世界だ。社会主義国家、ソビエトのみができる民族的差別のない美しい光景である」と、ソビエトを礼賛する内容が記されています。

70年以上前に書かれた「感想文」を見た石渡さんは、自分の字であるか確信が持てないとしながらも「確かにガリヤンという人はいました。よく覚えています。太った方でしっかりした方です。うちに招かれて、ごはんをごちそうになったことも確かです」と当時を振り返っていました。

また、ソビエト社会主義を礼賛する内容については、抑留中にたびたび思想教育を受けていたことを明かしたうえで「活動家になればもっと早く帰れるんだって何回も聞いた」と述べ、当時は早期の帰還を望んでいただけで社会主義に共感していたわけではなかったとしています。

今回見つかった文書は、日本海に面するロシア極東の港町、ナホトカにあった収容所で書かれました。

ナホトカはシベリアに抑留された日本人が日本に帰還する際の中継地点となり60万人とも言われる抑留者のうち、帰国できた人のほとんどはナホトカから出港した引き揚げ船に乗って日本へ帰還しました。

ナホトカには強制労働のための収容所のほか、帰還する際の中継地点として設けられた収容所がありましたが、今はそれらの建物は残っておらず収容所で亡くなった日本人抑留者のための慰霊碑が丘の上に整備されています。

収容所のあった地域に住む79歳のワレリー・チェルニコフさんは、引き揚げが行われていた1950年当時、ナホトカにいた日本人抑留者の姿を記憶しています。

抑留者は、港で建設作業にあたっていたということで、「日本人たちが何人かで重い石を運ぶときのことをよく覚えています。

『せいの、よいしょ』と声をかけていました」と話していました。

日本人抑留者の中にはロシア語を話す人もいたということで、チェルニコフさんは「私の母にパンやジャガイモをもらえないか頼んで、代わりに工芸品をくれる人もいました。

親切な印象でした」と振り返っていました。

シベリア抑留について詳しい富田武成蹊大学名誉教授は抑留者たちが日本へ帰還する前にソビエト社会主義などを礼賛する内容の文書を書かせたねらいについて「当時は冷戦で、ソビエトも日本を味方につけたかった。日本に帰ったら共産党を応援し日本の中に反米的、または親ソビエト的な人を増やす。これが最大の目的だ」と述べ、ソビエト側は、アメリカとの冷戦も見据えて日本に反米的な勢力を少しでも拡大させたいねらいがあったと分析しています。

しかし、抑留者たちがソビエトを礼賛する内容を書いた真意については、日本への帰還直前に書かれた文書であるため、「これを書かないと帰るのが遅れる、よけいな抵抗をすると帰る順番が後回しになってしまうという計算も働いた」と述べ、必ずしもソビエトの思惑どおりに社会主義などに傾倒していたわけではないと指摘しました。

また、文書の中には「実際にはつらい思いをしている時、ロシア人にちょっと助けてもらったりけがの手当てをしてもらったりした経験がある人もいて、それに対する感謝の気持ちを書いたケースもあった」とし、元抑留者の平均年齢が97歳となり、当時の状況について調査するのが極めて困難になる中、今回見つかった文書は、当時の抑留者たちの心のありようを理解するのに役立つ資料だとしています。

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